「コットンツアー2017.10 綿の収穫@二本松市」に参加して 高田 緑

今年も、コットンプロジェクト・福島(代表:渡邊真紀湖)主催の綿の収穫に参加してきた。
秋の行楽シーズンにしては東北自動車道が混んでいなかったのは、台風の影響だったのか、東への旅行者が減ってきたのかはわからないが、都心の景色から徐々に故郷の景色に代わるバスでの移動は心の準備もできる。
コットンプロジェクト・福島の代表、渡邊真紀湖さんの活動のコンセプトとは、「地元の農地で有機栽培された綿花を製品化することで、農業の六次産業化をめざし、都市と農村の地域交流を推進しながら、日本の農産物の自給率アップに貢献する」(「フクシマ発」現在書館より)。渡邊さんのそのスタンスでの活動は、一貫している。
震災直後の2011年春から、二本松市東和地区の有機農家さんに綿の種を育てていただき、プロジェクトはスタートした。2012年の春には、毎年代々木で開催されている東京アースデイにて、生産者さんと共に参加者に綿の種まきを体験していただくことからスタートする参加型の「コットンツアー」が始まり、今年で5年目となった。
今年の春の定植では真夏日のような陽気となり、参加者も苗も萎びれそう(方言:しおれるという意味)になったが、その小さな苗が秋には腰位の丈に生い茂り、コットンボールが弾けそうに生っていた。それでも今年は他の作物同様に天候不順の影響で不作らしい。
年々、参加者は減ってはいるが、少ないなりにノンビリと里山の綿畑で、宝探しのように弾けている綿花を収穫するときのコットンボールの触り心地は、一度体験すると病みつきになると毎回感じる。癒し効果があるのだ。実際は一気には実が弾けないので、雨に濡れないようにと毎日、生産者さんが“白い宝物”を見つけては収穫している。

綿の花

綿の花

弾けたコットンボール

弾けたコットンボール

東京から何回か参加している若き女子。かわいい~!

東京から何回か参加している若き!女子。かわいい~!ありがとう!

みんなで休憩。農家さんの笑顔がステキ!

みんなで休憩。農家さんの笑顔がステキ!(撮影:Mamiko Aoki)

”白い宝物”

”白い宝物”

二日目は、農家民宿ゆんたにてミニ座布団制作のワークショップに参加。講師の生産者である藤倉さんに手取り足取り教えていただき、笑いの中で参加者二人の教室となった。それにしてもオーガニックコットンの座布団とは、なんと贅沢なんだろう。

先生!よろしくお願いします!

先生!よろしくお願いします!

この形にするには何度も重ねる。

この形にするには何度も重ねる。

生地を選んで、ぎゅぎゅぎゅーっと綿を入れ、四方をしっかり詰め込む、糸で綿を引っ張るように縫い、真ん中でしっかり綿を止める。慣れるまでなかなか難しいのです。

生地を選んで、ぎゅぎゅぎゅーっと綿を入れ、四方をしっかり詰め込み、糸で綿を引っ張るように縫い、真ん中でしっかり綿を止める。慣れるまでなかなか難しいのです。

小さな種から綿製品になる工程や、綿花が農産物であることはまだまだ周知はされていない。忘れ去られようとしている。福島県では特に会津地方で盛んだったことさえも知らない人が大多数だ。

混沌としたこんな時代だからこそ、先人の知恵の継承が必要なのだろうと心底思う。福島県に限ったことではない。失ったものは取り戻せないが、人の精神の軸がぶれない限り、幸せな生き方を見つけられるはず。残された者は希望を捨ててはしまいたくはない。
故郷、福島県の2017年秋にそう思った。

◇月いちリレーエッセイ◇  政治は遠いのか。な?  伊藤 千惠

衆院選が終わった。
ツイッターやフェイス・ブックなどのSNSではこれでもかというくらい関連の話が流れ、実際食傷した。
が、言論はヘイトや反社会的な意図がなければという留保付きで自由である。庶民層が政談、床屋談義するのはけっこうなことである。私には関係ない、興味ない、どうせ変わらないもんねという態度より数段いい。
(欲をいえば、同じ話題はもういいからちょっと違う話題とか、違う切り口の意見とかをみんな書いてくれればいいんだけど。その方が波及力あると思うし。)
問題は、それが庶民層におけるマイノリティにすぎなくて、若年層、30歳~40歳代の働き盛り層がとても少ないということ。毎日の通勤満員電車のなかをみわたしても、会社のオフィスで雑談していても、街のカフェや商店街をぶらついていてもいっこうにそのような声は聞こえてこない。
それはそのまま投票率につながるんだろう。
どうしたものか、、、。
ということをいつも考えている。

東日本大震災による福島第一原子力発電所事故から政治や行政へ不信感を抱き、いろいろな知らなかった知ろうとしなかった情報を得て、選挙運動なんかに興味を持った人はたしかにいる。自分もそうだし、震災以前は存在しなかったことを考えると、少数でも激的変化かもしれない。
ということを考えるに、なにかひとつ気になること―例えば働き方や給料のこと、子どもの教育、親の介護、年金、医療にかかるお金、災害、表現の自由、個人商店がなくなる、なんてことでも必ず政治につながるものだ。なにひとつ不満も不自由も感じていない人はいないだろう。
大きな社会的問題だけをとりあげる必要はぜんぜんない。そこから関心のない人へのアプローチができるかもしれない。
だいじなのは自分の見方意見を絶対的なもののように言わないこと。選挙に行かなかった、政治に関心がないことを否定するようなことは言わないこと。そこ出発点では対話は生まれないんじゃないかな。
一挙にマス(=集団、かたまり、大衆)を変えさせるなんて全体主義的で気持ちの悪いものであるから、まず自分の身近にいる無関心びとと会話すること、対話することだなあ。
と、ひきこもり派の自分はつらつら考える。

◇月いちリレーエッセイ◇ 泥にも一生 津田枝里子

 某時代物ドラマで、自分が「泥を被る」事で想い人を助け処刑されたある「漢」の話が最近話題になりました。
 あえて憎まれ役を買って出るという史実には無い解釈で、こういう事があったかもしれないという観点を描いたらしいのですがそれはさておき、この「泥を被る」という行為をした人物の魂に私は「大きな器」を感じました。

 あなたは愛する人の為に悪になれますか?

 誰もが自分の価値観で善悪を判断しがちな昨今、悪となされた中にある真実に注目したくなりました。この世は知られざる「泥被り」が歴史を造り支えたのではないでしょうか。
 日本神話の中にもあります。スサノオノミコトが高天原にて粗暴な振る舞いをし、その事でアマテラスが岩戸にお隠れになるという話は有名ですね。

 「田の畦を踏み潰し埋め、神殿にう○こを撒き散らし……。アマテラスは弟のしたことを庇っていましたが、ある時スサノオが機織り場に斑模様の馬の皮を剥いで投げ入れ、それに驚いた機織り娘が横糸を通すための道具板で女陰をついて死んでしまいました。これにはついにアマテラスも恐ろしくなり、天の岩戸屋に隠れてしまわれました。」
 
 神様なのに何故このような残酷な事をと思っていました。そんな時ある神職の方が、『「神でさえこのような悪事を致す。人間が同じような罪を侵しても仕方ない事だ。だからどうか人類の罪、不徳を許したまえ」とスサノオノミコトは自らがありとあらゆる粗暴をする事で親神様に願い出て下さっているのですよ。』

 と、とても深いい話を教えて下さいました。実際にその神話を引用した祝詞があるそうです。

 我々は表面に見える悪を叩きはするけどその中にあるものを見ようとはしません。先ほどのドラマの話を聞いた時、斯くありたいものだと思いましたが、自分は泥を被る事などとてもできません。だからこそ泥を被ってくれた人がいるならそれに報いたい。泥から蓮の華が咲くように、泥から学び、感謝できる自分でありたいと願う今年の9月でした。

愛しいフクシマを創造しよう 吉田邦吉

 ヴェルトガイスト・フクシマは正式には「WELTGEIST FUKUSHIMA」で登録されている刊行物です。ドイツ語なので、Wのところを英語のVとして発音します。読み仮名は、「ヴェルトガイスト・フクシマ」であります。

 しばしば取沙汰される「フクシマ」という言葉について思うことがあります。わたしは「フクシマ」という言葉を憎悪表現だとは思っていません。これだけ騒がれたフクシマは、得体の知れぬ放射能で汚されたという意味合いを持つと思われることから毛嫌いされたりしました。現に今もそう思う人達は居るようです。

 しかしそれは、ヨコハマと同じカタカナであり、わたしにとって愛しいフクシマであります。細やかで繊細な、ただの小さな個人の悲しみが、歴史が、思い出が、暮らしが、大自然が、動物が、そしてそれらが汚染されたり奪われたりした艱難辛苦(かんなんしんく)が、凝縮されています。大事なフクシマを自分で貶(おとし)める必要は無いと思います。

 ひとりひとりが自らのフクシマを創造しましょう。

 フクシマという文字は、疑いようもなく「福島」という音を備えています。それを「憎悪」だと切り捨てること、わたしには出来ないのです。誰か他人の決めるフクシマに従い、その音フクシマをも毛嫌いして満足なら、そのかたには何も申しません。嫌う自由はあります。しかしわたしは自分がその言葉を愛しいと思っている自由を、ここに認(したた)めます。

 詳しくは、現代書館より拙編の「フクシマ発」をご覧くだされば幸いです。
 昨今のデマ騒ぎも、2行で本質を書いてあります。

◇月いちリレーエッセイ◇    長崎を巡礼する旅 高田 緑

15年以上前、長崎を旅したことがある。
長崎の街には路面電車が走り、どこへ行くにも便利だった。

浦上教会の朝6時のミサに与り、原爆投下地の平和記念公園と長崎原爆資料館へ行った。
永井博士の奥様の緑さんが、最後まで握りしめていたという溶けたロザリオを目にしたときの震えるような心の痛みを今も覚えている。

6月下旬の長崎は蒸し暑かった。
急な坂道を登って、西坂町にある「二十六聖人殉教の地」に立ち、聖フィリポ西坂カトリック教会の聖堂にも行った。
そこは、私が洗礼を授かるきっかけを与えてくれた神父様が東京から赴任した教会だった。

国宝となり、今では観光地となっている大浦天主堂にも行った。
聖堂入り口にある純白のマリア像は、キリシタン弾圧に耐えて信仰を守った信徒が発見されたことが世界にも伝わり、幕末の慶応元年にフランスから贈られたマリア像だ。

小説「沈黙」の舞台とされたという、黒崎教会に行くのも旅の目的のひとつだった。
海辺の町にある教会は、長崎駅から海岸沿いをバスに揺られて行った。
今は、映画「沈黙」で知る人が多くなったようだが、当時は、そこでバスを降りたのは私ひとり。司祭館の神父様に挨拶してから聖堂内でお祈りさせてもらった。
レンガ作りの教会は、信徒が積み上げて作ったと云われている。草むらに隠れキリシタンが覗いているかのような、潮風の音だけを感じる、そんな静寂の風景の中にある教会だった。

その先にある遠藤周作文学館の碑文が、私の巡礼の旅の全てだったように思える。

人間がこんなに哀しいのに
主よ
海があまりにも蒼いのです
(遠藤周作文学館 碑文より)

カトリック黒崎教会 (撮影:高田緑)

カトリック黒崎教会
(撮影:高田緑)