ご挨拶

初めて福島に来たのは2013年2月だった。
それまで私は福島とは縁もゆかりもなかった。
「福島県」が日本の中でどこに位置するかさえも知らなかった。

震災が起きなければ、私が福島に移住することはなかったかもしれない。
震災が起きなければ、今私が日々対面する人たちとは一生出会わなかったかもしれない。
そう思うと不思議である。

都心から離れた郊外にある東京都日野市で生まれ育った。
母親は茨城の出身で、幼い頃の田舎での暮らしを聞くのがいつも楽しみだったこともあり、いつか田舎暮らしをしてみたいと思っていた。

性格は好きなものにはとことんのめり込むタイプ。
深く入り込むほどに、地底の深い部分に触れることができるような気がする。
気に入ったら同じ本を何度も読む。
同じ音楽を何度も聞く。

めんどくさがりで横着。
やるべきことをいつも後回しにして怒られる。
ぎりぎりになっていつも大事なことに気付く。

興味があることに関しては、思い立ったらすぐ行動する。
しないと気が済まない。
自分に正直。他人にも嘘がつけない。

        *

震災が起きるまで、原発が何かも知らなかった。
電気がどうやって発電されているのかについて気にしたことはなかった。
多くの人がそうかもしれない。

震災で爆発した福島第一原発の発電する電気が東京に送られていたことなんて知る由もなかった。
でもその事実を知ったとき、私はどうしようもない気持ちになった。

1年が経過した頃、東京で暮らす人々は震災のことなんか忘れているように見えた。彼らの目にはそれらは過去でしかなかった。現在進行形の事実ではなかった。
目の前にやるべきことがあったし、過ごすべき日常があったからだ。
そうして人々は震災があったことを忘れていった。

しかしニュースや雑誌や新聞で見る福島の現状を考えると、それはばかげたことのように思えた。どうして電気を使っていた東京の人間が優雅に毎日を送っていて、福島の人はそうではないのだろう。そんな違和感は、日々原発や福島の現状を調べて知っていくにつれて膨らんでいった。

その後は福島関連のNPOのイベントに参加したり、講演会に行ったり、大学で情報発信のためのサークルを作ったりした。

そして当時ジャーナリスト志望だった私に、知人が紹介してくれたフリージャーナリストのある人が言った。「福島のために何かしたいならまずは福島に行ってインタビューしてくることだな」

その一言で、私は2013年2月から福島県でインタビューを始めた。
震災が起きる前のこと、震災時のこと、その後の生活のことを聞いた。
聞けば聞くほど、私は自分が今まで何も知らなかったのだということに気付いた。
福島のために何かしたいのなら、現地の人が何を考えているかを知らずに動くことは逆に迷惑をかけることになるかもしれない、そう思いインタビューを続けることにした。

そしてこのウェブマガジン「ヴェルトガイスト」に寄稿させていただくことになったのも、編集長吉田邦吉さんとインタビューで縁があったからだった。

        *

東京から福島に通うだけでは本当のことは見えないかもしれないと感じていた。
2014年4月、思い切って私は福島に移住した。

8月から福島県田村市都路町で復興支援員として活動している。
都路町の一部は福島原発から約20キロ圏内に位置しており、今年4月に避難指示が解除された。徐々に住民が帰還するなかで、細かいサポートを行い地域が持続可能になるよう活動している。

めぐりめぐって福島に来たことは大きな意味があると思っている。
出会った人、土地、景色、空気、雰囲気、心の奥底の声、喜びや悲しみ、そういったものすべてに触れられる日々を大切にしたい。
そして自分の目で見たものだけを伝えていきたい、そう思っている。

まだまだ新参者ですが、新しい福島県民として、ウェブライターとして、今後ともどうぞよろしくお願い致します。

ご挨拶

こんにちは。天井といいます。茨城県に住んでいます。

この場をお借りして、福島県との関わりの中で感じたことをいくつか書かせていただきたいと思います。その前に、僕自身の震災後の福島との関わった経緯を少し書かせてください。

震災時、僕は茨城県水戸市に住んでいました。
当時していた仕事の合間に、
被災した近所や水戸市内や大洗町で復旧作業を手伝っていました。

一週間ほどすると徐々に自分の生活が落ち着き出し、
テレビが伝え続けていた東北で何かできないかと考え始めていました。

そんな中、出会ったのが「茨城NPOセンター・コモンズ」というNPOでした。3月中旬から茨城県北茨城市や福島県いわき市への物資支援活動を始め出していた団体です。

物資調達・整理の手伝いに参加し、4月から始まったボランティアバスでいわき市へと通いました。6月からはNPO職員になり、いわき市へと派遣され、市内に設けた事務所を拠点に動き始めました。いわき市で出会った方々の話を聴きながら必要な場所で活動をするというものでした。

主な活動としては、

・小名浜地区災害ボランティアセンターの運営サポート
・他の地域より復旧の遅れていたいわき市北部の久ノ浜での活動
・避難所から仮設住宅に移った方々の話しをうかがうこと
・新たな住宅での自治会発足のお手伝い
・仮設住宅内の広場で子どもたちと遊ぶこと
・福島県内の状況や活動している方々の情報収集・情報共有

また、原発事故の大きな影響として
福島県(東北や関東)から全国へ移り暮されている方々が多くいます。

2011年後半には団体として茨城県内に移ってこられた方々へのサポート体制をつくっていくことになり、それに合わせて僕も2012年始めに水戸市へと戻ることになりました。

それから2014年春に退職するまでの2年間は
茨城県内の団体と連盟でつくられた「ふうあいねっと」の事務局として

・つながりの場づくり・情報面のサポート
・相談の橋渡し
・支援団体間の調整役
・福島県と行き来して福島県のことを知る

などをしてきました。
その中で産まれてから約2年づつ住んでいた
福島、宮城、岩手のことに気持ちが入っていきました。

やってきたことだけ書くと沢山ある気もしますが
若いからこそできたこと・できなかったこと。
よそ者だからできたこと・できなかったこと。

求められていることに対してできたこと・できなかったこと。
なにをやっているんだろう、なんて無力なんだと思うこともありました。
そんななか気の合う方々に出会ったり、可愛がってもらったり、
福島、宮城、岩手で過ごしてきた子ども時代のことを思い出したり、
たくさんの感情や視点や状態とも巡り合いました。

それが嬉しくもあり、楽しくもあり、悲しくもあり、苦しくもあり。
明確な答えはないし、浮き沈み変化も確実にすると思いますが
答えはシンプルなものの中にある気がしています。

そんな未完成な状態の中にも、
今は確かに「その何か」が自分の中にあると感じています。

長くなりましたが、どうそよろしくお願いします。

天井優志

イメージと思考と身体性

難しそうなタイトルをつけてしまいましたが、要はアタマとカラダの関係ついての四方山話よもやまばなし

私が今より0.8掛けくらいスリムで、筋力もあり、あごや首のたるみもまだ(気になら)なかった頃、モダンダンスを習っていました。
基礎的な身体の使い方を学ぶメソッドだったので、ベリーダンサー、パントマイマー、舞踏系、ジャズダンス歴の長い人など、いろいろな人が来ていました。

どのジャンルの踊りも、身体の可動域を広げるためにメソッドを使って訓練をするわけですが、それぞれ型があり、その型にのっとって振り付けをします。
最初から最後までインプロビゼーション(即興)で好き勝手に踊る場合をのぞいて、振り付けを覚える、あるいは身体の動かし方を習得するようなときには、必ず「あたま」で考えて「からだ」を動かします。決して気持ちのいい方向へ身体が勝手に動くわけではないですね。
しかし、「考えながら」踊っていると、振り付けの意図が伝わらないし、面白いことに第三者が見ると、あっ振りをなぞっているな、とすぐにみえてしまうのです。

そこで、指導者や身体表現者は、よく「考えるな」ということを言います。あたまで踊るな、とよく言われました。
振り付けの順番やここをどう動かそう、なんて考えるなくとも「無意識に」身体が動くよう、からだにたたきこませろというわけです。

「からだ」と「意識」との関係は、とても興味深いものがあります。
例えば、今私がこの文章をキーボードで打ち込んでいるとき、私の意識は眼窩がんかの奥くらいのところにある感じがします。(たぶん、脳のどこかなのでしょう)思考の流れを文章に書き写すことに集中し、手はあたまの指令に従って動きます。

そこで、意識を身体の内部、例えばおへその奥とかに集中させる、といってもなかなか難しいので、目をつぶって、のどから液体のようなものが入ってゆっくり食道を通りおなかに達する、というようなことをイメージします。
これはヨガや瞑想も同じようなことをしますね。身体から思考を引き離す訓練をするわけです。
名のあるモダンダンサーの方が、頭の内側を鉛筆でぐるぐる書いてみるとか、腕の内部をボールがころころ転がるのをイメージする、ということをワークショップで行っていたそうで、これも同様だと思います。
不思議なことに、客観的にみても人の動きはじめがどこから出ているか、かなり目に見えます。
身体の内部で具体的にイメージする、ということが鍵となる気がします。
脳科学的に言えば、イメージすることも脳のどこかを使っているはずでしょうが
論理的な思考とはまったく違うルートではあるようです。

そういう独特の訓練をして、作品を作ったりしていたわけですが、あるとき、暗黒舞踏をやっていた人が、あたまで踊ってもいいじゃないか、と言ったのです。
モダンダンスには古典のような厳格な規範はありませんから、あたまだけで考えた踊りも足の小指だけの踊りもアリじゃないか、なぜいけないのかと。
ちょっと自分の発想がひっくり返りました。(それが見て面白いとか、すばらしいものになるかは別として。)
その人は、他人との差異がおもしろい、とも言いました。
似たような価値観の人が集っている中で、肌合いの違うものを認めることに少なからず抵抗のあった私には、かなり衝撃でした。

話が身体性から離れてしまいましたが、思考することに偏重しているいま、「動く瞑想」みたいなものを、自分が昔していたことを思い出して、このところの自分の身体の崩れようは、加齢と運動不足のせいばかりではないかも、と思い至ったことです。

結構、フクシマのことを。

みんな福島のことをーー自分は福島に行ったことがない。

最近、福島に行った事がないのだが、結構、福島のことが話されていることを書いておきたい。

私がよく行く岐阜県の山村は、やはり都市部への電力供給地となった徳山ダムと同じ町名になっている山村である。「犠牲者1万人」の手書きのキャプションつきで集落内の草刈の写真と一緒に張られてあるのは震災の写真である。みんな川下の町へ出ていってしまった村なので、行事の時だけ、戻ってくる。

2012年1月9日 岐阜県揖斐郡春日村 山の講を見学中に撮影

2012年1月9日 岐阜県揖斐郡春日村 山の講を見学中に撮影

村は、大飯原発から50キロ圏内。美浜で事故があった後(04年蒸気噴出事故、作業員4人が死亡)。村人が中部電力聞き取りにいった。その対応の感じに「あーんな、ええかげんな。事故が起きて北風吹いたら村は終わりじゃ。」政治色はどちらかと言うと保守の御仁だが、こんな感じ。100人を切った集落。夫婦のどちらかが死ねば村を出て行く。「情けない、村は終わりじゃ」と言いながら、村の思い出話と、原発の話をする。川が音を立てて流れている。峠を越えれば福井県である。この村は炭焼きが盛んだった。戦争から帰ってくると村で炭を焼き、村に木がなくなると、小浜、京北へと炭焼きに焼き子にいった。炭から電気に変わったのが昭和30年。山で稼がなくなると下(川下)へ出て行った。

東北と福島

東北には、海産物に関わり“復興”をしている私の友だち。なかには、放射能は光化学スモックより危なくない……、なんて公言する私の友だち。「でも、それなら、なぜ、福島のある地域の人は戻ってこれないのだ」。そう言いながら自分は、ノーベル中村が比較衡量について語ったことを思い出している。「この国は正義で判断しない。必ず大多数の利益と比較する」(ノーベル中村)。多くの人の利益を守るために、正義も、本当のことは言ってはいけない。福島ではどうして、生まれた土地を離れるんだ。ただ、この問いを友だちに言う事もないだろう。私がこう書いていることもとっても悲しく思うだろうな。

「福島は事件だ、私らとは違う」と一人の友だちが言った。津波で豪邸が流され、エメラルドの海を見下ろす高台にある仮設に住んでいる。事件と天災は違うと言う彼女。「もう三年だし~」。家に戻れない福島の人とは違う。彼女の父さんも津波の話は決してしない。

そこから、南下して、また知り合いの漁師に会いに行く。アイナメのベクレルの値が基準値を上回って売れなくなってしまったこと。震災で魚をしばらく取らなかったこともあって、魚が戻ってきた。養殖場の汚れも津波がきれいにしてくれた。それなのにアイナメといった高級魚が売れなかった。8割の補填があるが1日20万円ぐらいあった売り上げには響いた。牡蠣の工場も震災で全部やられた。3年以上経って、やんなる〜なんて言ってるんだろうな、いまごろ。

そんな東北の人たちの海は、三陸海岸の始まりにある。エメラルドグリーンの入り江。その入り江を伝って南下すると、福島がある。

2012年 宮城県東松島市宮戸つづら浦付近 白魚漁を撮影

2012年 宮城県東松島市宮戸つづら浦付近 白魚漁を撮影


いつか寄りたいと思ってる。どこに行っても、みんな、福島のことは話題にするので、行ってなくてもなんとなく身近な福島。

霧の海へ

この夏、青春18きっぷでJR常磐線竜田駅へ行ってきた。
来年の春以降に帰還が決まった楢葉町にある「原発に一番近い駅」である。

前日は会津若松に一泊し、早朝の磐越西線・東線を乗り継ぎいわきから常磐線で北上する。平日でも思いのほか人が乗ってくる。終点の竜田駅でも数人降りる人がいた。
駅前にはタクシーが数台と一部復帰した役場への送迎バスがとまっている。

最初は7月にオープンした仮設商店街まで行ってみようと思ったが、県民でもジャーナリストでもない私がひとりで行くのは気が引けて、闇雲に歩き出した。
よく考えてみると、「観光客」が町の用意した施設に行くのは当然であったのだが。

画一化された観光がいやで、バックパッカーのようなかたちの旅ばかりしていた。それが、ひなびた風情の好感の持てる旅先では、多少なりとも地元に還元しなくては
と思うようになったのは、齢を重ねたせいだろうか。

ただこのときはそれもせず、取材行為と言ってはおこがましく、何がしたいのか自分でも持て余しつつ、住民のいない町へ土足で入り込んでしまったのだ。あてどもなく。

いかにも不思議な光景ではあった。
すまいも店も誰もいないけれど、手入れはされているゆえに、荒廃した感じは少しもない。一般人が絶対入ることのできないフクイチや警戒区域*内が非日常であるとするなら、ここは日常へとグラデーションしていく途上にあるのだろうか。
あくまでも非当事者、よそ者の視点である。

※参考 福島県HP「避難指示等の経緯(PDF)

幹線道路に出ると、歩道の植樹帯にスコップを持ってかがんでいる女性が遠くに見えた。話しかけてみようか逡巡したが、どうにも気後れして通り過ぎてしまった。

線路際の神社にお参りをしたあと、海に向って歩いてみる。
駅周辺の集落から太平洋側は、雑草の刈り取られた田畑が広がっており、海に近づくにつれ、少しずつ霧がにじみだして視界が白くなる。

除染した土嚢を積む作業員や重機が遠目に見え、ときおり、除染作業のためのトラックが通り過ぎるが、汗をふきふき、ひとり歩く私を気にも留めない様子がありがたい。

堤防にたどりつくも、ますます霧は濃く海面も空も見えない。山での経験はよくあるが、海上からなんてはじめてのことだ。
天神岬スポーツ公園という、太平洋を眼下にみおろす公園まで歩く途中、自生している山ユリを処々に見かける。可憐。町の花であるそうだ。

高台にある公園では、芝生や植木の手入れを数人の方がされていたが、ここでも話はできず、会釈して通り過ぎただけである。情けない思いに苛まされる。

避難指示解除準備区域の何を私は知りたかったのだろうか。
歩きながらも心の中で自問自答しつつ、ただこっそりとのぞき見たような、後ろめたい思いが頭を離れない。

天神岬スポーツ公園  高木の向こう側は太平洋(2014年8月22日撮影:伊藤千惠)

天神岬スポーツ公園  高木の向こう側は太平洋(2014年8月22日撮影:伊藤千惠)

自分のことに限っていえば、原発事故後の福島を国全体のこととして捉えてきたつもりだが、そこに住まう人の心情と、よそ者の勝手な見解は常にずれを生じる。
ずれを埋めたい想いがここまで来させたのかもしれない。

しかし、住まう人との交流もできず、徘徊するだけの私に、楢葉の海は最後まで姿を見せてはくれなかった。
ただ、湿り気を帯びた濃霧を肌にまといながら、途方にくれて歩くも、
山側から吹きおろすひとすじの風は冷たく心地よかったのだ。

註:【福島県双葉郡楢葉町】
面 積:103.45km2
世帯数:2,718戸/人口:7,474人(2014.10.1時点)
2011.3.11 東日本大震災に伴う原発事故により全町避難、いわき市・会津美里町に役場機能を置く
2012.8.1 警戒区域から避難指示解除準備区域(立入可、宿泊不可)に再編
(出典:楢葉町公式HP、Wikipedia 2014年10月閲覧)