測定とは何だったのか。吉田邦吉

(はじめに断っておくが、わたしは放射線の測定に関する専門分野に関する政府所属の有識者ではないから、言説に責任をとれない。たとえそうであったとしても真実を述べているとは限らないとも思うのだが、いずれにせよ、この文章は、福島の数々の事象や公私専門家の話をほんの少しは読んできた一般人が考えて書いているという事例の表示である。つまり、環境省の引用など以外は政府機関でない者の思考だということである)

当初から数年間は不安解消に役立ったから全国各地に測定所が出来たのだろう。利用者がどのぐらいいるのかは定かでないし流行っている風にも見えないが、当初の不安な時期を中心に、食品に対して若干の不安を抱えている人達が安心するために使うのであれば問題ないように思われる。

たとえばわたしはガイガーカウンターのほうの話だが、極端に高い場所を探すときだけに用いるようにしている。つまり、普段0.1とか0.5ぐらいのマイクロSV毎時のところを計測して変化を見るのはあまり意味がなく、0.3と3マイクロの区別などを事故当初、探知するのに役立ったということだ。

どちらかと言えば、是が非でも測定したい人達ほど不安になりたいように見えるのは気のせいではないだろう。測定やモニタリングというのは、その数値の意味するところを分かっていないまま、この話題に家族を守りたい動機だけで参加すれば、不安と安心の狭間を揺らされる仕組みかもしれないのである。

たとえば1kgあってはじめて10ベクレルという数字が、誤差がプラスマイナス10の数値を入れたら、どのぐらい低いのか、そもそもゼロかもしれない、ということを理解したくない人達は100gぐらいしか食べない食品にこう思う。「そんなにあるんだ」「拒否」。でも本当は1kgの全てを食べても別に10ベクレルすら満たすかどうか分からない。

しかも最初の基準がないところにおける測定については高いも低いも言えないではないか。何と比べてそう言えるかと言うと、ただ単に「震災前」と比較するからそうなるのであって、逆に言えば、震災前という状況はすなわち安全ということを意味しもしないのだから、危険ということをも意味しない。これは「低線量の意味」において述べたことと話が同じである。

たとえば土壌の放射性物質に関してもすごく線量が下がりえる除染作業とか、半減期といってすごく線量が減っていく時間の流れ、そしてただ一カ所の測定を全部に及ぼすような周知方法という論理的過誤、といったことに気を付けることなければ、計測データとか科学とか事実などという名目で、誤解と偏見を広めることができてしまうだろう。冷静な理解を妨げるような見せ方も考え物だ。

その機器や測定行為や数値への理解の仕方は非常に専門的なことであり、素人がその数値を見ても、「ああ、誤差ばっかりだ。ほとんどゼロかもしれない、超微量ではありえるかもしれないが、つまりNDということかもしれない」と思うのが大体だと予測されるところ、「いや、ごくわずか、超微量だって含まれているかもしれない」という思考はどれだけ不安になっているかがわかる。

まず、その機械を用いるその現場と人の手や道具などは完璧な状況で運営されていることが透明で記録されて第三者など複数人が保証できるか。完璧でなければ、超微量というのは、測れないのである。出たとしても空気から混じってしまったものかもしれない。それに、濃縮して超微量があるかもしれないと言うだけなら、どんなものにも「あり得るあり得ない分からなさ」という超微量の数値とプラスマイナスが言えるのではないか。

つまり、非常に偶然性のなかでほんの目に見えないようなスーパー微量の数値のものが混じってしまったら、その時点でそのほかの食材の部分のすべてに「混じっているかもしれません」という言い方をすることになって、それが果たしてどのぐらい妥当なのか、また、その数値にしても基本のそのキロあたり何ベクレル誤差±という表示にしても、どのぐらいの人達が正確に理解する知識を持っているのか。

なにも知らない、なにも分かっていない、基準や数値の意味などについて、なんの知識もないのに、ただ表示がNDやゼロでないということを一般の人達が思わせられるとしたら、それはもう機械の表示の仕方のほうが全く素人向けではないとか怪しい場所だと言っても良いのかもしれない。そもそも機械はゼロを表示できないのだから。表示できるのはNDだけだ。それなのに無知のままで計測されたら最後、「ごく微量、あり得るかもしれませんが検出できません、NDです」と宣告されるのは魔女狩りにも等しい。

考えて見ればすぐわかることで、全世界の食品をぐちゃぐちゃに破壊して完璧に超微量まで計測することに意味がない。そんな風にしてしまったらどんな全国の地方の食べ物も食べられないからだ。破壊しない方式は個人的には破壊式よりも完全に超微量が計測しきれるとは個人的には思えないし、すべての個体を検査するわけではないだろうが、食べる前のものを検査できるという点で大変優れており、便利だから普及したらよいとは思う。東北大学が開発したそうだ。(参考 『利用技術 食品の汚染検査のための放射能非破壊検査装置』石井慶造 Isotope News 2015年1月号)https://www.jrias.or.jp/books/pdf/201501_RIYOUGIJYUTU_ISHII.pdf

つぎに、環境省のサイトを見てみよう。

【放射能や線量率の測定結果が「不検出(ND)」となっていることがあります。 これは放射性物質が全く存在しないことを意味するのではなく、検出限界未満の濃度であるということを示しています。検出限界値は測定時間や試料の量などによって変化し、一般的には測定時間が長ければ長いほど、試料の量が多ければ多いほど、小さい値になります。検出限界値を低く設定するとわずかな量でも検出することができますが、時間や経費を要することになり検査できる試料数の減少につながります。そのため、測定の目的に応じて分析機関において設定されています。】本資料への収録日:平成31年3月31日 引用(環境省)放射線による健康影響等に関する統一的な基礎資料(平成30年度版、 HTML形式)https://www.env.go.jp/chemi/rhm/h30kisoshiryo/h30kiso-02-04-03.html

以上

つまり、ND表示はゼロを意味しないのである。ゼロ表示があり得ないところで、科学を用いた機械を目の前にして「ゼロじゃないんだ」と思わせられることの意味は、どことなく「無知で計測は不安の押し売り」にも見えるとを少しぐらいは考えてみるような勉強会から先にしたりといったように、まず計測に関する知識をしっかり安定的にレクチャーを受けてから計測に及んでも良いのではないだろうか。

「全世界の全物質中に存在しないことの証明をさせられること」これを「悪魔の証明」というのだが(つまり立証困難なことの比喩で使われる)、その悪魔の証明をしなければ不安だ、恐ろしい、ということを促進してなにか社会活動かのように考えすぎてしまうのは、なにかが違う。

すなわち、無知で素人による機械での測定という行為は、あまりあてにならないのだ。専門家ですらこの辺りはまた多様であるのだ。単に、その場での平均的な数値に比較したとき、異常に高い数値と異常に低い数値が出るとき、それは区別して考えることができるから、あとは専門機関にその高いのを送っても良いかもしれない、という程度のものではないだろうか。

一人の有権者として、たとえば福島のお米についてもう全袋検査をし続ける必要がないとわたしは有権者として思う。ほかの食品についても同様だ。そもそも福島だけいつまでもNDやなにか計測の負担だけして表示させられているのが正しいかのような空気は間違っている。ほかの地域にも微量ならあるのに。福島だけその微量云々をいつまでも言われ続けるのは、福島を追い込んでないか。

【福島県は2日、東京電力福島第1原発事故後に実施している県産米の放射性物質の全量全袋検査について、早ければ2020年に果物や野菜と同じモニタリング(抽出)検査に切り替えると発表した。15年産以降、放射性セシウムの国の基準値(1キロ当たり100ベクレル)を超えるコメは出ておらず、5年連続ゼロの達成をめどに検査体制を見直すことにした。】(福島米 全袋検査、20年に縮小 5年連続基準超えなしで 毎日新聞 2018年3月2日 https://mainichi.jp/articles/20180303/k00/00m/040/103000c

もはや事故当初ではない。測定はつまり、事故当初に極端に高いところを探すには向いていたが、今ごく微量の話をするに一般人には必ずしも適してないということだろうから、適切な使用と理解へのレクチャーのようなものを受けてからなら超微量の計測に意味があるように考えられる。むしろ先に、世界に対して福島や日本全体への誤解や偏見などが根強く残ってしまっていないかを社会には考えて頂きたい。

だれか一人の意見がその地域を代表できるわけがないのだから、多様な「自分の地元」があって良い。それに、社会的にどのような論点に関しても反対などの数字は一定割合で出るものであるし、測定に関しても、人々みんなの努力と苦労によって、なんとか落ち着いてきたと考えるのが穏当なのだろう。なにより、地道に改善すべき流通の件もある。(※参考『こっちさこ!そろそろ福島産を自由にしてはどうか』吉田邦吉 WELTGEIST FUKUSHIMA

最初、「低線量」とは、どのぐらいのことだったのか。低線量の意義。吉田邦吉

低線量という言葉が言われるようになって久しいが、一見自明にも思えるこの言葉ほどヴェールに隠れているものもない。「低線量被ばくによる健康への影響は、どのようなものですか。」という質問に対して環境省がこう答えている。

引用はじめ

  • ①放射線による発がんのリスクは、被ばく線量が100ミリシーベルト(mSv)以下の場合は,他の要因による発がんの影響に隠れてしまうほど小さいことが分かっています。
  • ②積算した線量が同じであるときは、低線量率の環境で長期間にわたって被ばくした場合の健康影響は、短時間で被ばくした場合よりも小さいと推定されています。

ICRP publication 103より作成 
出典の公開日:平成19年3月 
本資料への収録日:平成29年3月31日

引用おわり
(基礎資料 第3章 放射線による健康影響 環境省 https://www.env.go.jp/chemi/rhm/h28kisoshiryo/h28qa-03-14.html

簡単に言えば、①で分かる。「低線量」というのは、被曝線量が100ミリシーベルト以下のことだろう。そしてそれは②において、長い間にわたって合計して被曝するほうが短時間で一気に同量を被ばくするよりもリスクが低いということだろう。

すなわち、「低線量の被曝だとして問題にしているのは、100ミリSV以下という大きな数字の世界」なのである。おそらくこの100ミリ未満という数字は、われわれ日本人の今の感覚からすれば、大きな数字であろう。日常的にガイガーカウンターで目にする数値が大体0.1マイクロ毎時とか0.5マイクロなどの数値だろうからだ。

ゆえ、ガイガーカウンターや事故後の空間線量の数値は「低線量」という言葉を違う感触のものにするには十分な効果があったのではないだろうか。少なくともSNSなどにおいて、計測した数値すなわち「超・低線量」について、かなり不安視している抽象的な意見傾向を見るに、このことを思う。実は「0コンマ」のマイクロSVなどのことは低線量ではなく「超・低線量」なのではないか

それでは次に、「低線量の被ばくによる発がんリスク」という項目があったので、それを出しておく(基礎資料 第3章 放射線による健康影響 3.7 リスク 低線量率被ばくによるがん死亡リスク 環境省https://www.env.go.jp/chemi/rhm/h28kisoshiryo/h28kiso-03-07-03.html)。

(なお、今わたしはどの順番でこの基礎資料を見ていくかということを考えていない。たまたま気の向くまま見ている。そうでないと、このような話に、直接的な被災当事者のわたしですら、そこまで興味は続かないからでもある。)

(わたしの文章は、一般人からのひとつの応答であり、いわば学術などに対して双方向的なことを目指していて、主体的に現実を考えていくケーススタディの一種として考えている。表現したときにそれは権力や学術すなわち社会の未来にとっても重要な参考として役立つことだと自分では思う。)

基礎資料より 環境省

前に覚えている反感としては「放射能という危険物質をタバコと一緒にされても困る」という反応だった。そういう反応が出てくるのは、第一に加害事実を無きものにさせないそして物質の有無こそが問題なのだという物理的実害の主張の件からの反論をしたい方向性なのだろうと思われる。だがここで言われているのは発病への総合的なリスクの蓄積のことである。だから「累積」という言葉があるのであって、事実が無いとは言っていない。すなわち科学的説明というのが受け入れられるには何らかの政治・社会・法的などの条件がそろっていないと難しいだろう。

念のため簡単に読み解いておくと、30%が個人の生活習慣などと書かれていて、100ミリで0.5%の増加が認められるかもしれないぐらいの話である。

環境省の説明を引用しておく。

国際放射線防護委員会(ICRP)では、大人も子供も含めた集団では、100ミリシーベルト当たり0.5%がん死亡の確率が増加するとして、防護を考えることとしています。これは原爆被爆者のデータを基に、低線量率被ばくによるリスクを推定した値です。
現在、日本人の死因の1位はがんで、大体30%の方ががんで亡くなっています。
つまり1,000人の集団がいれば、このうちの300人はがんで亡くなっています。これに放射線によるがんでの死亡確率を試しに計算して加算すると、全員が100ミリシーベルトを受けた1,000人の集団では、生涯で305人ががんで死亡すると推定できます。
しかし実際には、1,000人中300人という値も年や地域によって変動しますし※、今のところ病理診断のような方法でがんの原因が放射線だったかどうかを確認する方法は確立されていません。そのため、この100ミリシーベルト以下の増加分、つまり最大で1,000人中5人という増加分について実際に検出することは大変難しいと考えられています。

つまりこの図を見て思うのは、(超でないどころか)「低線量被曝のリスクからして非常に微細な世界」であり、今のところ立証できないぐらいのことなのだろうということである。そもそも「がん」というものは総合的なリスクから発生してくるものでもあるから因果関係を明確に何か1つに出来ないことが原因に思われる。だからこそ気にしないという人も居れば、どれがそれと分からないから全て人工的な、しかも自ら選んでないものを特にそこから避けたいと思う人々の気持ちも分かる。受忍限度論がその人々にとっては今も超えているということに他ならない。そもそも自分の思考を自ら否定したり変えていくことは相当に容易でもない。

むろん、人間がカリウムを含む食事をしないことや太陽光や公害0%の世界で暮らすことは不可能なのである。それでも、人間はたとえ超・低線量被曝であっても被曝したら回復など間に合わないと考えている人々には恐ろしい話なのかもしれないしダメージは受けたくないというのも人間の本能であるだろう。3・11当時は当然として、さらに、本能から来る感覚的なことを否定することは困難がある。だから「個人的に怖れたい人にはそうさせよ」と言うのが最も自由なのであるし現実にもそういう人がこういう文章を読むことなどまず無いとわたしは自らの見聞をもとに想像する。

つぎに、環境省はこう述べる。
「放射線による影響も、その約85%は放射線により生じる活性酸素等の影響であり、約15%が放射線による直接の損傷によるもの」(基礎資料 第3章 放射線による健康影響  3.2 人体影響の発生機構 DNA→細胞→人体 環境省https://www.env.go.jp/chemi/rhm/h29kisoshiryo/h29kiso-03-02-03.html

微細ダメージのほとんどが活性酸素だった
百科事典マイペディア(コトバンク)によれば「活性酸素の働きは,免疫,発癌,老化などに関連しており,盛んに研究されている。」とのことである。線量などの「数字」をそのまま放射線そのものとしてすら適用できず、よく聞く活性酸素がほとんどなのである。脳や栄養などの本で読んで、活性酸素は老化するものの原因物質であるという認識がわたしにも昔からある。

厚労省のe-ヘルスネットの情報提供によれば、活性酸素とは「私たちが生命活動を営む上で酸素の利用は必須となります。呼吸によって体内に取り込まれた酸素の一部は、通常の状態よりも活性化された活性酸素となります。ヒトを含めた哺乳類では、取り込んだ酸素の数%が活性酸素に変化すると考えられています。活性酸素は、体内の代謝過程において様々な成分と反応し、過剰になると細胞傷害をもたらします。」(最終更新日:2019年3月4日)(高橋 将記)(https://www.e-healthnet.mhlw.go.jp/information/food/e-04-003.html

酸素は人間に必要であり、呼吸からして活性酸素になっていくという。呼吸して、食べ物を食べて、あらゆることが活性酸素になっていく。そしてそれは回復するが、極端な過剰が宜しくないということである。なんでも過ぎたるはそうだろうと思うのだが。どのように回復しているのかは、いまのわたしたち自身がそれを証明していると言えるのだろう。抗酸化作用という言葉も日常的だ。休んで、動いて、眠って、適度な暮らし。

この話は、「超・低線量(一時的に0コンマの世界)」と「低線量(一定期間での100ミリ未満の累積)」の両方に当てはまる話であろう。だからタイトルが「低線量」となっていると思われるが、もしかしたら「超」のほうは含まれない可能性すらある。つまり、ほとんど気にするレベルというほどには何も判明していない。放射線が原因だということが数的には判明していないということだ。※「気にするな」とわたしは言ってない。なんでも意識に上ること人の自由。

一定期間での100ミリ未満の累積した被曝というのがどのぐらいの期間か」はおそらく曖昧すぎて簡単に断定できるものでないだろう。むろん一定のその期間中に回復しきって今や存在し無い過去のダメージまで積算してしまったら、どのようなものでも相応の量になると思う。やはり短期間であればあるほど危険だということになるだろうが、まず、数時間で100ミリとか数日で100ミリといったことは一般の日常生活ではまず考えられないだろう。

巷では0.1~0.5マイクロSV毎時などと言っている話だが、100ミリSVというのは、「1ミリ=1000マイクロ」なのであり、この場合にミリをマイクロに直すと、100×1000であるから、100ミリSVとは10万マイクロSVという巨大な数字ということになる。たとえ自ら浴びようと思っても、「低線量」を短期間で浴びることは日常生活では不可能だと思われる。

ゆえ、浴びることができるのは、超・低線量の被ばくなのである。こうして、「超」のほうが日常生活にありふれているからこそ、その超・低線量のことが問題視されていくようになるのだが、その実、「問題視していたのは、超微量の低線量ではなく、日常生活には無さそうな巨大な数字である低線量が原則的な問題視だったのではないか」ということをわたしは思っている。

熱狂・正義・依存のSNSはキナ臭い。吉田邦吉

自分の見えているフィードやタイムラインとは違うような、政治的なSNSポストを検索し、眺めてみたことがあるだろうか。けっこうな回数と年月でおこなってきたわたしは、考えさせられ、若干心配にすらなっている。

ある論点において、ライク数や支持者数などの多い少ないによって、意見の採用を決して行くとしたら、それは、動員数の多い意見勢力が勝つだろう。そういうのは人気取り主義だから、おおきく判断を誤ることがある。最近のSNSを見ていて心配だと思うのは、ライク数を多く受け取っている人ほど相手側の意見に共感や考察などを寄せることが少なくなっているように見受けられる場合だ。その意見や表現に反発を覚える相手側に何の思いやりもない。いわゆる「やっちまえ」的な動きの過剰な世界にはなんらかのきな臭いものを感じずにはおれない。

そういう「不寛容なこと」は多々起きていて、そのたびにSNSでは「リツイート合戦」とか「ライク合戦」が起きている。「ライク数の多さイコール正しいという誤解」も作りやすそうだ。とにかく、そういう風に数値を競争しがちな世界なので直接的な政治系は炎上しやすいのだろう。そういう対立構造のことは炎上とともに、あたかも人気取りで是非などの判断をするかのように見える。そんなことでは、いつかこの国が全体主義におちいってしまったとき、「多数ライクだから正しい」ということになる。本当にそれで良いのだろうか。閲覧数やライク数は正しさとは全く違う。

正しさとは、たとえば対立構造においては、双方に持っていることがある。そのような性質のものだから、それについて学んで学んで、考えに考えて、それでも間違っているかもしれない、自分は本当にいかに多くのことを知らないのか、ということを知るためにあるような、ある種の、考え方の方向性を指示してくれるかもしれないが、過ちも大きくするような、そういう、熱狂すると危ないような、魔法の軍配みたいな面がある。うまく使わないとケガをするものではなかろうか。いや、使うという考え自体を考え直すべきかもしれない。まずは、正義の多様な姿を知ることがきっと役に立つだろう。

一方通行で熱狂すると危ないのが正義なのに、なんらかの正義を考えるような話のことに関連して熱狂的なライクなどを指標の一つにしたら一体どうなるのだろう。ライクやリツイートは人に依存性を持たせるからSNSを人は続けるようになるという話をどこかで聞いたことがある。SNSというのは肯定感で出来ているため、否定されたり反論されたり考えたりということが、けっこう苦手になるような傾向の場所なのかもしれない。むろん、それはそれできっと長所が多々あるだろう。何らかのチャンスがある場所だとも言える。ただし物事は一長一短だ。いつか、権力を批判すること自体が排除され嫌悪される社会になるかもしれない。

そうしてSNSを見ていると、不寛容さがとにかく目立つような気がして心配になるのである。つまり分断だが、なんらの思考も思いやりもないというか、むろん感情的でもいいのだが、もはや激しく短気で直情的で被害者意識ばかりと言ったほうが的確かもしれないような表現の頻発と、そういう種類の表現が多数のライク的な支持を得て競争しているのを見ると、「どっちもどっちでやってるんだな」とか「洗脳ゲームだな」というように場合により見える。すると、その時ちょうど数の多い人達が勝って正しいかのような見た目になる。たった一人の個人を尊重することを、忘れたくない。

わたしたちのウェブマガジンではあるときからライクやシェアなどの「数の表示」を外した。それで意見を自分側に扇動するようになったら文としてよろしくないという思いからでもある。本は、1冊しか発行されていない本ですら素晴らしいものは素晴らしいのであって、1000冊でているからすばらしいという物では全くないと思う。むろんその際にはその際のそれについての別種の特徴や価値などの話はあり得るのだが。とにかく今ここで大切なことは、わたしが思うにだが、自分とは考えの違う人達をどう思いやれるかもあるのではないだろうか。

実害論を終わらせる。吉田邦吉

2015年ごろ。かつて私が風評被害論を嫌ったのは、多くの人々が風評被害も含めた実害で係争中なのにその損害を見えなくしようとする二項対立の動きに用いられていたのがそれだからであり、まだその科学的な情報も周知されていない頃だろうに恐れる人々を嘲笑し、なおかつ、当時は非常に巨大な復興ムードが強すぎて強制的に避難させられている私たちの存在があまりにも影だと判断したから公平性を考えたなどのことが理由である。

あの頃は今の野党が政権だった。多少は勝ち取れた面もあるのだが、最終的に私の闘争は恐らく2016年ぐらいで負けて終わっていた(私自身は気付いていなかった)。今は、大勢が泣き寝入りしていて、なおかつ、復興ムードが弱くなりすぎて、旧含めて避難区域の関係としては良いことがなくなったままであり、むろん私は無念に思っている。帰還困難区域の復旧復興は今からであるのにブームも終わってしまった。これからが長いのに風化である。

しかし危機ほど肩を落としてばかりいられない。勝負が終わったのだから潔くスポーツマンシップでいたい。一家をそして故郷を守りたい。ゆえ、風化は防止したくても、闘争というより大きな交渉時期がだいたい終わって、生活再建時期にやっと居始める私たちにとって、暴走的でスタンドプレーな実害論が必要とは思えない。福島にとって脅威にすらなるだろう超低線量被曝強調論がついて回っていることにも困惑している。福島に来ない関わらないのに暗黒しか取り上げないとか、来ても汚染アピールばかりして帰るでは嬉しくない。被災地を貶めて終わりにしないでほしい。被災地には続きがある。

元々この超・・・強調論に関し私は懐疑的である。そもそも被曝が深刻問題になるのは除染作業や原発作業ほどの被曝量であったと思われるからだ。むろん学究や意見などは自由だが、生業にも配慮ぐらいマナーだろうと思うのである。私たちは福島や地域が大事だからだ。外に居る人々は福島を言いたい放題に苦しめても、自己のテリトリーに帰れば普通に暮らしていられる。故郷に居たい人々はダメージ受けても故郷をやめたりできない。傷つけるは一瞬。回復は年月かかる。状況が不公平なのである。

日本全体でのブームは終わり、県民大体の表面での闘争も終わり、実害論ではもう直接的な当事者を守れない。それなのに福島に来て粗探しするかのようにガイガーカウンターを振り回し、しばしばネットで晒して政争のための批判をするばかりの強烈すぎる実害論をしたら、今度は直接的当事者たちを苦しめる。目的が転んでしまうのだ。もし、どうしても高い所のみ計測してネットに出し続けたいなら、自分でリスクをとり、自分の暮らす地元の線量計測でやり続けるべきだろう。すでに大変なことが分かっている福島でなくていい。自己の実際生活や除染申し込みのためもありえるのだし計測自体すべて駄目と思わないが、愛は必要だ。普遍的な人類や国家のためなればなおのこと福島には穏やかで良いと思うのだ。

今も読まれ続けていて何万閲覧だったか。福島農家のかたの引用によって私の提唱したそれは巨大な数値に、当時2015年は最も上った。読んでくれた人々に感謝している。けっきょく風評被害論者を含めた賠償の件もあって当事者たちに何でもが必要とされていた最後の時期だったからである。そのあとはある意味その数値で満足と思う他ない状況だと分かって、今度は旅に出た。合計二ヶ月間、沖縄へ集中的に滞在した。いろいろと学ぶことができ、豊かな収穫をえられた。沖縄そばうまかった。それから修行に入り、静かに暮らし始め気付けば2019年だ。

今度は、他所から投げられる福島実害論や福島脱被曝論が、もう福島で暮らす誰にも、ほとんど直接的な現時点での価値がないと私には思える。現実は厳しい。県民全体の郷土を守るその闘争は終わったのである。しかしそのころ同時期に、半減期と除染によって、かなり線量が低減したことがわかりはじめてもきた。時は経過する。負のイメージを固定し続けてはいけない。私はこんなに下がると思っていなかったので確かに理解したのは2019年初頭ごろと遅かったが、驚いた。のであれば、なおさらだ。そこで生きていく人々の風評被害を第一に回復すべき時期に入った。ちなみに、帰還困難の中で線量が非常に高いエリアについては明確に、実害論どころでもない。そこについては次に国がどういう政策をすれば人々が折り合いをつけられるかなどであると思われる。

たしかに実害一般は日本中にゼロではない。怒りも悲しみも時には思い出す。だが人生は短いので、未練たらたらで居られる暇もそんなにないのである。粗探しすれば汚染高い所あるだろう。山の食べ物には一部規制が残っているかもしれない。だが一般の食品検査は不検出が長く続いていることも分かってきて何とかやってきた苦労してる仲間がいて、しかも私は昔から、風評被害も実害に含まれると書いてきた。いま大事なのは概ね風評被害という実害から故郷福島を守ることである。その意味に関係して、ネットで過剰な実害論アピールによる実害は回復していないことを散見する。だからこの文を書かねばならないと公平性を考えて決めた。1度全て書き直したほどこの文章は難しかった。この件で闘争まではしたくないので無理に説得しないが、そっと手紙を置いておきたい。ありがとう。

よって私は、実害論を終わりにする。