7年目の原発事故避難生活(第1章)~村民の声2017~ 酒井政秋

第1章)村民の声2017

わたしは2012年~2014年まで「飯舘村の1人1人の想い~伝えたいメッセージ~」(HP:https://iitatemessege.jimdo.com/ )を運営していた。これは、事故後、各仮設住宅の傾聴を始めていくうちに一人ひとりがちゃんと自分の意見や想いがありながらも口にすることができず、一人ひとりが苦しみを抱えていた。なぜこの声が村・県・国には届かないのだろうと…もどかしい気持ちでいた。村民一人ひとりの「声」は大切な声なのに…と。わたしは当時政治家にお会いする機会や行政区説明会などが頻繁にあったのでその大切な声を伝えていこうと思った。実際に相馬仮設住宅の不備などを役場担当職員に要望してきたこともあった。月日は流れ関心が薄れつつある県外の人たちにもこの想いを知り村民一人ひとりが、どんな状況にあるのかを想像して欲しいと思うようになり、ホームページ開設とSNSで専用ページ(現在閉鎖)を作成して公開してきた。

あれから早3年、わたし自身も色々と忙しくなり、中々思うように‟伝える活動”さえも出来ない状況になっていた。

そこで今回、原発事故7年目・3月末避難指示解除(帰還困難区域を除く)を迎えるにあたって村民は何を思い、どんな心情で日々を送っているのだろうか。1度限りの復活として、何名かの村民にご協力してもらい質問用紙にて声を聴かせてもらった。回答(順不同)を原文そのまま伝えていくことにする。

それぞれの考えや思いは村民一人ひとりで変わる。そして、その気持ちは6年間、波のように情報や状況や環境で揺れ動いていることをご理解いただきながら読んでほしいと切に願う。

撮影ー筆者 飯舘村の夕焼け

撮影ー筆者 飯舘村の夕焼け

 

①震災・原発事故から7年目になるわけですが、あなたは今、どのような心境ですか?
(例えば、悩みや不安、怒り、将来への展望など、書ける範囲で字数には制限ありませんので、ご自由にお書きください。)

・家族が笑って暮らせればそれでいい、3月から新しい職場での仕事が(スムーズに)務まるか不安、部落での役割と責任が増していくのが負担、子どもが福島市の高校に入るので「いじめ」られないか不安。              (40代 男性)

・飯舘村には、あと10年以上戻らないと決めている。その先戻るかは、その時になってみないとわからない。飯舘村は、生まれ育った故郷。それでいい。これからの人生が大事だから、生活する場所にこだわる必要はないと考えている。原子力発電所がまだ不安定な状態なので、地震等の災害が来たら、行く先は決めていないが、すぐに逃げる覚悟はいつも持っている。                 (40代 男性)

・ストレスが富士の山よりも高く積もりました。         (80代 女性)

・避難先での生活としては長い年月が経ったのだなと思います。小学1年生の子供たちが、中学生になるほどの年月です。しかし、子供から高齢者の老若男女が、生活していけるような村になるという意味では、まだまだ短すぎる年月だと思います。山林の除染も何とかしてほしいと思います。自然と共に飯舘村の暮らしがありました。仮に除染をしても、元の暮らしが出来るとは思えないのが、正直なところですが…。100年、200年、300年経って、子供たちが何の不安も無しに、山や川など、外で楽しく遊べる日が来ることを願ってやみません。私は、飯舘村の写真を撮っているので、避難指示解除後、村に戻って精力的に活動している方や住民などにスポットをあてた写真も撮りたいと考えています。            (20代 男性)

・子供たちを自分と同じような環境で育てられない、地域社会の中で育てられない、そしてそれらを諦めてしまっていることを時折辛く感じる。別の場所に移り住んでそういう環境づくりをすればいいのだけれど、それでは地元に帰れなくなる。                (30代 男性)

②2017年3月末日で飯舘村が避難指示解除になりますが、まず、はじめにあなたは飯舘村に帰村しますか?それとも新天地で生活を継続していきますか?

《帰村するを選んだ方》

・村の指示に基づいて村に帰ります。飯舘村の自然と共に土で生きた人生でした。いのちの終焉は飯舘村の「土」になる覚悟で生きていきたいと思っています。

(80代 女性)

・いずれ帰村をする。そして、村での仕事をする。農地を守る。地域社会を守る。子供たちにつなげるかどうかは自分たち次第だと思う。       (30代 男性)

《新天地での生活継続を選んだ方》

・新天地に家を建てるので当面は新天地で生活していきますが、飯舘にも家を建て直すので、いずれは帰村するかもしれない・・・わからない。    (40代 男性)

・帰村しない。当分は、避難先で生活する。その後は、妻と一緒に永住できるような土地を探し、小さな家を建てる。
汚染された土地、フレコンバックがある風景。
そんなところに子供を連れて戻りたくない。
飯舘村は、まだ、元に戻る途中の状態である。まだまだ時間がかかる。

(40代 男性)

・まだ、帰りたいと思える場所ではないため。家族と一緒に新天地で暮らすことにした為。放射性物質、汚染の心配。避難先での生活の基盤が出来てきている中、早々に帰るメリットや理由が見いだせない。              (20代 男性)

・今は避難してからの生活が定着していて、現在の飯舘村で生活していけるのか?を考えると不安が多くあり(病院・買い物などのインフラ・放射能・フレコンバックなど)現時点では帰らないと決めて新天地で生活していきたいと考えています。   (40代 女性)

③避難指示解除について今のあなたの心境をお聞かせください。
・帰りたい方々が自宅や地域で過ごすことができて、大変良かったと思う。

(30代 男性)

・まず、避難指示解除の方針が示された時に思ったのは、「なんで?早すぎる」でした。その思いは、今でもまったく変わりません。そして、方針を知った村民の方たちの反応を見て、「こういう風になったのか」と思いました。避難指示が解除されたからといって、みんながやっと帰れるということではないんだな。
帰りたいけど帰れないんだな。
仕方なく帰るしかないんだな。
帰る気はないから帰らないんだな。
帰れるところじゃないから帰らないんだな。
帰っても、どう生活していくのか、何が出来るのか。
避難先での生活の基盤ができている方も多いと思います。
放射線量、汚染、単純にそれだけの問題ではないのが現状だと思います。

(20代 男性)

・避難指示になったときから、いつかは解除するとは思っていましたが、現況だと安心して帰れる状態ではないと思います。             (40代 女性)

・安心して村で生きる事への対応を!!とても不安に感じています。(80代 女性)

・仕方ないと思う。                      (40代 男性)

・汚染土が入ったフレコンバックが至る所にある状態で、避難指示が解除されることは到底許されるべきことではない。時の政府、県、村が責任不在のまま、自分たちの思いのまま決めているに過ぎない。そこに、避難している村民の声など反映されていない。村長選挙で今の村長が選ばれてしまったことに残念さ、無念さを感じる。

(40代 男性)

④今の行政に対してあなたが今、感じている事・思う事をご自由にお書きください。
・聴く耳、聴く場、伝えようとする場を持たない村なんて、本当の飯舘村じゃない!本当の飯舘村は村民の夢や将来、仕事継続等に向かってサポートする裏方!(村政が村民より)全面に出てどうする。誰がついていくのか?勝手にやってろと言われても、しょうがない。                      (40代 男性)

・村内での学校再開も、やはり本当にそれで良いものかと疑問です。
通学する際、子供を乗せた車やバスで、フレコンバッグが置かれているすぐ横を通り過ぎる。こんなことはあってほしくありませんし、とても悲しいことです。

(20代 男性)

・もう少し早い段階で村民からの意見に耳を傾け、話し合いをすれば、村民が知恵を出し合い、協調しながら解除に向けて準備ができたように思います。村政は、村民の為ではなく、「飯舘村」という名前だけ残ればいいように思えてなりません。

(40代 女性)

・役場職員のテンションは上がらないだろうが、前向きに頑張ってほしい。見る人は見ているから。応援・共同できるところはしていきたい。     (40代 男性)

・村職員の方々は大変忙しいのではないかと感じる。行政も続けられる体制でいてもらいたい。                          (30代 男性)

⑤さいごに上記の質問事項以外で何か伝えたいことがあれば、ご自由にお書きください。

・個々が懸命に生きていけば、それで良い。それぞれが家族を守りながら楽しく元気に暮らしていく事。行政には期待もしていないが、文句も全くない。大変だろうなと思う。俺にはできない。                    (40代 男性)

・村内で保護されている犬もこれから先どうなっていくか、気になるところです。
お世話してくださっている方の優しさとご苦労、そして、村内をパトロールされている方々、除染作業員の方々へ、感謝の気持ちでいっぱいの思いです。(20代 男性)

・誰も責任を取るつもりのないまま、ことが進んでいる。
飯舘村にこの先10年戻らない。飯舘村がどうなろうと構わないと思えれば楽なのだが、今の飯舘村のやり方を見ていると、どうしても我慢ならない。
我慢を抑えて生活しているとストレスがたまり、自分がダメになってしまうので、思うままに言い、思うままに行動するんだー!という気持ちで生きていきたい。

(40代 男性)

・高齢者が終の場所として選択した・・・村・国は安全、安心(人間が最低限度生活していく為に)をどう対応されるのか・・・?種々の角度から情報を頂いていきたいと思っております。私たちも村民として(自立・自律)と共生!!を常に心して生きていきたいと思っております。                  (80代 女性)

撮影ー筆者 2017年2月 飯舘村

撮影ー筆者 2017年2月 飯舘村

おわりにご協力いただいた村民の皆様に感謝をしたい。

この6年で村民の「声」はより重く響いてくる。

そして、言葉の裏にこれまで歩んできた平坦ではない道のりがどれほど険しかったことだろう…。

それぞれの苦渋の決断が迫られている。

 

 

山の恵みを奪われた暮らし2016 酒井政秋

秋、もう一度初心に戻り、この文章をあらためて世に送り出そうと思う。

以下の文章は今はもう存在しないサイトへ2013年に寄稿した文章だということをあらかじめ付け加えておく。

山の恵みを奪われた暮らし

今年もキノコの季節になった。飯舘村の避難から2年半が過ぎた。この時期になるといつも悔しい思いが強くなる。

私の祖母は山に行く事を震災前まで生きがいにしていた。その生き甲斐が原発事故によって失われた。単に山を歩くことが生きがいだったわけではない。春、木々が芽吹き、そして緑が増える頃、山菜が採れる。タラの芽、こごみ、ワラビ、すぐ近くに行けば沢山採れたのだ。

夏は畑で野菜のほとんどがスーパーに行かなくても収穫できた。秋になると松茸、イノハナ(正式にはコウタケ)、シメジ、マイタケ、数えきれないほどのキノコが採れた。その他にも沢山のものがすぐ近くに行けば採れたのだ。そして、それを食べるのはもちろん、近所の方におすそ分けをして共に喜ぶことだったり、また、遠くからキノコが食べたくて口伝えで買いに来られる方もいた。

そして、飯舘村の直売所は秋になるとキノコで一杯になる。紅葉を愛でながら、山へと行く祖母の姿はとても凛々しくもあり、活き活きしていた。祖母にとって、飯舘の人にとって山は生きていくうえで欠かせない「暮らしの一部」でもあり、「宝の山」でもあった。その暮らしが原発事故によって奪われたのである。

その事がどれほど大きい事か分かるだろうか。単に取れないだけの問題ではない。色も形も何ら変わりなく毎年山に出る。しかし、目の前にあるのに食べられない。香りは変わらないのに食べられない。ただ変わりがあるのは、測定された数値が示す放射性物質の値が高いという事だ。

生まれてきたときから山での生活をしてきた人にとって山の恵みを食べられないという事は、どれほどの事か。この償いを東電は認めようとはしない。生きがいの賠償・山での暮らしの賠償は未だ一切ない。お金に換えられないものは全く指針に示されず、そのお金に変えることができないここでいう「暮らし」が1番大事なことなのに。

1番安全な山の宝が今では1番危険なものになってしまった。その事の重大さは霞が関の官僚にわかるだろうか。利便性で簡単に得るものの満足と不自由な暮らしの中で見つける喜びどちらが正しいのだろうか。どちらが、未来を豊かにするものか我々世代が真剣に考えなければならないと思う。(2013年10月8日 筆者:酒井政秋)

 

我が家から見える野手上山

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家から眺めたこの景色をもう二度と見れなくなる。

それは、この景色は我が家の2階から見えた景色だった。しかし来年には家を取り壊す予定だ。

そして、今年もキノコは何万ベクレルもの値が出ている。山の恵みは未だに、安心して食べれる状態ではない。たとえ低い値でも「測定」しなければ食べられるのか、それとも食べられないのかという煩わしいことをしなければもう山の恵みは食べれない状態になってしまった。山での生活の中で「食の安全性」の喪失ということはとても大きいことだと理解してもらいたい。

 

 

~ 震災の日から5年 ~  鈴木清一 (鬼生田開発プロジェクト 下巻)

平成23年3月11日の午後、この日も相変わらずの多忙極まる業務に追われながらも何事も無く一日が過ぎる筈だったが、その時は突然やってきた。

午後2時46分ズンズンズン・ドンドンドンと地の奥底からの体を揺さぶる様な地鳴りが聞こえたかと思う間もなく、ガガン・ゴゴン・ギシギシと3階建ての建物は悲鳴をあげ大きく揺れ動いた。咄嗟に皆がそれぞれの机の下に潜り込むが、机ごと体が建物の中を前後左右に移動し、各所で女性達の悲鳴が聞こえた。

このままでは建物が倒壊し我々の命も危ないぞ!数分後に地震は収まったが、その後何度も余震が襲ってきた。建物の柱は傾斜し、壁は剥がれ落ちて書類は辺り一面に散乱していた。皆茫然と立ち尽すばかり、一体何が起きたんだ。緊急用のテレビを点けると東日本大震災の広大な範囲に及ぶ被害状況を放映している。自宅や家族の携帯に何度電話しても繋がらない、皆無事なのか不安が募る。

何時までもこうしては居られない。広範囲に及ぶ停電の復旧に電力社員や地域の電気工事店社員が一昼夜寝ずの対応に当たる。

そうこうしている内に東京電力福島第一原子力発電所の1号炉・2号炉・3号炉でメルトダウンが発生し、水素爆発によりそれぞれの建屋が崩壊し大量の放射性物質が大気に大量に飛散した。「これでもう福島は終わりだ!」と思わず口に出しそうになったが、必死にこらえた。

この時咄嗟に思ったのは、40代の単身赴任時代(浪江・小高原子力準備本部)に家族同様に7年間お世話になった浪江町の人々の安否だ。

大津波の被害に逢い更に追い打ちをかける様に放射能汚染に見舞われ一家離散となり、避難先で体調を崩して亡くなられた方も多いと聞く。原発事故被災者の方々の為に私に何か出来る事は無いのか・・・・。

その思いは、年を追うごとに強くなり平成26年3月23日の鬼生田1区定期総会に於いて「原発事故災害者復興タウン鬼生田開発プロジェクト構想」を臨時決議案として提案し、参加者全員の賛同を得た。その場で一緒に中心となって活動する仲間も9名となり、現在は11名となっている。

その後、7月24日には鬼生田小学校の体育館に於いて、鬼生田1区~4区までの全地区住民を対象とした「原発事故災害者復興タウン鬼生田開発プロジェクト」の説明会を開催した。それからは、このプロジェクトの趣旨に賛同する住民の承諾書を得るために仲間と共に鬼生田の地域を奔走し、1区は全世帯から承諾を得て、現在は2区・3区・4区へと大きく広がっている。

その承諾を受けて福島県内各地に避難している原発事故被災者の方々との交流を何度も行い、27年7月7日には郡山市長へ西田町区長会会長と共に「原発事故災害者復興タウン鬼生田開発プロジェクト」の趣旨を説明し、その理解と支援を依頼した。

その後も各地域の仮設住宅にて避難生活を送っている自治会長を始め被災者の方々との交流を深め、家族と一緒に住める安住の地を求める切実な訴えを聞いた。

ある時、会津若松の大熊町仮設住宅を訪れた際の自治会長の言葉が胸に深く突き刺さった。「息子夫婦は孫達を連れて仮設住宅を出て行って久しい・・・・爺ちゃん生活が整ったら迎えに来るからな!と言っていたが、このままでは、先にあの世からお迎えが来てしまうなハハハ・・・・」と寂しそうに笑った顔が今でも忘れられない。

「このままでは駄目だ!一日も早くこのプロジェクトを実現して、原発事故被災者の方々が失った古里と絆を回復し、家族と一緒に住める夢と希望を取り戻せる協働のまちづくりをするんだ。会社勤めをしながらの片手間の仕事では、このプロジェクトは達成しないぞ」との熱い思いがこみ上げてきた。一日も早く鬼生田開発プロジェクトを達成すべく27年11月20日付で再雇用先を依願退職し、このプロジェクトに全勢力を傾ける事となった。

そうして、今まで任意団体として行ってきた活動を更に県内全域に広げて行くために地元郡山市はもとより、他地域の行政や関連団体との連携を深めて、社会的にも認められた公的な組織にして行くことが最良の策であると考え、特定非営利活動法人格を取得するべく郡山市NPO活動推進課と協議を重ね平成28年2月19日付でNPO法人として認証を受け、更に2月25日に法人格としての登記を完了し、NPO法人として成立した。

これから、鬼生田開発プロジェクトの達成までは数多くの困難な課題を乗り越えなくてはならないが、原発事故被災者の方々が家族と一緒に楽しく暮らす笑顔を夢見て、鬼生田の地域の仲間達そして原発事故被災者の方々と力を合わせて、行政からの押し付けではない、自分達が本当に住みたい復興の街づくりを目指したいと考えている。

鈴木清一代理吉田邦吉投稿
(これは上巻の続きである)

※吉田注……鈴木さんと吉田が出会えたのは第一回ヴェルト秘密会が秘密会であるとの連絡がいきわたっておらず米田博さんを通じて津田枝里子さんが唯一お客として訪れた偶然からである。

NPO法人 原発事故災害者復興タウン鬼生田開発プロジェクト(上)吉田邦吉

※注……筆者の草稿に半分ほど鈴木さんの加筆がある。

鈴木清一さんは30代から郡山市西田町鬼生田に住んでいる。東北電力に勤めていた。発変電所勤務のため深夜勤務が多く体調を崩しやすく39歳で職種を技術系から事務系へ変更し、43歳の時に浪江・小高原子力準備本部へ転勤した。それは浪江町棚塩の海岸沿いに原子力発電所を立地する事業だった。そこでは土地の買収を主に担当した。

鬼生田開発プロジェクトの鈴木清一さん(撮影吉田邦吉)by WELTGEIST FUKUSHIMA

鬼生田開発プロジェクトの鈴木清一さん20160722(撮影吉田邦吉)by WELTGEIST FUKUSHIMA

今もしそこが整っていれば、原発が立っていただろう。鈴木さんはそこで7年間単身赴任生活を送った後転勤となり、54歳の時に自宅から通える東北電力郡山営業所に勤めた。そこで311となった。地震が起きて身の安全を守るため潜り込んだ机ごと体が前後左右に移動し、最初はなにが起きているかわからないほどだった。以下の鍵括弧は鈴木さんである。

「女子従業員よりも私のほうが驚きの悲鳴をあげていて恥ずかしかった」(地震・雷が大の苦手)

その後、福島第一原子力発電所の建屋が吹き飛んだのをニュースで見た時は、愕然とした。建屋が吹き飛ぶというのはメルトダウン(格納容器内の炉心が溶融し核燃料が容器の底に溶け落ちる)によりメルトスルー(格納容器の底が抜ける)して、放射能が飛散する最悪の事態であり、「これでもう福島は終わりだ!」と思わず口に出しそうになったが必死にこらえた。

この時咄嗟に思ったのは、40代の単身赴任時代(浪江・小高原子力準備本部)に家族同様に7年間お世話になった浪江町の人々の安否だ。

大津波の被害に逢い更に追い打ちをかける様に放射能汚染に見舞われ一家離散となり、避難先で体調を崩して亡くなられた方も多いと聞く。原発事故被災者の方々の為に自分に何か出来る事は無いのか・・・・その思いが込み上げてきた。

「原子力発電所の安全神話が崩れさったことが一番ショックでした。奥さん、原子力発電所は絶対大丈夫だ、万が一などまずないと言って土地を買収してきた事が悔まれてならなかった。浪江・小高地点では全ての地権者に同意を得る事が出来なかったため、浪江町に原子発電所が建設される事は無く、幸いにも浪江町では原発事故は起きずに済んだ。」

お茶菓子を食べながら鈴木さんが熱心に言う。
「昔の農家はお茶菓子をなんでも自分で作ったんです。キンツバやカラメル等をお袋の実家の婆ちゃんが作ってくれて旨かったな・・・・。私は会津坂下町に生まれ育ち、中学校卒業まで居ました。高校から宮城県の多賀城市で東北電力の企業内高校で学びました。最初は変電所の運転員でした。(改行)

41年間勤務しました。去年の6月30日を以って定年退職し、その後政府の雇用促進つまりパートと同じ扱いで東北電力に継続して勤めていましたが、このままでは駄目だ!一日も早くこのプロジェクトを実現して、原発事故被災者の方々が失った古里と絆を回復し、家族と一緒に住める夢と希望を取り戻せる協働のまちづくりをするんだ。(改行)

会社勤めをしながらの片手間の仕事では、このプロジェクトは達成しないぞとの熱い思いがこみ上げ、一日も早く鬼生田開発プロジェクトを達成すべく昨年の11月に再雇用先を依願退職し、このプロジェクトに全勢力を傾ける事となりました。」

奥様の美智子さん
「虚しさだけは耐えられない。これだけ放射能汚染という実害がある状況で、虚しいです。中通りだってね」
(以下、「さん」略)

鬼生田開発プロジェクト鈴木清一さんがひとまず耕している畑。(撮影吉田邦吉)同日 by WELTGEIST FUKUSHIMA

鬼生田開発プロジェクト鈴木清一さんがひとまず耕している畑。(撮影吉田邦吉)同日 by WELTGEIST FUKUSHIMA

鈴木さん達による「鬼生田開発プロジェクト(NPO法人原発事故災害者復興タウン鬼生田開発プロジェクト)」とは、原発避難者が、原発避難指示区域に比較的近い鬼生田の地で、ふるさとを見守りながら、鬼生田の広い土地を買い、家を建て、農家もしながら気兼ねなくそこに暮らすという計画である。

特質としては、避難者が集住でき、自然がすばらしく、都市にも避難区域にも近く、かつ、鬼生田の人達が最初から歓迎してくれている心の準備や法的なことなどの準備が鈴木さんたちのおかげで整っているということである。鈴木さんの実力が、原発誘致ではなく、避難者の保護救済へ向かっているのだ。

私は何度か彼のもとを訪れているが彼の気持ちは熱心である。

鈴木「放射能汚染されたところは戻りたくても戻れない。除染はまやかし。自分たちの意思で本当の復興マイタウンを作ってもらえれば政府に対してNOと言う声も強くなるとも思います。避難者の皆様と手をとりあって進みたい。今はまだ農地転用できてないですが、必ずできます。助成金も充当してもらえるようにできます。新しい町を作れれば非常に理想的だと思います。EU離脱問題じゃないけれども原発から離脱し自立しましょう!」

鬼生田から望める安達太良山(撮影吉田邦吉)20160722 by WELTGEIST FUKUSHIMA

鬼生田から望める安達太良山(撮影吉田邦吉)20160722 by WELTGEIST FUKUSHIMA

美智子「鬼生田は、すぐ住めるわけではなく、少し時間がかるので、関心がない人もいますが、ここなら自分達で新しい自治会を作ったり、つまりは周りに気兼ねすることなく窮屈な思いをしなくて良いんです。すばらしい学校もできるのです。西田学園(平成30年完成)。小中一貫校です。100坪以上の広い土地に若い人や親御さんたちが一緒に住める二世帯住宅なども理想だと思います。高速道路もすぐ近くですし、三春ダムの水も来てます。猪苗代湖の水も利用しています。両方から水がとれる立地の良いところです。複合ショッピングセンタージャスコも車で数分で行けますよ。三春にはリオンドールもあります。総合南東北病院へも数分で行けます。原発事故による放射能汚染に対して福島県民ももっと怒って良いと思います」

鈴木「この地域は農地一反(10a)から農業経営が出来る(H28.6.1から施行)ので、農家として住む方は少し大きめの家庭菜園つきの住宅を建てることができます。しかも農家なので採れた野菜は出荷もできます」

美智子「避難者の方を受け入れる活動を続けてきましたけど周りからもう(支援などは)いいんじゃないとか言われると、こちらがおかしいのかと思ってしまい、たまに疲れることもあります」

筆者「いえいえ、そんなことないですよ。やっぱり時間がかかることだと思いますし、そういう受け皿があると思うだけでぜんぜん違いますよ」

鈴木「私はこの活動を通して原発に依存する生活から離脱して自立する街づくり、地元住民と原発事故被災者の方々が協働で創る街づくりを目指しています。そして、被災者の方々が一日も早く家族と一緒に楽しく暮らす笑顔を夢見て活動をしています。今後は、避難者の方が運営する語り部の会開催やミュージシャンを招いての各種イベント、農業体験・収穫祭、芋煮会などを通して、原発事故被災者の人たちとの交流をはかろうと思っています」

鈴木さんと語らっていこう。鬼生田の野菜を頂きながら。

鈴木さんちのおにぎりと野菜(撮影吉田邦吉)20160722 by WELTGEIST FUKUSHIMA

鈴木さんちのおにぎりと野菜(撮影吉田邦吉)20160722 by WELTGEIST FUKUSHIMA

※NPO法人のホームページURL
 http://www.oniuda.or.jp/
NPO法人 原発事故災害者復興タウン鬼生田開発プロジェクト
※電話番号 事務所所在地
〒963-0921
福島県郡山市鬼生田字柿平330番地
(携帯) 090-6229-9881
事務局長 鈴木 清一

国民学校の少女の記憶(2)~戦後を生きる~ 高田 緑

昭和15年大東亜戦争の前年、専売局の女工さんと一緒に郡山市宇津峰山での記念写真。1列目の左から2番目が母(中島 良)。その斜め左が祖父(中島良眞)。

昭和15年大東亜戦争の前年、専売局の女工さんと一緒に郡山市宇津峰山での記念写真。1列目の左から2番目が母(中島 良)。その斜め左が祖父(中島良眞)。

国民学校の少女の記憶(1)よりつづく
敗戦国の日本に与えられた「自由」を生きる戸惑い。それは、国策によって思想も生活も統制されていた戦時中とは、180度変わったということだ。

私の母、中島 良は、国民学校5年生の時に終戦をむかえた。
翌年の昭和21年頃になると、郡山市赤木国民学校にはGHQがジープで乗り付け、度々やってきたという。戦時中に軍事教育をされてきた生徒たちの授業を監視していたのだ。日系二世の通訳を連れてきていたのを見て、少女は「非国民か!」と思ったそうだ。
戦時中、郡山市は軍郷(軍都)として日本軍の軍事拠点があった。その為、その拠点がそのまま連合軍の拠点となったのだ。
少女は6年生の終わりまで、女学校(高等女学校)に入るための準備をしていた。しかし、その年の5月に新制中学校制度に変わった為、生徒全員が受験せずに進学できるようになった。学制改革による中等教育の義務化である。戦後の教育改革は、しばらくは連合国軍のもと、つまりは占領行政のもとに行われていた。(日本国憲法が昭和21年11月に公布し、昭和22年5月施行されていたが、昭和26年のサンフランシスコ平和条約が成立するまでは、国政はすべて占領行政のもとにあった)
少女の父である私の祖父は、抑圧的なその制度にはいたく反論していたというが、少女にとってはあるがまま受け入れるしかなかった。と言うよりも、疑問を持ってはならないという軍国主義時代の教育を引きずっていた。
少女が入学した赤木中学校は、のちに芳賀中学校と合併し、郡山市第二中学校となった。中学校には、またもGHQが時々やってきたという。今度は教師へのレッドパージである。少女が慕っていた社会科の先生が学校から去っていったことを、少女は覚えている。

少女の父は、専売局(現在の日本たばこ産業㈱)の官吏であったが、戦時中は不本意ながらも国民服を着て専売局に通っていた。戦時中の専売局では、軍に支給する恩賜の煙草やわずかな量だが民間の煙草も作っていたそうだ。
そして終戦間際に結核を発症した。当時は、結核は死の病であった。食べるものがなかった時代に滋養のあるものなど手に入るはずがない。戦争が終わっても配給制度があったが、ますます食べるものが不足し、少女の母は、農家に出向いては自分の着物を芋などに変えてもらっていたそうだ。お金では物が買えない時代。食べる物を持ち得ていた農家の人の態度は、それ以前に比べて、一変したように少女は感じた。恨みはないが、その時に感じた虚しさや口惜しさは、当時の少女にとっては深く心に残っている。役人であったため、いくらでも闇物資を手に入れる手段はあったが父がそれを嫌っていたため、なお、生活は困窮していった。そんな中でも、煙草屋を営んでいた人が、父へ鶏肉や卵や鯉を滋養のためにと持ってきてくれたのが有り難かったという。
少女だけではない。日本中が飢えに苦しんでいた時代だったのだ。食べれるものなら雑草でも食べた。戦争が終わったからと言って、物資がすぐに出回ることなどなかった。
地方行政が機能していない時代。人間の本能に翻弄された時代だった、と少女は戦後を振り返る。
そんな状況が4、5年は続いていただろうか。結核の特効薬であるストレプトマイシンが世に出始めた。だが、すでに少女の父の病状はかなり悪化していた。また、保険の効かない薬だったため手に入れるのは困難を極めた。父の家系は代々医者の家系であったが、医者であった伯父でさえも自分の弟に回すほどの量の薬は入手できなかった。
昭和25年の4月1日、44歳になった誕生日に、少女の父、中島良眞(りょうま)は病死した。少女の高等学校への進学を死ぬ間際まで切望していたが、5人の弟妹を食べさせていかなくてはならなくなった家庭環境下で、少女は15歳で長女としての重責を課せられた。直前まで高等学校の受験勉強をしていた少女の人生が一転し、6月から父のいた専売局で働くことになった。父の部下だった上司のもとで。

少女は当時を振り返り、言う。戦後の苦しかったことはいくらでも語ることができる。でも楽しかった思い出はと尋ねられたら、楽しいとはどういう事なのかがわからなかったと。
少女の従兄のひとりは、戦時中、雨の神宮外苑で学徒出陣し、戦地に向かう途中に輸送船が撃沈され帰らなかった。(「国民学校の少女の記憶 外伝」
少女は当時を振り返り、言う。戦争とは、人間の運命を変えるもの。誰一人として幸せになった人間はいない。
軍国主義国の統制から自由になった戦後も、大人も子どもも何かと戦っていた。別な敵、別な“闘い”があった。それぞれの“闘い”だったのだろう。
少女は、軍歌や当時の流行歌を今も歌う。ラジオから流れていた歌を半世紀以上も経った今も忘れることができないのだろう。洗脳されたとは少女は決して言わない。ただ、素直で忠実であっただけだという。

平成28年、82歳になった少女は感じずにはいられない。ひたひたと知らず知らずに迫りくる、きな臭い社会の流れを。だから生きている限り、戦争で体験したことや二度と繰り返してはならないことを伝え続けていきたいと語る。

「昭和19年、鈴木中尉慶召記念」と記す。同僚を戦争に送る祖父の顔は険しい。(2列目の左から2番目)

「昭和19年、鈴木中尉慶召記念」と記す。同僚を戦争に送る祖父の顔は険しい。(2列目の左から2番目)