『東京の水』吉田邦吉

むろん、東京の水、すなわち「東京水」は売っているぐらいきれいであることは先に書いておく。ところが一部で「東京の水は汚い」と言われて久しい。今でもGoogle検索窓で「東京の水」と入れると予測で出てくる言葉群のなかに「汚い」が含まれている。人々がそれなりの数で検索したからだろう。

「東京水・pure tokyo water」東京都庁HPより

わたしはごく若いころ、ほんの一時だけだが、浮浪していたことがある。そのころ都内で公園の水を飲むのを非常にためらっていたので、ついにお金がなくなったときでも飲めずにいて喉からからで苦しかったのを覚えている。

たまたま泊まったビル型マンションで飲もうとした水道の水が茶色かったことも原因であろう。単に使われてなかっただけだと思うが、わたしの東京の水へのイメージは非常に苦々しいものになっていた。だから今でも、「東京の水は安全だきれいだ」という取り組みや宣伝などをテレビで見たりすると、頷きながら、そのころの自分を思い出すのである。

ただし今は、わたし自身が、東京の水の立場になって考えてみることができる。あの甘酸っぱい思い出とともに東京都行政の「水への取り組み」も学んでみたいと思うようになっているのだ。やはりそこ東京では人々が楽し気に暮らしている。歩けば喫茶店も楽しい。それなのに、何も知らずにイメージだけで悪い悪いと言っていても良くないと思った。

もし大勢の日本中の人々が東京の水は汚い飲めない酷いというような罵詈雑言の羅列や酷すぎる表現をどかどかと毎日毎晩約10年間もネットで続けて、なおかつ、政争のためにその東京の水が汚いというイメージを使いまくっていたら、東京で暮らしている子どもたちや女性たちはどう感じるであろう。そういうことであるから、穏健派が多いことは重要なのである。

(※ここでその酷い状態というのを1分間だけでも良いから「関東」とか「東京」という言葉と「福島」と置き換えて、あれこれの酷い言葉の数々を想像しなおしてみてほしい。多分「なんで貶めてばかりいて何ら理解しようとしてくれないのか」というように、悲しいか怒るか呆れるなどの度合いだ。)

話を戻して、もしそんなことをされたら、東京の人達は「いや、ちゃんと検査して安全が確認されたから安心だ」ということを表現するであろう。むろん、まだまだと思って各施設の水道設備について考えたり慎重論や表現行為なども出てくるかもしれないが、そういう慎重論や表現論があることと今ここで述べたような酷い状態と、同じではないのである。

ネット情報によれば、昔は東京の水はいろいろ課題を抱えていた地区があり得たのかもしれないが、今では、「高度浄水処理」という装置によって安全がさらに高度な段階で確保されているようなのだ。「利根川水系の全浄水場で高度浄水処理100%を達成」しているとのこと。

「高度浄水とは通常の浄水処理に加え、オゾンの強力な酸化力と生物活性炭による吸着機能を活用した浄水処理です。これまでどうしても取り除けなかった水の中に残るごく微量のトリハロメタンやイヤなニオイや有機物をほぼ除去することができるため、より安全でおいしい水をお届けできるようになりました。」(「高度浄水処理について」東京都水道局)https://www.waterworks.metro.tokyo.jp/suigen/kodojosui.html

しかも、「四半世紀の歳月を経て、平成25年10月に高度浄水100%を達成し」たのである。この継続的な努力は目を見張るものがきっとある。検査もかなり充実しているようだ。そういった「テクノロジー」(科学技術)には、称賛を送りたい気分にすらなるかもしれない。

最終的に、1998年ごろのわたしの東京の水への印象がなぜそんなに悪かったのかを知る由は無いのだが、ネット情報によれば、利根川の流域は人口密度が高いから生活排水の流入なども一因と考えられているようだった。人口が多いところでは、あらゆるデマも伝播していったことだろう。それが東京と田舎を往復する人々によって広まったのかもしれない。ただし当時と今とで違うところは、流行しているSNSが無いから、話は話でデマも一緒に終わってくれることである。東京の水と福島の米がどこか似ていながら違う状況に居るのはこのためだ。

これからの時代は、SNSや検索エンジンでのアピール対策が重要になってくるだろう。サクラもあり得る。そして世界では近い将来「食料や水が不足する」と言われている。日本においてはインフラなどの民営化などがいろんな意味で注目されているが、世界のそうした事象が、どういう風に日本に対して影響が加わってくるのか、予測していかねばならないのだろう。既にしている著作はあるかもしれないが。少なくとも食べ物と水を作って守っていてくれる人達を大事にせねば、日本は国防的観点からも、相当に弱体化するであろう。

超・低線量で原因は探れるか。脱被曝論の分類。吉田邦吉

東日本ということでなく、たいていの日本列島全体や世界各国でそうだろうと思われるが、0コンマのマイクロシーベルト毎時といった超・低線量の世界にいるとき、それが明確な疾病原因だと見つけられるかを考える。

疫学(読み)えきがく(英語表記)epidemiologyとは、何か。
『ある集団について疾病や健康に関係する状況や事象の分布を調べたり,必要な定量をしたりして健康の障害の原因を探り,健康保持に貢献しようとする医学の領域.』(栄養・生化学辞典 朝倉書店 コトバンク)

ここで定量というのは、朝日新聞社のネット辞書コトバンクに、定量定量的というのと二つの言葉があるが、ひとまず「数値に表していくこと」と考えておく。数値とはすなわち多い少ないといった量のことであろう。

そして、健康の障害の原因を探る行為である。ということは、非常に多く明確に疾病発生の分布が認められるときには原因がそれではないかという推測をするということであろう。逆に言えば、非常に少ないときは推測しづらいということでもあると思われる。

疫学は大辞林コトバンクではこう定義されている。
『地域や集団内で、疾患や健康に関する事象の発生の原因や変動するさまを明らかにする学問。伝染病の研究から始まり、現在では公害や災害などの問題も対象とする。』

もとは伝染病の研究に使っていた体系だったが、公害や災害などの問題も対象とするようになっている。つまり数的に多ければそれが原因らしいのではないかと考え始めるということなのだろう。数的に少ない因果関係は見つけ出しにくいのかもしれないが、そもそも数的に少ない発生であるのに強固な因果関係が認められる場合を見つけるというのは、ほかにも多くの自然環境や日常生活で発生していてリスクが混ざっていく活性酸素の場合には、原因の予想からして難しいことなのかもしれないこの件で因果関係が不明になりやすい理由だろう

そこで、こういう考え方が一部で強固になり得る。「わずかであっても、わからないのだから、できるだけ被曝は減らしていきましょう」という、いわゆる超・低線量であっても被曝を避ようという考え方であり、巷では通常、「脱被曝系」などと呼ばれている。そしてこれは、もし「超は問題ない」と言われると「他人から人工的に受ける加害事実」としての被曝を避けようという方向性に進んでいく。なぜなら自然由来は日常生活でだれもが浴びているのが自然だから、そもそも微量は浴びているから微量に微量を加えても大差がないという推定からだ。

すなわち、加害事実を避けようという方向性になるということは、加害事実ではあってもそれが量的に受忍限度かどうかは関係がないという強い拒否を表している。家のとなりで排気ガスが出ているものが走っていたら引っ越す人がいるかもしれないというのと近いレベルであろうと思われる。だが自動車のことが問題視されないのは、自分も大勢の日本人もそれを選んで利用して薄い加害事実に加担しつつ、そこで暮らしているという自分の選択もあるからであろうと思われる。それを考えると、東日本で暮らし続けているという事実そして結果的に明確な病気になっていないと自ら思われることがまた超低線量を受忍限度に入れて行く他なしと妥協する人々の多さをも意味しているだろう。

つまり「脱被曝系といっても数種類ある」ことになる。
1、物理的回避型……たとえ受忍限度の無視できる量であっても加害者の出した人工危険物は受け入れないという、物理的な物質有無の被災を回避しようとする型の脱被曝。
2、科学的回避型……科学的に危険物だから、それは危険であり、微量であっても合計蓄積しないほうが良いからできるだけ回避すべき又は回避を選ぶ権利があるなどといった法改正なども視野に入れた型の脱被曝。
3、社会的回避型……福島という汚れた土地から発生するものを内心では下に見ていて、福島の安全論など全て無視し、危険論のショッキング型で平然と被災地を貶めていき、むしろそれでストレスを解消し、脱被曝に関する商売などもしていたりして、被曝回避しようと広めていく型の脱被曝。
4、政争的回避型……政権打倒という言葉が最初に来て、そのために理由を組み立てていくため、票を得られそうなことならなんでも危険論者の言うことをすべて信じてその方向への行動しかほとんど見受けられない型の脱被曝。

これらが全て混在していて、一人の人のなかでも雑多になって意見構築の要素としてあれこれその時々に応じて、考えるときに混ざったり、主張するときに突出したり、反論するときに移行したりして発されていってひとつの「当事者の声」ということになり得る。だから原発事故の当事者性というのは非常に複雑化していくということになる。

しかも当事者の道は、物語の関係性におけるオリジナル性が高いから、もしそこに干渉して大激怒などされようものなら大変だということが頭をよぎる人ほど何も言えなくなるだろう。それが特に福島県民である場合には社会的に効果が高いと考えられているからSNSでもシェアなどで多く閲覧されやすいということになる。

ひとまず、3と4の脱被曝系については、そもそも思惑あってのことであり、また、他人の内心をどうこうということの困難性にかんがみ、いずれ検討することにして、今回は、1と2について考えることにしよう。

1については実は、もし加害事実を避けるという考えを無くしたとしたら、有無だけのことなら、もしそれが超・低線量であれば、「原爆」由来のことや「自然」由来のこともあるのだから、事故の有無だけを今の状況ではさして問題にならないかもしれない。前述の一定年月に100ミリ未満で低線量という話からすると、である。だからこそここに、(その年月の推定を無視して)心情的に無理だという考え方が出てくるのでもあり、3や4に関連していく。1~4というのは有機的に混ざり合って引き合って相互に脱被曝という思想を高め合っていく効果が見受けられるのである。

2については、論争がある。それは、蓄積云々のことなのだから、量の関係が言われている。「量の概念」について、2つの論すなわち、「超・低線量被曝は差し支えない論」と「わずかでも脱被曝論」がある。それらは、「含めて大丈夫」「含めては大丈夫でない」と互いに考えていて、考え方が真っ二つに割れているのである。その態様つまり論争はネットで観る限り深刻であり、被曝は少ないほうが絶対に良いという考えを強く持っている意見傾向をそれなりに散見するが、同時に、少しであればむしろ活性化するという意見(放射線ホルミシス効果)も見る。

作 Y

合計してもどのみち微量だから気にしなくて良いと考えるほうが安全論であり、逆に、たとえ微量であっても合計していくと危険または安心しないとか加害行為を受け入れたくない物理的実害の拒否など考えるのが危険論だと思われる。

(むろん、汚れたものは嫌だという3の意味合いや4の政争的な思惑もあり得るだろう。危険であってもらわなくちゃ原発を止められないとか危険であってもらわなくちゃ政権打倒できないということである。だがこの系統のことを混ぜると話がイデオロギーの話になりがちで、憎悪すら呼んでしまいそうなのでいつか場所を別にして論じるかもしれないぐらいに考えておく)

すなわち、「総合しても超・低線量である論」と、「総合していくのは危険だから拒否する論」という考え方なのであり、「安全論や危険論などと巷で言われている対立の真相は超・低線量被曝についての論争である」ということが、まず判明する。だから食品の放射性物質検査が問題とされるようになり、だから空間線量が問題とされるようになっていくのだ。ただし、微量危険論ではなく、放射性物質は危険物だから危険だという有無の考え方のみでこの「超低線量被曝の棄権論」に賛成している混ざった傾向も相応に多そうだ。

くりかえすが、「より少ない被曝を求めるべき」という考え方と「少しなら問題ない」という考え方なのである。前者は買い物にも傾向として出てくるのであろう。後者は買い物には傾向としても出てこないで何も考えないようになる。おそらく後者が支配的な日本の人々の考え方なのであろう(ただし福島産となると流通などの前述の件があり話は別になっていくかもしれない難しさがある)。

そうでなければ関東にも人はかなり住んでいない結果または非常に大きな論争を導くはずなのである。現実には大多数が無関心でいられるということは、一時的に心配したが、政治家なり学者なりの安心策が大多数には功を奏したのかもしれないしそもそも暮らしている今の事実的に何の変化も自分の感覚として見受けられないからという結果論的妥協の心理傾向もあり得るだろう。

3・11当時のことに戻るが、自主的に避難することとそこでの生活などといった多大な苦労のことを考えると、それ自体が活性酸素を相当に発生させるであろう。(その量や質が満足かは別論として)だから行政的な福祉が少しあったのだろう。避難生活は大変である。大変であるから精神的苦痛である。

しかしたほう、避難生活をしなければ、そこに居るのだから、居ることでの悩みが増えるという精神的苦痛があるのである。居続けることでも活性酸素を相当に発生させただろう。今ここでわたしは、昔からの自分の認識である「精神的ストレスは活性酸素を発生させる」ということを前提として述べている。ネットで再確認できたは出来たが行政機関や辞書類でないものは煩雑すぎる参照になるので出さないことにしておく。いずれにせよ、(原発避難者一般や)「自主避難者だけでないのに」という県民からの反感がときに見受けられるのはこういったことも遠因であろう。

原発避難者についての反感が非常に減ったことの原因として初期に相応に叩きまくってきてもう忘れてしまったということもあり得るかもしれない。目立ったとき、出る杭は打つ社会的禊(みそぎ)のようなことが済んだとも言えるのだろう。それが自主避難者の場合には県民の妥協した複雑な感情とは逆行するような超・低線量の脱被曝論だから喧しく聞こえるという可能性もあり得る。そしてこういったことも全て周囲からは「分断」だと捉えられていると思う。なぜならお互いに思いやった言葉がまだ表に出てくるには少ないように見えるからだろう。

こういった「精神的苦痛」が「数種類の脱被曝論」を強くしていく。そして、数種類の脱被曝論はそれぞれが互いに脱被曝論そのもの全体を強くしていく。こうして、ごく一部の人口のあいだで脱被曝論というのが強固な考え方になっていくのではないだろうか。また、放射線防護という考え方にも発展していくことになる。たとえそれが「超・低線量」であっても、すべてが相乗効果に強固な考え方になっているとき、その「量」は問題でなくなるのだろう。むしろ強固なほうが運動として正しい、という方向性に傾いていくのかもしれない。

そもそも仲間がいて、脱被曝ということを掲げて運動などを強くしていって、辛いことも嬉しいこともいろいろあっているところなのに、その根幹でもあったはずの「超・低線量でも脱被曝すべきという主義を改める方向へ考えてみること自体が今度は心配になる」のかもしれない。なぜなら加害者であると考えている政府側の言うことを認めることに近寄ることになることは、裏切り行為にも見えるからだ。

そのような辛くて大変な心理状態に人々がいるというのを権力者は想像してみたことがあるだろうか。そうして運動が終わった時、それまで主張していた人々は個人的に主張することがほとんど無くなっていくのかもしれない。それは最初妥協であろう。段々と妥協ではなくなっていくこともあり得るだろう。そして、もし仮に心理状態が学びを許せば、自分とは違う考え方を学ぶこともあり得るかもしれない。

新しい世界を知るということはそれぐらいのことである。人には人の「それについての考え方」があって、内心がどうであろうと人の自由である。それが思想の自由である。ただし、超・低線量がどういうふうに人間の疾病にどのぐらいの程度で関わっているのかは、おそらく不明に近いことだとわたしには思える。

有ることを証明するのは存在1つで足りるが、無いことを証明するのは全時代の全世界を調査せねばならず困難なのだ(悪魔の証明)。すなわち、無いという原因を探ることが疫学の現状では困難なのではなかろうか。しかも、疫学が無理なら純粋な科学的因果関係ということになるだろうが、活性酸素ではそういう牽引の関係をどれか1つに明確に存在を提示にするには、なんらかの科学的立証か、「相応の大量にある」が提示されねば分からないだろう。

つまり、「有るとも無いとも見当たらない」のかもしれない。ただし、「膨大な事例に、そういう原因は直接的には無さそう」なことは完全ではないにしても、見当たっているかもしれない。こういうことだから「笑顔で居ればまず適切だ」と精神的ストレスに関してまず言われるのも納得し得るのだが、被災していて怒ったり悲しんだりしているところに頭ごなしにそう言われたら反感を買うのも必然であろう。

いずれにせよ、超・低線量での因果関係を探れるかということと関連して、それに付随している主義である脱被曝論の分類は自分なりに客観化できたかもしれないと思うので終わりにする。本来ならばもっと、分類名の定義から事前に定めてから進めるべきだったかもしれないが分類学の専門家でもないためこのエッセイでひとまず十分としよう。この構造分析によって何をどう考えていくかは読み手に任せたい。人様の幸せな世の中が来ることを祈る。

わたしがしたいのは、自分のなかでけじめをつけていくことである。だから多数の文献を用意してこの問題に取り組むなどのことをしていない。この8年間で自分が生きていくうえで自然と触れ合ってきた経験と環境省サイトやウェブ情報をもとに、思考を組み立てている。そしてそれは現実を哲学するというわたしの目的の1つであった。

この3・11東日本大震災と原発事故によって目覚めたと言っても良い自分の思考を、その場所から、ここからしっかりと構築し始めて発生としたかったのである。よって、WELTGEIST FUKUSHIMA9号における自由詩人的な原発避難発生的認識論の続編は、危機から発生したその後の哲学だと言って良いのかもしれない。危機直後は2号であった。今この文は、闘争その後だから、「ポスト闘争の思考」であろう。その意味では、自由が、始まるのかもしれない。

最初、「低線量」とは、どのぐらいのことだったのか。低線量の意義。吉田邦吉

低線量という言葉が言われるようになって久しいが、一見自明にも思えるこの言葉ほどヴェールに隠れているものもない。「低線量被ばくによる健康への影響は、どのようなものですか。」という質問に対して環境省がこう答えている。

引用はじめ

  • ①放射線による発がんのリスクは、被ばく線量が100ミリシーベルト(mSv)以下の場合は,他の要因による発がんの影響に隠れてしまうほど小さいことが分かっています。
  • ②積算した線量が同じであるときは、低線量率の環境で長期間にわたって被ばくした場合の健康影響は、短時間で被ばくした場合よりも小さいと推定されています。

ICRP publication 103より作成 
出典の公開日:平成19年3月 
本資料への収録日:平成29年3月31日

引用おわり
(基礎資料 第3章 放射線による健康影響 環境省 https://www.env.go.jp/chemi/rhm/h28kisoshiryo/h28qa-03-14.html

簡単に言えば、①で分かる。「低線量」というのは、被曝線量が100ミリシーベルト以下のことだろう。そしてそれは②において、長い間にわたって合計して被曝するほうが短時間で一気に同量を被ばくするよりもリスクが低いということだろう。

すなわち、「低線量の被曝だとして問題にしているのは、100ミリSV以下という大きな数字の世界」なのである。おそらくこの100ミリ未満という数字は、われわれ日本人の今の感覚からすれば、大きな数字であろう。日常的にガイガーカウンターで目にする数値が大体0.1マイクロ毎時とか0.5マイクロなどの数値だろうからだ。

ゆえ、ガイガーカウンターや事故後の空間線量の数値は「低線量」という言葉を違う感触のものにするには十分な効果があったのではないだろうか。少なくともSNSなどにおいて、計測した数値すなわち「超・低線量」について、かなり不安視している抽象的な意見傾向を見るに、このことを思う。実は「0コンマ」のマイクロSVなどのことは低線量ではなく「超・低線量」なのではないか

それでは次に、「低線量の被ばくによる発がんリスク」という項目があったので、それを出しておく(基礎資料 第3章 放射線による健康影響 3.7 リスク 低線量率被ばくによるがん死亡リスク 環境省https://www.env.go.jp/chemi/rhm/h28kisoshiryo/h28kiso-03-07-03.html)。

(なお、今わたしはどの順番でこの基礎資料を見ていくかということを考えていない。たまたま気の向くまま見ている。そうでないと、このような話に、直接的な被災当事者のわたしですら、そこまで興味は続かないからでもある。)

(わたしの文章は、一般人からのひとつの応答であり、いわば学術などに対して双方向的なことを目指していて、主体的に現実を考えていくケーススタディの一種として考えている。表現したときにそれは権力や学術すなわち社会の未来にとっても重要な参考として役立つことだと自分では思う。)

基礎資料より 環境省

前に覚えている反感としては「放射能という危険物質をタバコと一緒にされても困る」という反応だった。そういう反応が出てくるのは、第一に加害事実を無きものにさせないそして物質の有無こそが問題なのだという物理的実害の主張の件からの反論をしたい方向性なのだろうと思われる。だがここで言われているのは発病への総合的なリスクの蓄積のことである。だから「累積」という言葉があるのであって、事実が無いとは言っていない。すなわち科学的説明というのが受け入れられるには何らかの政治・社会・法的などの条件がそろっていないと難しいだろう。

念のため簡単に読み解いておくと、30%が個人の生活習慣などと書かれていて、100ミリで0.5%の増加が認められるかもしれないぐらいの話である。

環境省の説明を引用しておく。

国際放射線防護委員会(ICRP)では、大人も子供も含めた集団では、100ミリシーベルト当たり0.5%がん死亡の確率が増加するとして、防護を考えることとしています。これは原爆被爆者のデータを基に、低線量率被ばくによるリスクを推定した値です。
現在、日本人の死因の1位はがんで、大体30%の方ががんで亡くなっています。
つまり1,000人の集団がいれば、このうちの300人はがんで亡くなっています。これに放射線によるがんでの死亡確率を試しに計算して加算すると、全員が100ミリシーベルトを受けた1,000人の集団では、生涯で305人ががんで死亡すると推定できます。
しかし実際には、1,000人中300人という値も年や地域によって変動しますし※、今のところ病理診断のような方法でがんの原因が放射線だったかどうかを確認する方法は確立されていません。そのため、この100ミリシーベルト以下の増加分、つまり最大で1,000人中5人という増加分について実際に検出することは大変難しいと考えられています。

つまりこの図を見て思うのは、(超でないどころか)「低線量被曝のリスクからして非常に微細な世界」であり、今のところ立証できないぐらいのことなのだろうということである。そもそも「がん」というものは総合的なリスクから発生してくるものでもあるから因果関係を明確に何か1つに出来ないことが原因に思われる。だからこそ気にしないという人も居れば、どれがそれと分からないから全て人工的な、しかも自ら選んでないものを特にそこから避けたいと思う人々の気持ちも分かる。受忍限度論がその人々にとっては今も超えているということに他ならない。そもそも自分の思考を自ら否定したり変えていくことは相当に容易でもない。

むろん、人間がカリウムを含む食事をしないことや太陽光や公害0%の世界で暮らすことは不可能なのである。それでも、人間はたとえ超・低線量被曝であっても被曝したら回復など間に合わないと考えている人々には恐ろしい話なのかもしれないしダメージは受けたくないというのも人間の本能であるだろう。3・11当時は当然として、さらに、本能から来る感覚的なことを否定することは困難がある。だから「個人的に怖れたい人にはそうさせよ」と言うのが最も自由なのであるし現実にもそういう人がこういう文章を読むことなどまず無いとわたしは自らの見聞をもとに想像する。

つぎに、環境省はこう述べる。
「放射線による影響も、その約85%は放射線により生じる活性酸素等の影響であり、約15%が放射線による直接の損傷によるもの」(基礎資料 第3章 放射線による健康影響  3.2 人体影響の発生機構 DNA→細胞→人体 環境省https://www.env.go.jp/chemi/rhm/h29kisoshiryo/h29kiso-03-02-03.html

微細ダメージのほとんどが活性酸素だった
百科事典マイペディア(コトバンク)によれば「活性酸素の働きは,免疫,発癌,老化などに関連しており,盛んに研究されている。」とのことである。線量などの「数字」をそのまま放射線そのものとしてすら適用できず、よく聞く活性酸素がほとんどなのである。脳や栄養などの本で読んで、活性酸素は老化するものの原因物質であるという認識がわたしにも昔からある。

厚労省のe-ヘルスネットの情報提供によれば、活性酸素とは「私たちが生命活動を営む上で酸素の利用は必須となります。呼吸によって体内に取り込まれた酸素の一部は、通常の状態よりも活性化された活性酸素となります。ヒトを含めた哺乳類では、取り込んだ酸素の数%が活性酸素に変化すると考えられています。活性酸素は、体内の代謝過程において様々な成分と反応し、過剰になると細胞傷害をもたらします。」(最終更新日:2019年3月4日)(高橋 将記)(https://www.e-healthnet.mhlw.go.jp/information/food/e-04-003.html

酸素は人間に必要であり、呼吸からして活性酸素になっていくという。呼吸して、食べ物を食べて、あらゆることが活性酸素になっていく。そしてそれは回復するが、極端な過剰が宜しくないということである。なんでも過ぎたるはそうだろうと思うのだが。どのように回復しているのかは、いまのわたしたち自身がそれを証明していると言えるのだろう。抗酸化作用という言葉も日常的だ。休んで、動いて、眠って、適度な暮らし。

この話は、「超・低線量(一時的に0コンマの世界)」と「低線量(一定期間での100ミリ未満の累積)」の両方に当てはまる話であろう。だからタイトルが「低線量」となっていると思われるが、もしかしたら「超」のほうは含まれない可能性すらある。つまり、ほとんど気にするレベルというほどには何も判明していない。放射線が原因だということが数的には判明していないということだ。※「気にするな」とわたしは言ってない。なんでも意識に上ること人の自由。

一定期間での100ミリ未満の累積した被曝というのがどのぐらいの期間か」はおそらく曖昧すぎて簡単に断定できるものでないだろう。むろん一定のその期間中に回復しきって今や存在し無い過去のダメージまで積算してしまったら、どのようなものでも相応の量になると思う。やはり短期間であればあるほど危険だということになるだろうが、まず、数時間で100ミリとか数日で100ミリといったことは一般の日常生活ではまず考えられないだろう。

巷では0.1~0.5マイクロSV毎時などと言っている話だが、100ミリSVというのは、「1ミリ=1000マイクロ」なのであり、この場合にミリをマイクロに直すと、100×1000であるから、100ミリSVとは10万マイクロSVという巨大な数字ということになる。たとえ自ら浴びようと思っても、「低線量」を短期間で浴びることは日常生活では不可能だと思われる。

ゆえ、浴びることができるのは、超・低線量の被ばくなのである。こうして、「超」のほうが日常生活にありふれているからこそ、その超・低線量のことが問題視されていくようになるのだが、その実、「問題視していたのは、超微量の低線量ではなく、日常生活には無さそうな巨大な数字である低線量が原則的な問題視だったのではないか」ということをわたしは思っている。

実害的被災の分類 吉田邦吉

放射線の被災についての主張にはいくつかの分類が考えられる。なぜなら、主張者や表現者の言っている内容には微妙な違いがあるからだ。わかっていることでもここに出来るだけ客観的な分類を明確化して考察検討を加え、今後の役に立てていきたい。

実害的被災の分類
1、物理的実害
非常に分かりやすいことであり、厳重管理されている危険物であったはずの放射性物質を政府東電が管理しきれずに事故を起こしてばらまいたその結果を言い、「物理的に放射性物質が在ること」を言う。できるだけ取り除くことを「除染」と言っていて、いろいろな方法がある。これはガイガーカウンターなどがあって、なおかつ、事故前の放射線量の平均値などが判明している場合に計測すれば比較することができるので、その増加分としての大まかな量などが分かる。

わたしが実害だと言ってきたことは基本的にこちらを意味する。他の大勢の、いわゆる実害論派も、この物理的実害を意味しているだろう。「量」ではなく「有無」なのである。0.01Bq/kgでも発見されたらSNSにおいて「悲しいね」「ひどいね」ということをつけまくるしかないと考える人々はこちらの件などでそのことを感情的に捉えていると思われる。加害の事実も明確化するからであろう。

2、法的実害
これは難しい代物であり、今までほとんど一般の人達はあまり口にしてこなったものだろう。わたしもここではじめて書くが、ほかで書いてあるのを見たことは無い。たまたま見てないだけかもしれないが。つまり読んで字のごとく、法的な損害を意味する。
ア、営業損害(避難指示で営業または就労の困難または風評被害など)
イ、精神的苦痛
ウ、身体的損害
エ、汚染により不動産などの所有物などへの損壊等々

その詳細な分類や判定をどうするかは、司法や医学の専門家に任せてあるだろう。彼らが認めたとき、または、東電が自ら認めたとき、これらは発生すると思われる。なお、わたしが言ってきた実害はこちらも該当しているからこそ、実害と風評被害を対立的に捉えず、風評被害も実害に含まれると言っている。

ひどく当たり前のことなのである。基準値を大幅に下回る不検出などのものなのに売れないという営業損害を認めなかったら被害者が損害を受け放題のまま泣き寝入りすることになるので、風評被害という営業損害を認めないことなどあり得ない。当然これ以上にその傷を深めずに回復していくことは肝心になる。

しかしここで、基準値以下の不検出であっても、物理的実害のほうでその主張をし続ける政治的なグループというのが現れる。つまり、食品に不検出であっても(たとえ全国でどこであろうと0.1ベクレルでも見つければその人たちは拒否するようでもあり)、その土地には放射線量があるではないかというその物理的なことを主張し続け、被害が軽くなる印象の方向への話は絶対に聞かない。

被害が軽くなる印象の話というのは量の問題である。すなわち基準値というものを国が決めているのだが、それが高すぎる又は0.1ベクレルでも嫌だという話である。ただしそのベクレルというものは環境省によれば「放射性物質の量」のことである。

その物質が放射線を出してそれが人体に影響があるということが、被曝である。そして、(汚染されていない)通常の食べ物に含まれるカリウムという放射性物質からもガンマ線とベータ線が出ているということなのだから、そもそもその食べ物を食べても内部被ばくし続けるぐらいのことである。要は日常生活における被曝総量に含まれてしまう程度のものであり、ほとんど気にする必要がないのではないかということをわたし個人は思う。

根拠としては以下の文章だ。「食品中に含まれるカリウム40からはβ(ベータ)線とγ(ガンマ)線が放出されています。」(「身の回りの放射線 目で見る放射線」放射線による健康影響等に関する統一的な基礎資料(平成28年度版、 HTML形式)環境省https://www.env.go.jp/chemi/rhm/h28kisoshiryo/h28kiso-02-05-13.html ※以下、引用する際はタイトルと「基礎資料」とを書く)

上記のことで分かるように、いわゆる原発事故でばらまかれて問題とされている「セシウム」と同じくガンマ線とベータ線がカリウムという物質から出ているのである。セシウムと同じ種類の放射線なのである。

この放射線の像は、今までわたしは一般の人達が特殊な技術で用いてきたものだと思ってきたのだが、環境省がすでに自ら表示していることも知った。さらに「避難区域や福島県内ホットスポットの物でなく、どこにでもある通常の野菜で放射線像が出来る」と言っているに等しいのである。

「基礎資料」環境省

さらに驚くべきことに、人間そのものが放射線を出していると環境省は言っている。こういうことをしっかりCMしていかないから政治的な思惑によって、ほんのわずかでも人体に重大な損傷が出るのが普通というような誤解だらけになって人々が恐怖に陥ってしまうのではないだろうか。

(※話は逸れるが、原発銀座の大熊町では小学校の社会科見学で「身の回りに放射線はある」という計測行為をして学ぶお出かけというかスタディツアーがあったことを思い出す。あれはいざというときに加害事実の重みを軽減させるようなカモフラージュ論だと思ってきたが、いや、そういう面もあり得るとも思えるが、とにかく、「原発銀座のスタディツアー」が今こうして、故郷を守ろうとする話の土台になっていることに何かを感じざるを得ない。予測されてもいただろう)

話を戻して、そしてその恐怖や心配を頭から否定しようとかかるから余計に反発されるのだとわたしは思っているし思ってきた。なぜなら最初に述べた「物理的実害」があるのは事実だからで、話が堂々巡りになりやすく、これをうまくどうこうと説明するのは火に油なのである。

SNSの一部界隈では「福島の食べ物0.1ベクレルで悲しい酷い」であったのに、「なあんだ、人間が4000ベクレルもあるのか」であり「当の食べ物ですらもともとそんなにベクレルあったのか」で拍子抜けする気がする。

基礎資料より

3、社会的実害
物理的でもなく、具体的な法的損害でもなく、けれども人は福島で原子力災害が発生したと聞けば、あらゆる忌避感覚を持つようになり、あらゆる悪口が始まり、長年に渡っておさまらなくなる。風評被害という名の(深刻だが)営業損害だけでは決しておさまるものではなかろう。なにせ他人事でもあるから余計だ。

たとえば福島から物や人を出すなとか福島の農家は何とかだなどと言った言説が2011年の当時はあったことを思い返せば、それがいわゆる差別的な言動に繋がることは容易に想像がつく。こういったことは2つの考え方があるだろう。寝た子を起こすなという考えと、逆に、開いていく考えと、である。どちらをどうしていくかは表現者に任せる。

いずれにせよ、人々が言うその「風評被害になるからあまり汚染汚染と言わないほうが良い」というとき、法的な営業損害になるほうも心配しているし社会的実害のほうも心配しているので、話は二重に錯綜かつ深刻でもある。

4、政治的実害
今ここでわたしが書いているような文章に共感してくれる野党と言ったらどこであろう。言わずもがな、福島の穏健派のための受け皿がないような状況にわたしには見える。それは政治的な居場所のない状況にも思えるため、政治的実害だと言って良いように思われる。衆議院のなかではあるようだが、参議院のなかでは少ないように見える。脱原発のSNS内でも数割は同様に感じられるかもしれない。

なぜなら通常は多数者である穏健派の支持を得てこその選挙なのであるから、与野党ともにここへ論点が集中するはずだからだ。しかし現実は、どうにも福島は野党にこそ見捨てられているように見える。そもそもわたしは浮動票*かつノンポリ*気味であるから特段なにも言う気はないものの、政府と野党と切磋琢磨しないのかと思っている。わたしの気のせいであれば良いのだが、選挙の最中や結果などでそういうことは判明するであろう。

(※浮動票とは、選挙のたびに投票する政党や候補者を有権者が変える未確定な票をいう。※ノンポリとは、《nonpoliticalの略。非政治的な、の意》政治や学生運動に無関心であること。また、その人。以上コトバンクより引用)

いずれにせよ、与党支持か、野党支持か、そういうことで、人々の放射線についての考えやそういう主張に対してのリアクションが、つまりは相当に政治的色彩を帯びすぎて居て、政治的にも分断しているのではないか。もし、与党に対抗するからここでの話は無視すると思うならば、それはもう、福島の穏健派は野党に期待できない居場所もないと言って同義だと思う。考えてもらいたい。

以上のわたしの見解を別にしても、「放射能災害が起きると、いつでも政治に関連してどこか人々との間になんとなく壁を感じることがある」ということには多くの人が聞いてくれるかもしれない。そういうことを大まかに、政治的実害と言って差し支えないだろう。

・受忍限度論の超過分的実害と考察検討
もし1~4の被災が、ほんの少し我慢したら問題がない程度のものだったら人々は我慢したかもしれない。しかし現実は、1~4のことが、受忍できる限度をはるかに超えたので、不法行為と考えられたのだろう。なぜなら【2011年までの核物質や放射能というものについて世界や国全体の人々のイメージ】を自分の中から思い出してみればひどく簡単なはずだ。

記憶が曖昧だが、昭和時代の新聞で原発についてのいざというときの死者などの危機感の極めて高い記事があった気がする。それぐらいのことだから、心情的に「やられた」「奪われた」という、心情的実害は、当事者にとっても、周りの人々にとっても、重大なレベルだったのである。そういう「事故前の放射能イメージ」があるからこその「心理的ダメージ」(精神的苦痛)なのであることもあり得るかもしれない。また、2度も原爆投下を被っている。さらには、東日本大震災と大津波と同時に発生したことも衝撃の強さを物語る。

上記で述べたような超・低線量についてはこのように考えられるという環境省のその基礎資料のようなことを人が知るまでに、または、人が落ち着いて学ぶ時間がとれるようになるまでに、この列島ではどのぐらい人々に余暇が必要だろうか。まず困難であろう。それだから受忍限度論をまた超えることになるし以下のような混乱によってまた超えていくことになる。

そもそもなぜ人が放射線や物理学のような科学知識をいきなり学ばねばならないのかということなのである。簡単なロジックですらも果てしなく難しいと感じさせてしまうだろう。だいたい大人は夜には酒を飲んで居るものである。酔っぱらって仕事の疲れを癒そうとしている大人たちに向かって「放射線は」などと切り出そうものならおそらく喧しい屁理屈人間というイメージを持たれるだろう。

ちなみに、放射性物質には人工由来と自然由来があるという話もあって、それがつまり、人工由来のものは危険ではないかという心配をする人達もそれなりに居ると思う。ではその自然由来の放射性物質の出す放射線とはいったい何かを知る必要がある。そして「どこで見れば信頼があって知ることができたのか」は、わたしの場合にはネットで無料で手軽に見られる環境省であったと思われる。そのことを環境省は声を大にすべきだ。

そういうことを任務とした学者だとどうしても最初に心配ないという結論から入ってしまって感情的に反発を受けるのは必然であったかもしれない。なぜなら被害者に向かって問題ないと宣言することは同時に「被災していない」とか「物理的・法的な実害がない」とも受け取れるからだ。そういうことを最初から考えられなかった科学者は科学コミュニケーションというジャンルについては素人なのかもしれないしこの10年ほどの社会での出来事を考えると責任は重い。受忍限度を超えさせたと言えるだろう。

そんなだからリスクコミュニケーションという交流の仕方が人々に問題視されるようになってしまったのだ。むろんわたしはその、人々の懐疑的な土壌が出来上がってから今ここでいくら書いても砂漠に水という状況だろうとは思うがここは自分のメモなので自由にやらせてもらう。とにかく話を戻して、「自然由来の放射性物質の出す放射線」とは、答えは、下記の表を見れば恐らく、ガンマ線、ベータ線、アルファ線などであり、同じであった。しかも食べ物に含まれれている自然由来のカリウムは半減期が非常に長い。つまり、半減期が長ければ深刻だという言説はイメージであったのではないかという疑問すら湧いてくる。ラドンもどこかで聞いたことがある。

さらに驚くべきことに、「カリウムは放射性物質である」という事実である。放射性物質が降り注いで悲しいのに、食べ物のなかに既に含まれていて、わたしたちは、日々、福島に限らず、日本中と世界中の人間たちが放射性物質カリウム40を食べてガンマ線とベータ線を浴びて、内部被ばくしている。しかも脱被ばく系の間で内部被ばくは危険すぎることだと言われてきたように思う。内部被ばくは危険すぎるから、マスクしようと言われていた。

むろん、そもそもマスクなど、あらゆる物質的な細かい異物に対する防護自体は相応に役立つと思う。しかも、浴びすぎたら危険なものだと言われているのが放射線だから蓄積も誰だってしたくないだろう。しかし浴びすぎるというのは恐らく、回復率を多大に超えるほど一時的に非常に大量に被曝した場合ということなのである。超低線量被ばくについて「個体差があるから分からない」ということをわたしはずっと思ってきたので、敢えて超低線量被ばく深刻論について何らのことも述べずに来た。

が、今回は、環境省のラインに沿って自分が学んで考えていることを、いつも通りメモ的に書き出してみた。だから問題があれば、環境省のほうへ問い合わせてみて欲しい。わたしは科学者ではないので、あくまで自分がこう思ったという、一般人からの理解を発信しているのであり、科学者や科学コミュニケイターそれから原子力行政など学術系の人達が「一般人のこの被災者の人はこう理解するのだな」ということの参考にして頂ければ幸甚である。

なお、微量でも有害だという学説もあると思うが、それは、もしも、たとえば太陽光を浴びたときの人間の通常の回復率を存在しないものだと仮定したら、実際に発生する有害的に危険なのだろうから、それはどこにあり得るのか?である。とにかくそれでは、自然由来の放射性物質たとえば内部被曝するカリウムや温泉にあり得るラドンそれから放射線を含んでいる太陽光などについてどう考えるのか教えて頂ければ幸いである。それらは全て既に超低線量被曝であろう。ちなみに紫外線などのほうもそれなりに人間に影響あると思う。

以上ざっと考察した。よって印刷発行するまでにはまだ環境省のサイトその他から学習と点検に時間をかけていくので、これは暫定的な文であることをご容赦願いたい。いくら分かりやすい環境省のサイトからなるべく引用して考えてきたことでも、やはりわたしは、原子力科学の博士号など持ち合わせていない素人なのである。なぜ環境省の基礎資料にしたかと言えば、国がこの政策には当然責任をもつ立場だからであり、またそれが、わたし個人には多少なりとも分かりやすいからである。

それでも資料はこんなにある。
・放射線健康管理 環境省
https://www.env.go.jp/chemi/rhm.html

メディアは検出を伝えるとき不検出の量も伝えよう。吉田邦吉

ニュースにおいて、「特定の種類の海産物の実際の1個について、放射性物質が基準値を超えた」など、つまり例えば「ある一匹のシロメバルについて放射性物質が検出された」ということを伝えると、感想はこうなる。「福島の魚が汚染されている」。知識の多い少ないによってあらゆる解釈からくる又はあらゆる表現などが考えられるため、それは風評を拡大しがちだ。関係者にとっては泣きたくなるような、実害と風評被害の混ざった話である。どうすればいいか。

検査における汚染だけを拡散するなどの意味での関心が高いグループの表現が、たとえ多様であっても、なるべく受け取り手には誤解を与えないよう、誤解を減らしていくがためには、そもそもSNSでの拡散が予想されるような、放射性物質が検出されたニュースのなかに、事前に、「(不)検出の状況グラフ(時系列)」とか「漁業界の続けている取り組みまとめサイトへのリンク」などを追加しておくと、より注意深い人々ほど、きちんと見に行ってくれるのではないか。

具体例として、水産庁のこんなグラフがあることを、わたしは知らなかった(下に引用)(※いま参考として出すだけなので最新のものはご自身で検索してください)。はっきりと、目で見て理解しやすい。わたしが知らないのだからほとんどの人々が知らないだろう。福島の話の場合は、人が悪気もなく一部を全部のように伝えてしまうという、「一部全部の論理的誤り」をおかしがちなので、まず全体を把握できるような情報を常に付加した前提の上でニュースづくりをしておくことが公平であり肝心だろう。賢い消費者は木を見て森を見ずではない。

【海産種の調査結果】
【淡水種の調査結果】

詳しいことは自分で水産庁HPで見てもらうとして、これらのグラフだけでも見てみるのは勉強になるとわたしは思った。これから食糧や水などは世界的に不足することも予想されるなか、海は繋がっており人間は食べ物がなくては生きていけないことを考えると、これはきっと良いニュースとしても解釈し得る。たくさんアレが見つかってしまったと考える人々もいるだろう。その気持ちもよくわかる。だがもし買うかどうかという選択をするときは、このグラフをわたしは思い出して前向きなことを考えているだろう。実際に食べるときに後ろ向きに食べる人はそうそういないとも思うが。大切なのはリスクをなるべく的確なサイズで学びつつ、選んでいくことなのであろう。1kgでそのBqという計算もある。

それに、公害的なケミカル汚染の物質は、なにも放射性物質だけではない。言わずもがなマイクロプラスチックやポイ捨て問題や、そこに付着するかもしれない過去に使用されたことがある薬品などもまれに見つかる例も可能性としてあり得るだろう。海外ではほとんどの雨水のなかにマイクロプラはあるという記事も読んだことがある。であるから、それら公害が心配されている物事は、なにも海産物だけでもなければ放射性物質だけでも全くない。ハウスダストだってなんだってそうである。そういうふうに総合的な視野を持てるニュースの提供などうなのだろう。ネットであればできそうな可能性はさらに膨らむ。せめて期間を設けてチャレンジしてフィードバックの意見を集め、現実に活かしていくなどの研究をし始めても良いだろう。

「雨水の90%にマイクロプラスチック、色とりどりの繊維が混入 米調査」2019.08.15  CNN

https://www.cnn.co.jp/fringe/35141318.html

「分析を進めたところ、食べていたマイクロプラスチックの量に比例して、海鳥の脂肪から、ある有害な物質が検出されたのです。」

「PCBは、かつて食用油の中に混入され、食品公害・カネミ油症の原因となった有害物質。皮膚障害や肝機能障害を引き起こしました。石油から出来ているプラスチックは、油に溶けやすいPCBなどの有害物質を表面に吸着させる働きを持っています。」海に漂う“見えないゴミ” ~マイクロプラスチックの脅威~ 2015年10月25日放送 NHK

https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3725/1.html

さらに言えば、SNSでのニュースfbページのコメント欄は荒れやすく、デマどころかメチャクチャであることも多々あると思う。そういう場所に率先して現在の情報やまとめなどを参考にコメントしてくれるメディアグループというのを期間持ち回りで作り出しても面白いヒントが得られるのかもしれない。情で煽るような感情型インフルエンサーばかりではなく、安寧させる融和者とでも言えるような、オーダー型インフルエンサーが居ても良い。そうでなくとも、とにもかくにも争い争い争い争い……、いわば感情の掃き溜めのようになっているコメント欄に一般の人々はコメントしづらい。そんなところで誰かに絡まれるリスクを背負ってまでコメントをする価値がないと思われやすいだろう。ある意味では閉じているとすら言える。

したがって、メディアには、関心が高いけれど一つの論点にそこまで時間を使って学ぶのは忙しいというような人々へ向けて、知的に開かれていくプラットフォームの提供といった役割も期待したい。そうすることで、地道に、日本の思考力が育っていくお手伝いができるだろうと思われる。専門的にすぎる長い時間の番組はときどきあまり見られていない。しかし、さっと見ることができるまとめサイトの存在はイメージづくりにも時間的効率性についても、有用だろう。特に深刻な分断や情報の格差などが予想されることについて計画すると社会の寛容化に繋がってメディア自体もなんらかのゆとりが増えて暮らしやすいだろうと思われる。