7年目の原発事故避難生活(第1章)~村民の声2017~ 酒井政秋

第1章)村民の声2017

わたしは2012年~2014年まで「飯舘村の1人1人の想い~伝えたいメッセージ~」(HP:https://iitatemessege.jimdo.com/ )を運営していた。これは、事故後、各仮設住宅の傾聴を始めていくうちに一人ひとりがちゃんと自分の意見や想いがありながらも口にすることができず、一人ひとりが苦しみを抱えていた。なぜこの声が村・県・国には届かないのだろうと…もどかしい気持ちでいた。村民一人ひとりの「声」は大切な声なのに…と。わたしは当時政治家にお会いする機会や行政区説明会などが頻繁にあったのでその大切な声を伝えていこうと思った。実際に相馬仮設住宅の不備などを役場担当職員に要望してきたこともあった。月日は流れ関心が薄れつつある県外の人たちにもこの想いを知り村民一人ひとりが、どんな状況にあるのかを想像して欲しいと思うようになり、ホームページ開設とSNSで専用ページ(現在閉鎖)を作成して公開してきた。

あれから早3年、わたし自身も色々と忙しくなり、中々思うように‟伝える活動”さえも出来ない状況になっていた。

そこで今回、原発事故7年目・3月末避難指示解除(帰還困難区域を除く)を迎えるにあたって村民は何を思い、どんな心情で日々を送っているのだろうか。1度限りの復活として、何名かの村民にご協力してもらい質問用紙にて声を聴かせてもらった。回答(順不同)を原文そのまま伝えていくことにする。

それぞれの考えや思いは村民一人ひとりで変わる。そして、その気持ちは6年間、波のように情報や状況や環境で揺れ動いていることをご理解いただきながら読んでほしいと切に願う。

撮影ー筆者 飯舘村の夕焼け

撮影ー筆者 飯舘村の夕焼け

 

①震災・原発事故から7年目になるわけですが、あなたは今、どのような心境ですか?
(例えば、悩みや不安、怒り、将来への展望など、書ける範囲で字数には制限ありませんので、ご自由にお書きください。)

・家族が笑って暮らせればそれでいい、3月から新しい職場での仕事が(スムーズに)務まるか不安、部落での役割と責任が増していくのが負担、子どもが福島市の高校に入るので「いじめ」られないか不安。              (40代 男性)

・飯舘村には、あと10年以上戻らないと決めている。その先戻るかは、その時になってみないとわからない。飯舘村は、生まれ育った故郷。それでいい。これからの人生が大事だから、生活する場所にこだわる必要はないと考えている。原子力発電所がまだ不安定な状態なので、地震等の災害が来たら、行く先は決めていないが、すぐに逃げる覚悟はいつも持っている。                 (40代 男性)

・ストレスが富士の山よりも高く積もりました。         (80代 女性)

・避難先での生活としては長い年月が経ったのだなと思います。小学1年生の子供たちが、中学生になるほどの年月です。しかし、子供から高齢者の老若男女が、生活していけるような村になるという意味では、まだまだ短すぎる年月だと思います。山林の除染も何とかしてほしいと思います。自然と共に飯舘村の暮らしがありました。仮に除染をしても、元の暮らしが出来るとは思えないのが、正直なところですが…。100年、200年、300年経って、子供たちが何の不安も無しに、山や川など、外で楽しく遊べる日が来ることを願ってやみません。私は、飯舘村の写真を撮っているので、避難指示解除後、村に戻って精力的に活動している方や住民などにスポットをあてた写真も撮りたいと考えています。            (20代 男性)

・子供たちを自分と同じような環境で育てられない、地域社会の中で育てられない、そしてそれらを諦めてしまっていることを時折辛く感じる。別の場所に移り住んでそういう環境づくりをすればいいのだけれど、それでは地元に帰れなくなる。                (30代 男性)

②2017年3月末日で飯舘村が避難指示解除になりますが、まず、はじめにあなたは飯舘村に帰村しますか?それとも新天地で生活を継続していきますか?

《帰村するを選んだ方》

・村の指示に基づいて村に帰ります。飯舘村の自然と共に土で生きた人生でした。いのちの終焉は飯舘村の「土」になる覚悟で生きていきたいと思っています。

(80代 女性)

・いずれ帰村をする。そして、村での仕事をする。農地を守る。地域社会を守る。子供たちにつなげるかどうかは自分たち次第だと思う。       (30代 男性)

《新天地での生活継続を選んだ方》

・新天地に家を建てるので当面は新天地で生活していきますが、飯舘にも家を建て直すので、いずれは帰村するかもしれない・・・わからない。    (40代 男性)

・帰村しない。当分は、避難先で生活する。その後は、妻と一緒に永住できるような土地を探し、小さな家を建てる。
汚染された土地、フレコンバックがある風景。
そんなところに子供を連れて戻りたくない。
飯舘村は、まだ、元に戻る途中の状態である。まだまだ時間がかかる。

(40代 男性)

・まだ、帰りたいと思える場所ではないため。家族と一緒に新天地で暮らすことにした為。放射性物質、汚染の心配。避難先での生活の基盤が出来てきている中、早々に帰るメリットや理由が見いだせない。              (20代 男性)

・今は避難してからの生活が定着していて、現在の飯舘村で生活していけるのか?を考えると不安が多くあり(病院・買い物などのインフラ・放射能・フレコンバックなど)現時点では帰らないと決めて新天地で生活していきたいと考えています。   (40代 女性)

③避難指示解除について今のあなたの心境をお聞かせください。
・帰りたい方々が自宅や地域で過ごすことができて、大変良かったと思う。

(30代 男性)

・まず、避難指示解除の方針が示された時に思ったのは、「なんで?早すぎる」でした。その思いは、今でもまったく変わりません。そして、方針を知った村民の方たちの反応を見て、「こういう風になったのか」と思いました。避難指示が解除されたからといって、みんながやっと帰れるということではないんだな。
帰りたいけど帰れないんだな。
仕方なく帰るしかないんだな。
帰る気はないから帰らないんだな。
帰れるところじゃないから帰らないんだな。
帰っても、どう生活していくのか、何が出来るのか。
避難先での生活の基盤ができている方も多いと思います。
放射線量、汚染、単純にそれだけの問題ではないのが現状だと思います。

(20代 男性)

・避難指示になったときから、いつかは解除するとは思っていましたが、現況だと安心して帰れる状態ではないと思います。             (40代 女性)

・安心して村で生きる事への対応を!!とても不安に感じています。(80代 女性)

・仕方ないと思う。                      (40代 男性)

・汚染土が入ったフレコンバックが至る所にある状態で、避難指示が解除されることは到底許されるべきことではない。時の政府、県、村が責任不在のまま、自分たちの思いのまま決めているに過ぎない。そこに、避難している村民の声など反映されていない。村長選挙で今の村長が選ばれてしまったことに残念さ、無念さを感じる。

(40代 男性)

④今の行政に対してあなたが今、感じている事・思う事をご自由にお書きください。
・聴く耳、聴く場、伝えようとする場を持たない村なんて、本当の飯舘村じゃない!本当の飯舘村は村民の夢や将来、仕事継続等に向かってサポートする裏方!(村政が村民より)全面に出てどうする。誰がついていくのか?勝手にやってろと言われても、しょうがない。                      (40代 男性)

・村内での学校再開も、やはり本当にそれで良いものかと疑問です。
通学する際、子供を乗せた車やバスで、フレコンバッグが置かれているすぐ横を通り過ぎる。こんなことはあってほしくありませんし、とても悲しいことです。

(20代 男性)

・もう少し早い段階で村民からの意見に耳を傾け、話し合いをすれば、村民が知恵を出し合い、協調しながら解除に向けて準備ができたように思います。村政は、村民の為ではなく、「飯舘村」という名前だけ残ればいいように思えてなりません。

(40代 女性)

・役場職員のテンションは上がらないだろうが、前向きに頑張ってほしい。見る人は見ているから。応援・共同できるところはしていきたい。     (40代 男性)

・村職員の方々は大変忙しいのではないかと感じる。行政も続けられる体制でいてもらいたい。                          (30代 男性)

⑤さいごに上記の質問事項以外で何か伝えたいことがあれば、ご自由にお書きください。

・個々が懸命に生きていけば、それで良い。それぞれが家族を守りながら楽しく元気に暮らしていく事。行政には期待もしていないが、文句も全くない。大変だろうなと思う。俺にはできない。                    (40代 男性)

・村内で保護されている犬もこれから先どうなっていくか、気になるところです。
お世話してくださっている方の優しさとご苦労、そして、村内をパトロールされている方々、除染作業員の方々へ、感謝の気持ちでいっぱいの思いです。(20代 男性)

・誰も責任を取るつもりのないまま、ことが進んでいる。
飯舘村にこの先10年戻らない。飯舘村がどうなろうと構わないと思えれば楽なのだが、今の飯舘村のやり方を見ていると、どうしても我慢ならない。
我慢を抑えて生活しているとストレスがたまり、自分がダメになってしまうので、思うままに言い、思うままに行動するんだー!という気持ちで生きていきたい。

(40代 男性)

・高齢者が終の場所として選択した・・・村・国は安全、安心(人間が最低限度生活していく為に)をどう対応されるのか・・・?種々の角度から情報を頂いていきたいと思っております。私たちも村民として(自立・自律)と共生!!を常に心して生きていきたいと思っております。                  (80代 女性)

撮影ー筆者 2017年2月 飯舘村

撮影ー筆者 2017年2月 飯舘村

おわりにご協力いただいた村民の皆様に感謝をしたい。

この6年で村民の「声」はより重く響いてくる。

そして、言葉の裏にこれまで歩んできた平坦ではない道のりがどれほど険しかったことだろう…。

それぞれの苦渋の決断が迫られている。

 

 

山の恵みを奪われた暮らし2016 酒井政秋

秋、もう一度初心に戻り、この文章をあらためて世に送り出そうと思う。

以下の文章は今はもう存在しないサイトへ2013年に寄稿した文章だということをあらかじめ付け加えておく。

山の恵みを奪われた暮らし

今年もキノコの季節になった。飯舘村の避難から2年半が過ぎた。この時期になるといつも悔しい思いが強くなる。

私の祖母は山に行く事を震災前まで生きがいにしていた。その生き甲斐が原発事故によって失われた。単に山を歩くことが生きがいだったわけではない。春、木々が芽吹き、そして緑が増える頃、山菜が採れる。タラの芽、こごみ、ワラビ、すぐ近くに行けば沢山採れたのだ。

夏は畑で野菜のほとんどがスーパーに行かなくても収穫できた。秋になると松茸、イノハナ(正式にはコウタケ)、シメジ、マイタケ、数えきれないほどのキノコが採れた。その他にも沢山のものがすぐ近くに行けば採れたのだ。そして、それを食べるのはもちろん、近所の方におすそ分けをして共に喜ぶことだったり、また、遠くからキノコが食べたくて口伝えで買いに来られる方もいた。

そして、飯舘村の直売所は秋になるとキノコで一杯になる。紅葉を愛でながら、山へと行く祖母の姿はとても凛々しくもあり、活き活きしていた。祖母にとって、飯舘の人にとって山は生きていくうえで欠かせない「暮らしの一部」でもあり、「宝の山」でもあった。その暮らしが原発事故によって奪われたのである。

その事がどれほど大きい事か分かるだろうか。単に取れないだけの問題ではない。色も形も何ら変わりなく毎年山に出る。しかし、目の前にあるのに食べられない。香りは変わらないのに食べられない。ただ変わりがあるのは、測定された数値が示す放射性物質の値が高いという事だ。

生まれてきたときから山での生活をしてきた人にとって山の恵みを食べられないという事は、どれほどの事か。この償いを東電は認めようとはしない。生きがいの賠償・山での暮らしの賠償は未だ一切ない。お金に換えられないものは全く指針に示されず、そのお金に変えることができないここでいう「暮らし」が1番大事なことなのに。

1番安全な山の宝が今では1番危険なものになってしまった。その事の重大さは霞が関の官僚にわかるだろうか。利便性で簡単に得るものの満足と不自由な暮らしの中で見つける喜びどちらが正しいのだろうか。どちらが、未来を豊かにするものか我々世代が真剣に考えなければならないと思う。(2013年10月8日 筆者:酒井政秋)

 

我が家から見える野手上山

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

家から眺めたこの景色をもう二度と見れなくなる。

それは、この景色は我が家の2階から見えた景色だった。しかし来年には家を取り壊す予定だ。

そして、今年もキノコは何万ベクレルもの値が出ている。山の恵みは未だに、安心して食べれる状態ではない。たとえ低い値でも「測定」しなければ食べられるのか、それとも食べられないのかという煩わしいことをしなければもう山の恵みは食べれない状態になってしまった。山での生活の中で「食の安全性」の喪失ということはとても大きいことだと理解してもらいたい。

 

 

国民学校の少女の記憶(2)~戦後を生きる~ 高田 緑

昭和15年大東亜戦争の前年、専売局の女工さんと一緒に郡山市宇津峰山での記念写真。1列目の左から2番目が母(中島 良)。その斜め左が祖父(中島良眞)。

昭和15年大東亜戦争の前年、専売局の女工さんと一緒に郡山市宇津峰山での記念写真。1列目の左から2番目が母(中島 良)。その斜め左が祖父(中島良眞)。

国民学校の少女の記憶(1)よりつづく
敗戦国の日本に与えられた「自由」を生きる戸惑い。それは、国策によって思想も生活も統制されていた戦時中とは、180度変わったということだ。

私の母、中島 良は、国民学校5年生の時に終戦をむかえた。
翌年の昭和21年頃になると、郡山市赤木国民学校にはGHQがジープで乗り付け、度々やってきたという。戦時中に軍事教育をされてきた生徒たちの授業を監視していたのだ。日系二世の通訳を連れてきていたのを見て、少女は「非国民か!」と思ったそうだ。
戦時中、郡山市は軍郷(軍都)として日本軍の軍事拠点があった。その為、その拠点がそのまま連合軍の拠点となったのだ。
少女は6年生の終わりまで、女学校(高等女学校)に入るための準備をしていた。しかし、その年の5月に新制中学校制度に変わった為、生徒全員が受験せずに進学できるようになった。学制改革による中等教育の義務化である。戦後の教育改革は、しばらくは連合国軍のもと、つまりは占領行政のもとに行われていた。(日本国憲法が昭和21年11月に公布し、昭和22年5月施行されていたが、昭和26年のサンフランシスコ平和条約が成立するまでは、国政はすべて占領行政のもとにあった)
少女の父である私の祖父は、抑圧的なその制度にはいたく反論していたというが、少女にとってはあるがまま受け入れるしかなかった。と言うよりも、疑問を持ってはならないという軍国主義時代の教育を引きずっていた。
少女が入学した赤木中学校は、のちに芳賀中学校と合併し、郡山市第二中学校となった。中学校には、またもGHQが時々やってきたという。今度は教師へのレッドパージである。少女が慕っていた社会科の先生が学校から去っていったことを、少女は覚えている。

少女の父は、専売局(現在の日本たばこ産業㈱)の官吏であったが、戦時中は不本意ながらも国民服を着て専売局に通っていた。戦時中の専売局では、軍に支給する恩賜の煙草やわずかな量だが民間の煙草も作っていたそうだ。
そして終戦間際に結核を発症した。当時は、結核は死の病であった。食べるものがなかった時代に滋養のあるものなど手に入るはずがない。戦争が終わっても配給制度があったが、ますます食べるものが不足し、少女の母は、農家に出向いては自分の着物を芋などに変えてもらっていたそうだ。お金では物が買えない時代。食べる物を持ち得ていた農家の人の態度は、それ以前に比べて、一変したように少女は感じた。恨みはないが、その時に感じた虚しさや口惜しさは、当時の少女にとっては深く心に残っている。役人であったため、いくらでも闇物資を手に入れる手段はあったが父がそれを嫌っていたため、なお、生活は困窮していった。そんな中でも、煙草屋を営んでいた人が、父へ鶏肉や卵や鯉を滋養のためにと持ってきてくれたのが有り難かったという。
少女だけではない。日本中が飢えに苦しんでいた時代だったのだ。食べれるものなら雑草でも食べた。戦争が終わったからと言って、物資がすぐに出回ることなどなかった。
地方行政が機能していない時代。人間の本能に翻弄された時代だった、と少女は戦後を振り返る。
そんな状況が4、5年は続いていただろうか。結核の特効薬であるストレプトマイシンが世に出始めた。だが、すでに少女の父の病状はかなり悪化していた。また、保険の効かない薬だったため手に入れるのは困難を極めた。父の家系は代々医者の家系であったが、医者であった伯父でさえも自分の弟に回すほどの量の薬は入手できなかった。
昭和25年の4月1日、44歳になった誕生日に、少女の父、中島良眞(りょうま)は病死した。少女の高等学校への進学を死ぬ間際まで切望していたが、5人の弟妹を食べさせていかなくてはならなくなった家庭環境下で、少女は15歳で長女としての重責を課せられた。直前まで高等学校の受験勉強をしていた少女の人生が一転し、6月から父のいた専売局で働くことになった。父の部下だった上司のもとで。

少女は当時を振り返り、言う。戦後の苦しかったことはいくらでも語ることができる。でも楽しかった思い出はと尋ねられたら、楽しいとはどういう事なのかがわからなかったと。
少女の従兄のひとりは、戦時中、雨の神宮外苑で学徒出陣し、戦地に向かう途中に輸送船が撃沈され帰らなかった。(「国民学校の少女の記憶 外伝」
少女は当時を振り返り、言う。戦争とは、人間の運命を変えるもの。誰一人として幸せになった人間はいない。
軍国主義国の統制から自由になった戦後も、大人も子どもも何かと戦っていた。別な敵、別な“闘い”があった。それぞれの“闘い”だったのだろう。
少女は、軍歌や当時の流行歌を今も歌う。ラジオから流れていた歌を半世紀以上も経った今も忘れることができないのだろう。洗脳されたとは少女は決して言わない。ただ、素直で忠実であっただけだという。

平成28年、82歳になった少女は感じずにはいられない。ひたひたと知らず知らずに迫りくる、きな臭い社会の流れを。だから生きている限り、戦争で体験したことや二度と繰り返してはならないことを伝え続けていきたいと語る。

「昭和19年、鈴木中尉慶召記念」と記す。同僚を戦争に送る祖父の顔は険しい。(2列目の左から2番目)

「昭和19年、鈴木中尉慶召記念」と記す。同僚を戦争に送る祖父の顔は険しい。(2列目の左から2番目)

双葉町盆踊り大会(@加須市)を見にいく   伊藤千惠

昨日8月14日は、福島県双葉町から埼玉県加須市へ避難した方たちの盆踊り大会へおじゃましました。今年で双葉町埼玉自治会主催として3回目の開催だそうです。

双葉町は、原発事故から6年目の現在、町の96%が立ち入り制限されている帰還困難区域です。人口約7000人のうち、約4100人が県内避難、約2900人が県外避難、そのうちの855人が埼玉県に避難しています。(双葉町公式ホームページより)

避難所のあった旧騎西高校からほど近い騎西総合体育館で行われた盆踊り大会は、町民だけでなく、加須市在住や八王子からも、支援を機にずっと交流を続けられている方々がお手伝いに来ていました。
最初は支援であっても、今は双葉町の方に逆に支えられているという女性のことばが印象的でした。
報道されることの少なくなった原発避難の状況ですが、忘れてはならないという埼玉、東京の人が少しでもいることに力強い思いを抱きました。

bon 03

左から自治会長さんの藤田さん、加須市在住の支援者Aさん。 ありがとうございました。

bon 02

「盆踊り」のルーツは念仏踊りと言われていますが、伝統芸能は地方によって起源も変化のしかたも違っており、諸説さまざまあります。
お盆がやってくると地獄の釜のふたが開き、死者の霊魂がこの世に戻ってきます。死者だけではなく、なかには無縁の精霊、悪霊もいるので、それらには帰ってもらう悪霊退散の踊りが念仏踊りであると言ったのは民俗学者の折口信夫。

その土地に関係なく有名な民謡をテープを流し、それに合わせて踊る現代的な盆踊りしかなじみのなかった私には、伝承系の双葉町盆踊りはとても興味深いものでした。
唄と大太鼓と少し小ぶりの小太鼓、笛の4人で繰り返し演奏される盆踊り唄。
伝統的な民俗音楽・民俗舞踊のほとんどは、この「繰り返しの魔術」によってトランスにひきこまれ、日常性を逸脱するのではないかと思っている私には、折口の説がはまるような気がします。

話がそれてしまいました。
太鼓、笛のお囃子方は、曲がとぎれることなく複数の人が交代で演奏していましたが、唄っている方は一人、すばらしい声でずっと唄いどおしでした。
その28歳の女性Mさんにお話を聞くと、小さいころから民謡教室に入れられて、中学生のときから櫓にあげられて盆唄を唄ってきたとのこと。
太鼓は昨今流行りで、かっこいいし若い人もやりたがるけど、民謡は人気がないから自分の跡は継ぐ人がいない、というさみしい話でした。
そういえば最初のお囃子方は、十代の娘さん、お母さん、お祖父さんと親子三代のトリオ。十代の娘さんも否応なく小さいころから練習させられたと。
伝統とはそういうふうに残していかなければ伝承していかないんだと改めて感じました。

すばらしいのどを披露してくれたMさんと親子三世代の囃子方。 お祖父さまがいなせでとにかくかっこいい

すばらしいのどを披露してくれたMさんと親子三世代の囃子方。
お祖父さまがいなせでとにかくかっこいい

それから来賓の方々のあいさつ、双葉音頭、騎西音頭、地元の人たちのよさこい演舞などがあり、また盆踊りを堪能。
旧騎西高校避難所が閉鎖したあと、何度かお会いした方たちと交流、話をうかがうことができて感謝でした。
福島県内外の土地に定住した方もいらっしゃいますが、いまだ仮設住宅住まいであったり、コミュニティがバラバラになり、行政からの通達は届いても横のつながりが薄い、という話も聞きました。
ひとつの町のコミュニティが全国に散らばってもなお、故郷の土地は原発すぐ近くに存在する理不尽さ。
福島県内の避難区域内外、そのあいだの段階的な地域、それぞれにさまざまな問題があり、ひとことでは表現できませんが、“自分の”、“東京の”問題の一つとしてなにかしら関わっていくことを改めて思った次第です。

【特集 熊本地震:2】私にできること。それは伝えること。 酒井政秋

6月24日-

つぎに訪れた場所は熊本県益城町だ。
益城町は熊本県のほぼ中央からやや北寄りにあり、熊本市東部に隣接しており、熊本市のベッドタウンとしての役割も果たしている。
そこに、4月14日21時26分の前震とその28時間後の4月16日1時25分には本震が、熊本県をはじめとする巨大地震が相次いで襲った。
益城町に行くと、そこは無残にも家が崩れており、車道に覆いかぶさるかのように傾いた家やコンクリートの建物、1階が押しつぶされ2階だけが残っている建物、全部が斜めに崩れ落ちている家などが数多く点在していた。倒壊した家の前に、花束やお供え物が置いてあるところもあった。
被害がひどい地区は全く別世界のような、なんとも言葉にしがたい不思議な感覚に襲われた。
崩れた家並みの細い路地を歩いていくと、傾いた家の軒先にテントを張って生活をしている人、道路が崩れ落ちて、車が覆いかぶさっているところ、様々な光景が自分の目の前に飛び込んでくる。

シャッターを押す手も震えるとはこういう事なんだと初めて体験した。倒壊している建物 益城町にて
暮らしが揺れ動き、一瞬にして日常が崩れ落ち、そして、非日常の日々を送っている事はいかばかりか。想像はできるものの、全く東北の地震と質の違いに唯々、呆然としながらもこの状況をどう伝えればいいのか分からない時を過ごした。唯一、そんな時でも花はけなげに咲いていた。自然は時に、牙をむくときがある。けれども、自然でまた、癒されることもある。そうして、この困難を乗り越えてほしいと花を見ていてそう思った。

倒壊している街並みに咲く花。益城町にて
今は必死で日々を過ごしているのだろう。けれど、仮設住宅や借り上げ住宅に移ったとき、ホッとするのと同時に様々な喪失感と向き合わなければならない。その時、心身の疲れが噴出するときでもあるだろう。
そこをどうやって人支えで踏ん張っていくことができるのだろうか。
これは正直、地域、地域で全くニーズややり方が違う。被害の差によって生まれてくるであろう格差と生活再建までのスピードの差。その地域、地区に合う生活再建までの道のりをどう議論していくかが今後の課題でもあるように思えた。
旅の最後に訪れた喫茶店で、たまたま喫茶店の奥様とお話しすることができた。

「実は毎日不安で不安で、でも、そんなこと口にできないですから、みんな頑張ってますから。私も頑張ります。」

と笑顔で仰ってて、わたしはとっさに「頑張らなくていいと思います。悲しい時は泣いていいし、辛いなら辛いと誰か信頼できる人に言ってください。そうしないと、後々、心がつぶれてしまいますから。」と言わずにはいられなかった。奥様の笑顔はとても優しくその奥がとても疲れたように感じたからだ。

今回、西原村、熊本市、益城町を見てきた。それぞれの土地で被害の質と問題が違うこと、共通の問題もあること。それぞれに時間のかかる課題と天候によって、復旧するまでにながい道のりになるだろうなと感じた。
わたしに何ができるわけではないが、極論を言えば、最後に歩いていくのは個人個人だから。自分の歩幅で1歩1歩。疲れたら立ち止まり、周りを見渡し、また歩めばいい。絶対に無理して頑張ろうとしないこと、弱音だって信頼できる人には吐いたっていい。人間そんなに完璧な人間はいないのだから。そんなエールを個人的に送りたい気持ちだ。

九州が揺れたとき、自分が3.11に揺り戻された。

必死で熊本の友人・知人に情報を伝えた。
けれど、今回の自分は当事者ではない。
外側から何ができるだろうか。
物資を送ること、募金、それぞれ、一通りやった。
それでも、すっきりしない心があった。
揺れ動いた心が落ち着かなかった。
そして、やはり、自分の目で、耳で聴いて、視て、確かめたかった。
そして、やはり自分は震災後”伝えること”を大切にしているので、自分らしい支援の形、それは「伝えること」だった。
それがとても大切な気がしてこうしてペンを走らせた。

最後に、今回の地震によって尊い命に鎮魂の祈りと、今なお避難所で大変な暮らしをなさっている方々の日常が一日も早く取り戻せることを祈りつつこの文章を締めくくりたい。

熊本城