愛しいフクシマを創造しよう 吉田邦吉

 ヴェルトガイスト・フクシマは正式には「WELTGEIST FUKUSHIMA」で登録されている刊行物です。ドイツ語なので、Wのところを英語のVとして発音します。読み仮名は、「ヴェルトガイスト・フクシマ」であります。

 しばしば取沙汰される「フクシマ」という言葉について思うことがあります。わたしは「フクシマ」という言葉を憎悪表現だとは思っていません。これだけ騒がれたフクシマは、得体の知れぬ放射能で汚されたという意味合いを持つと思われることから毛嫌いされたりしました。現に今もそう思う人達は居るようです。

 しかしそれは、ヨコハマと同じカタカナであり、わたしにとって愛しいフクシマであります。細やかで繊細な、ただの小さな個人の悲しみが、歴史が、思い出が、暮らしが、大自然が、動物が、そしてそれらが汚染されたり奪われたりした艱難辛苦(かんなんしんく)が、凝縮されています。大事なフクシマを自分で貶(おとし)める必要は無いと思います。

 ひとりひとりが自らのフクシマを創造しましょう。

 フクシマという文字は、疑いようもなく「福島」という音を備えています。それを「憎悪」だと切り捨てること、わたしには出来ないのです。誰か他人の決めるフクシマに従い、その音フクシマをも毛嫌いして満足なら、そのかたには何も申しません。嫌う自由はあります。しかしわたしは自分がその言葉を愛しいと思っている自由を、ここに認(したた)めます。

 詳しくは、現代書館より拙編の「フクシマ発」をご覧くだされば幸いです。
 昨今のデマ騒ぎも、2行で本質を書いてあります。

◇月いちリレーエッセイ◇       都議選…非正規労働者になって思うこと   米田 博

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2015年4月.…政治家の秘書を辞め非正規労働者の道を選んだ。トラックの部品を加工、たった3日で腱鞘炎…箸すらもてず1ヵ月で12kg痩せた。

給料は手取りで17万…15万は仕送り、3ヵ月おきに出る期間満了金6万でどうにか生活。
夏場は普通に40℃こえる作業場…そう言えば「絶望工場」っていう本があったな、まさにその通りだ。でも、職人気質が強い人が多くて仕事ができるようになると、みんな優しくなり意外と楽しくなった2016。

2017年、他県の自動車工場に移ったが差別がひどい…仕事をしない社員が非正規労働者をこき使う。ここは給料は多いが辞める人も多い…先月も寮から逃亡者がいた。入社説明会も最悪…「あんた達じゃ理解できないでしょうけどね」みたいな事を連発する人事部。契約更新は3ヵ月ごと…景気が悪くなれば、いつでもクビだ

会社側は、いつでもとんでもないノルマを課してくる。6月末で室温35℃、台車は150kg、それを20台運搬、1時間60本加工する機械に1本1kgの素材を投入。加工が終わった製品を取り出す。その機械が8台。1時間で960回ダンベル体操していると考えてもらえればいい。それを8時間、その間に1ミクロン単位でのマシン調整。毎日5ℓの水を持って行くがそれでも足りない…20以上歳下の社員にバカにされる毎日。何百万もする車は…そんな状況で作られる

そんな非正規労働者達が日本経済を支えている…威張っている政治家よりよっぽど偉いと感じる。

日本は、経済最優先の切り捨て社会…
でも、こんな非正規労働者生活だが秘書よりずっと楽だ。人権もね…

自民の女性議員の「ハゲ〜〜〜〜〜」が世間を騒がせたが…あんなの普通だ普通

私は政治家が嫌い

政治家は皆、期間工を経験した方がいいんじゃね。選挙があるたびにTVを見るたび「お前らが何を知ってんだ…」と沸き上がる心の声

東京都議選のTVを見ながら虫唾が走る7月2日の夜だった…。

 

◇月いちリレーエッセイ◇    長崎を巡礼する旅 高田 緑

15年以上前、長崎を旅したことがある。
長崎の街には路面電車が走り、どこへ行くにも便利だった。浦上教会の朝6時のミサに与り、原爆投下地の平和記念公園と長崎原爆資料館へ行った。永井博士の奥様の緑さんが、最後まで握りしめていたという溶けたロザリオを目にしたときの震えるような心の痛みを今も覚えている。
6月下旬の長崎は蒸し暑かった。急な坂道を登って、西坂町にある「二十六聖人殉教の地」に立ち、聖フィリポ西坂カトリック教会の聖堂にも行った。そこは、私が洗礼を授かるきっかけを与えてくれた神父様が東京から赴任した教会だった。
国宝となり、今では観光地となっている大浦天主堂にも行った。聖堂入り口にある純白のマリア像は、キリシタン弾圧に耐えて信仰を守った信徒が発見されたことが世界にも伝わり、幕末の慶応元年にフランスから贈られたマリア像だ。
小説「沈黙」の舞台とされたという、黒崎教会に行くのも旅の目的のひとつだった。海辺の町にある教会は、長崎駅から海岸沿いをバスに揺られて行った。今は、映画「沈黙」で知る人が多くなったようだが、当時は、そこでバスを降りたのは私ひとり。司祭館の神父様に挨拶してから聖堂内でお祈りさせてもらった。レンガ作りの教会は、信徒が積み上げて作ったと云われている。草むらに隠れキリシタンが覗いているかのような、潮風の音だけを感じる、そんな静寂の風景の中にある教会だった。
その先にある遠藤周作文学館の碑文が、私の巡礼の旅の全てだったように思える。

人間がこんなに哀しいのに
主よ
海があまりにも蒼いのです
(遠藤周作文学館 碑文より)

カトリック黒崎教会 (撮影:高田緑)

カトリック黒崎教会
(撮影:高田緑)

 避難指示解除にあたって思うこと・考えること 酒井政秋

原発事故から7年目の避難生活も3月31日には帰還困難区域を除き避難指示解除となる。しかし問題が解決したからではない。未だに除染をしてもなお1μ㏜/hのところも数多く点在している。安全にというには程遠い。この避難指示解除に至る経緯について村の説明によると原子力災害対策本部長(安倍首相)へ要望書の提出(平成28年4月5日付・村と議会連盟提出)し村が政府に要望したという形で決議された(※1)。大半の村民は解除の一報に唖然としたことだろう、それは村民に周知する前の解除の一報だったからだ。いつもそういう大切な事案は決定されてからの説明会及び懇談会を開き、ただ決議された内容を話すだけの何とも奇妙な説明会や懇談会が行われる。そんなことが6年も続いた村民は疲弊をしてしまっている。それは、自ずと国の思うつぼなのかもしれない。当事者を疲弊させ、「言う口」を減らした方がスムーズに物事は進んでいく。そうして6年の間に切り捨てられてゆく村民を目にしてきた。

「どうせ・・・」「しょうがない・・・」そんな言葉が蔓延しているのは確かだ。

4月からは村に帰らない人は自ずと避難者から「自主」避難者となる。
村からも何れは切り捨てられるだろう。
けれど、我が故郷は飯舘村に違いはない。
飯舘村はのどかな村だった。
飯舘村は放射性物質にも汚染されたが、この6年で国にも汚染された。
村と国はズブズブの関係を築き、今まで村民が築きあげたものを次から次へと壊していった。
このまま壊されたものを諦め、見なかったことにして飯舘村として見過ごして果たして良いのだろうか。
小さな田舎社会というものはしがらみがある、けれど、今まで築きあげたものを押しつぶされて、それすらなかった事にされてもなお、頑張っぺ!なんて言えるのだろうか…。

村の行政区総会説明資料(※2)によると、前年度より2倍を超える212億3500万円と過去最大の予算額だ。その内容は、学校等再会整備事業・スポーツ公園整備事業・復興拠点エリア整備事業・被災地域農業復興総合支援事業などの事業により、昨年度と比較し120億7700万円の増であり、その中で、復興対応事業分は約177億円と予算全体の約83%を占めるという。

それが飯舘村らしいやり方なのだろうか…?

つつましく、あるものを活かし、自主自立で「までい」な生活をスローガンとしていた村が次々とハコモノを建てたり、整備したり。戻る村民の負担にならないだろうか。確かに6年放置された建物は老朽化して使えないかもしれない。けれど、それだとしても、あるものをリフォームして使うことだって可能だったはず。そのツケは未来の村民に重くのしかかってくるはずだ。維持費や経費などを考えると莫大な費用はかさむだろうに…。

それで果たして「飯舘村の復興」というものなのだろうか個人的には疑問である。
わたしだってこんなこと好きで説明会などで言っているわけでもないし、書いているわけではない。
黙って見ざる聞かざる言わざるをするほうが楽だ。しかし、それは未来への棚上げではないのだろうか。
何れは未来の村民に振りかぶって苦悩するのではないか。だとしたら第1当事者が言い続けなければならない。そして、綴り残さなければいけないのではないか。
原発事故というものは途方に暮れる問題だ。
しかし、このまま解決していない問題を解決されたようにされていいのだろうか。

これから起こるかもしれない実害と日本が抱えている社会問題の縮図がこの村に襲い掛かってくるだろう。

限界集落・高齢化・介護・孤独死・少子化・村の存続など多岐にわたる問題とこの原発事故による低線量被ばくの問題・健康被害・風評という実害。

元の村民らしい生活ができるわけではないのだ。どこかで我慢しながら生活をしていかなくてはいけない村になってしまう。

自然と共存・共生してきた村は、もうそれはできない。生態系は崩れ、民家にまでイノシシや猿が来ている。6年、人を見なくなった野生獣は「境界線」が無くなっている。まずはその境界線対策を練らなければならないだろう。四季折々の山菜はもちろん食すことができない。畑で作る野菜もその都度計測しなければ食べれない。そして、村民にはガラスバッチをつけ、積算線量を計測しなければそこでは生活できない。介護の問題もある。村では介護を受けることができない。なぜなら、介助する人員がいないためだ。

これが現実問題なのではないだろうか。

非常に目に見えないものに抑圧された生活となるのではないか。

それでも解除が喜ばしいことなのだろうか。

現実よりも幻想の中で、生きる為政者たち。

その幻想は現実村民の苦悩にならなければ良いなと切に思う。

本当の問題解決までにはあと何十年…いや何百年かかるのかもしれない。

100年先、200年先、300年先にあの大地がそこに住む人々が輝きを取り戻している事を希望にしながらこれからも伝え遺していきたい。

 

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※参考資料 1)村民自治会懇談会資料より引用 2)平成29年度行政区総会説明資料より引用

原発事故後の誤ったデマ論をスマートにしよう。 吉田邦吉

いつもよりもスマートしっかりに話しますからしっかりに聞いていただけますか。タレントのくわばたりえさんが2017年3月8日のNHKアサイチにて「(福島県産につき)みんな買ってないから、私も」という報道があったようです。

これについて、人の消費基準が「安全なのに安心までいかない」という分析はネットで一定の決まった人達により毎晩のように流布している話であり、建前としては一見もっとものように思えますが、本質的とは言えず、決して論理的でないと考えます。

なぜなら、まず放射能の議論が開かれていないのであれば、都合の悪いことを隠しているのではないかという疑念が生じて当たり前なので、「安全なのに不安」という「消費者のせい問題」にすり替えようとしている、または、すり替えてしまって満足している、というように見えるのです。原発事故は安全神話から生まれたのですからね。

ある場合に大勢が買ってないからつい手が遠のいたことがあるというようにくわばたさんは言っています。ということは、おそらく「絶対に食べない」とは言っていません。福島産は実際どこにでも流通していますから、選ばないというのは、他に自分が気に入っているものがあり、そこで「福島産」のことを考えると気が重いという話ではないでしょうか。私は県内その他でそういう話を耳にします。

なぜ福島産は気が重くなるか考えたことがありますか。

そこに対して、わざわざ重ねて「安全だ」「こうでこうで、こういうデマが悪で、反原発が悪で、生産者はデマに苦しんでいる」ということを押し付けたらどうなりますでしょう。正直言って、いかにも「被害を利用した御用」的な、厄介な感じのする福島だろうと思います。そういうことがネットで差別だ云々と連呼されるから心理的に圧力がかかるのであり、イデオロギーみたいで厄介だと人々は感じているのです。

福島と聞けば何だか怪しい御用話を押し付けられるだけの、何か言えば風評被害だと叫ばれて正しい知見とやらで安全神話のお説教が始まるとしたら、こんなに関わりたくない疎ましいことはありません。原発に無関心であったことを県民は反省してないと誤解されかねません。選ばないということを言って良いんです。自由に言って良いんです。言えない空気を作ったら終わりです。選ばれません。

ですから、「食べない」という選択を保証しないと「食べる」という選択はあり得ません。今の開かれていない議論につき、都合の悪い話に蓋をして本当に安心できますでしょうか。無駄に敵を作ってはダメなのです。もっと検査方法について、オープンな議論を集約でき、議会や行政に提出・蓄積していき、ことを改善成長していく、透明で、建設的なシステムが必要でしょう。厳しい視点をもった人達がそう感じられるようできていますか。

「デマ≒反原発」は物事を混同している。

ふくしまの場合、
1、デマ……誤った情報と原発事故による営業損害
2、反原発……国家政策として廃炉や再生エネへの転換

この二つは論理的に本質的な因果関係が、ありません(むしろこんなに回復が困難な実害があれば原発はもうやめようとなるほうが自然な関係だと思いますが、とりあえずさておき)。

例えば、人を殴ってイジメた人が、殴った行為を罰せられるだけでなく、人に優しくしようという宗教をも罰せられるとしたら論理的誤りではありませんか。むろん、目の前で桃を吐き捨てられたりしたらそれは憤怒して人間自然ですし、私も悲しみの気持ちでいっぱいです。なので、いま無理にこれを認めたくなければ認めなくても良いんです。あなたの自由です。でも、その無礼な行いとこのことは、絶対イコールにはできないことなのです。

さらに例えば、福島産の食べ物を売り子の前で吐き捨てる人が原発推進だったらあなたはちゃんと「デマは原発推進が悪いんだ」と大声で連呼していけますか。していないとしたら、あなたのその主張は、論理的に誤りです。どのみち原発推進と生産物の選択は関係のないことでありますが、とにかく、因果関係を考える場合はいろんなことを考えねばならないのです。

現在、原発事故があることを「原因」とし、営業や汚染や多様なことについての「実害」がありますからそれを「結果」とし、この「因果関係」によって、東電は生産者に賠償を支払っています。非常に大勢の福島の生産者もこの因果関係を認めています。拙編「フクシマ発(現代書館)」にも書きましたが、ネットの誰も見てないことが「主たる原因」でしょうか?こちらを見てください。ことの因果関係の実際はこちらです。

責任をとるのは政府東電です。
むろん
(不足が問題ですが)
責任をとってきたのも政府東電です。
デマじゃないんです。

安易な巷のデマ論に正義感で乗らず、冷静に議論しましょう。わたしは議論に負けること、説得されることを、人格的に劣ったこととは考えないタイプです。自分を説得するほどの話をわたしは尊重し、その優秀さを自らの知識にしていきますし、どんな言論も「もし本当に開かれている議論の場」では、「それがあることを尊重する」こともできます。敵味方の二項対立は大人なら卒業せねばなりません。たとえば反原発のジャーナリストが被災者とともに苦心惨憺で互いの合意で頑張っていることも被災を悪用でしょうか。

それなのに「反原発派が悪いんだ。被害を搾取している。反原発派の正義がゆがんでいる」などとやっていけば、放射能汚染という大問題の本質から目をそらさせ、誰かを敵にすれば解決するような犠牲(スケープゴート)を作りだした単なる点数稼ぎの御用運動と言われても防げません。そういう風に考えたいことも否定しませんが、立場的な居場所的な、たとえばライターの人がいるようなこともありえるかもしれません。よくよく見てみると、そういう人達の実際は脱原発と言っていてもそんなことを自分で行動する気はさらさらなく、原発推進にも等しいような雰囲気も認められるのはまた不思議な話です。

そもそも福島県は積極的にデマ狩あら探しなどしていません。福島はそんな全体主義に染まって非国民探しをするようなことをしていません。「現在、こういう現状です。自分たちは安全基準の範囲内だと国からお墨付きを得ている範囲の農産物だけを出荷し、また、出荷できていないものもこれこれです」というのが現状です。ここには様々な議論があって当然であり、改善されていくべきものと考えます。

それを、国家の政策として原発に反対することと、放射能の議論と、どう論理的に関係しているか、きちんと説明できないような方向で混同しては、「彼らは御用的に点数稼ぎたいからああいうこと(一部のことを全部のように言う論理的デマの宣伝)をやっているんだ、被害を利用して目立ちたいからこそ、逆に反原発にそれをレッテル貼りしている」と思われても不思議ではないと思います。

むろん一部には誤った理解をしている人達もいるでしょう。でも、それを言ったら終わりがなく、一部を全部に適用させる論理的過誤をおかしやすく、いつまでもズレていく水掛け論なのではないでしょうか。「一部の何々が悪い」というのはどこにでもあることで、放射能の件で見ていると主に人としてのエチケット、その人の議論の前提としてのマナーの問題であり、反原発とソレは論理的な関係が見受けられないのです。それどころか私の周囲にいる反原発の運動をしている人達は福島の生産物をいろいろ思うことがあってもこころよく食べ、福島を愛し、心配してくれてもいます(無理に食べてるわけでもありません)。これは、敵ですか?どうして「デマ=反原発が悪」という偏った言い方ばかりするのか説得的に説明できますか?

大事なことは責任の所在です。もし「安全だ」ということにされている生産物について、なんらかの事故が生じたら、それは誰が責任をとってくれるかが、いまいち不明確なのです。たとえば原発事故後に言われている健康被害の件を思い出してください。多くの人達が困っているように思われますが、その直接的因果関係は不明、立証不能、という統計の話しか出ていないのです。つまり、安全だと言いながら何かあっても誰も責任とりませんなのです。そんな話ありますか。正直言って、安心できますか。因果関係が証明できない現状ならば、超法規的な保護救済策も必要でしょう。

デマって、流言飛語のことだと思います。

私は日本を歩いていてまずそんなデマに遭遇しません。ごくまれにいろいろな考えがありますが、それらは「都合の悪い考えや説を議論の場に入れない、という開かれてない議論のなかで起きていること」です。議論が開かれていなければ、「これが通説、あれが大勢の仮説」という「押し付け的なお説教」はいくらでもできますから、それこそ閉鎖的な安全神話の流言飛語が「デマと大差ない」という雰囲気になりませんか。

1、押し付け安全 (安全神話)
2、押し付け危険 (デマ)
これら二極化は無理の程度が等しいのです。

私が遭遇するのはデマではなく、くわばたりえさんのような消費選択であります。現代日本の消費行動は、自然栽培や有機農法やなるべくナチュラルなものが好まれ、かなり厳しい目をもった消費者が増えています。「不安な議論の場」で「安心」が、自然に生まれますか。人の気持ちを誰が無理に止められるのでしょうか。「無理しないほうが良いよ、それで良いんだよ」と言ってあげることから、まずやさしさ、人として安心の第一歩です。

最後になりますが、問題の本質はデマではありません。デマは傍論にすぎません。やりすぎれば「デマ=重い福島」という感じになってしまうでしょう。私にとってそれは不本意です。重大なことは、原発事故による実害なのです。復興とは、実害=被災を回復してこそ、復興への基礎ができるというものです。福島の生産物が選ばれない現状を回復する有効な対策は、開かれた議論の場を作り、責任の所在を明確にし、安全安心を改良していくよう建設的なことをし、敵を作らず、福島の味方を増やしていくことに、なります。

が、現在の緊急的な実害状況をまず何とかしなければなりません。
その場合には以下のことが必要です。

福島の生産者が他県と同じようにビジネスできていない不公平な状況があります。原発事故が起きて汚染がひどい状況です。たとえば、ある生産者は2ベクレル未満、ある生産者は30ベクレル、ある生産者はノーコメントと言ったような階層格差の被害のもとに置かせられ、みな同じような苦労を美談にして売れ売れとけしかけられても、大変難しいと思います。

NDの生産者だけ応援では足りないのです。
抜本的な保護も求めませんか。

福島ではまばらな汚染のほかに精神的な損害と計測の苦労が上澄みされている状況であり、共感してくれる人には良いですが何も知らない他人のために「前向きな売れる理由」にはなりません。逆なのです。売れない理由にしかなれないのです。ましてや他県の人達も生産には同じような苦労をします。比べられたら負けやすいのです。すごく不利です。一つの都道府県の生産物を選べば四十六の選ばれない生産物があります。その四十六に福島は入りやすいのではないでしょうか。

これら不公平な階層を、穴埋めするような、まず被災者が安心できる下駄を履かせるような保護救済策が福島のあらゆる生産者、生活者、双方に保障されることであり、ひいては福島県内外の自主避難者にもこころよく過ごしてもらえるよう同様にあることが、大変必要であります。こういったこと、つまり本物の復興のことですが、時間が経てば経つほど被災は隠れ、風化してボランティアも減り、いろんな関心や感覚として潜伏していきますので更に深刻であり、必要性が増していくのです。

特権ではないのです。回復的保護です。
みなと同じように普通に笑って過ごしたいのです。

そうした手厚い安心が包括的な安心を醸成するでしょう。