高田緑

高田緑 について

Takada Midori /福島県郡山市出身。福島県立郡山女子高校卒業後、グラフィクデザイナーを夢見て美大を目指すが挫折。20歳から50歳前半まで、東京で広告制作会社と出版会社、マーケティング調査会社に勤務。現在は、都内のマルシェの広告宣伝と販売をしている。 好きな作家 : 遠藤周作、宮本 輝。尊敬する作家 : ヘルマン・ヘッセ。好きな画家 : エドゥアール・マネ。尊敬する画家 : パブロ・ピカソ。I was born at Koriyama shi in Fukushima, I gave up to enter an art university to be a graphic designer, and graduated from Koriyama Joshi high school. I had worked at an advertising agency and a publishing company for the time of life between 20 and 30. Now I help to sell products of organic cotton, which farmers grow in Nihonmatsu shi in Fukushima. I like novelists, "Endo Shusaku" and "Miyamoto Teru." I respect, Hermann Hesse, Édouard Manet, and Pablo Picasso.

国民学校の少女の記憶(外伝) 高田 緑

(1)よりつづく)

少女には、明治33年生まれの伯母がいた。
父親とは6歳違いの、明治、大正、昭和を生き抜き、土佐の血を受け継いだ伯母だった。(中島家は、廃藩置県の後に土佐から郡山市喜久田町に移り住んだ歴史がある。)
井上家に嫁いだ伯母の井上 光(こう)は、昭和63年の88歳のお祝いに、長年に渡りしたためていた句や日記を自費出版した。

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『草の露』である。 この世には出なかった本であったが、折りにつけ、少女の娘である私は読んでいる。
先の戦争に息子を送り出した光さんの言葉は重く、力強さを感じる。
次男は昭和18年の“雨の神宮外苑“で学徒出陣し、戦地に向かう途中に輸送船が撃沈され帰らなかったという。「行ってきます」とは言わずに、「行きます」と一言残し家を後にした。
長男は昭和19年5月に海軍少尉に任官し、海南島での任務を命ぜられ決死隊を組織したが、不本意ながらも生きて帰国した。「生き恥さらして帰ってきてしまいました。」、と玄関先で自決しようとしたという。 長男はその後、神風特攻隊についての随筆集を残しているが、「人間の出来る最後のもの、それは自ら撰ぶ死であるのだ。」、と最後に記してあるのを読む度に心が痛む。

戦争により、親より先に子に旅立たれ、離婚と再婚、そして夫の死。そしてまた娘に先立たれ、波瀾万丈 の人生を歩んだ少女の伯母は、100歳を過ぎるまで生き、少女にどんな世でも強く、プライドを持って生きる事を身を持って教えたという。

『草の露』の中の、戦後40年に当たり、光さんが85歳の時に書いた文が心に沁みる。

力強く生きるからこそ人間です

すっかり世の中が変わりました。
私は明治中期に生まれ、明治、大正、昭和と長い人生がいつの間にか過ぎたと思っております。
私どもが若い頃は、世の中の人はもっと親切で、誠実であり、国を大切に、神を敬い、親には孝行し子供には大切に、そして礼儀正しく厳しく育てたものです。
この寒い時期に、白鳥は一家眷属大勢で仲良くシベリアから日本の湖水に来ます。
晩秋には、北方から雁がきれいに列を組んで渡来します。
鳥でさえこんなに仲よく助け合って生きているのに、万物の霊長であるはずの人間が、どうして些細な事で殺し合いをしたり、子供を道連れに一家心中したり、子供が父母を殺したりするのでしょう。
人生、色々な一生があります。
悲しき事、苦しき事、耐え難い事、これを乗り切る事が人の道ではないか、と私はいつも心の中で思いながら生きて来ました。
生きる事は辛い事のみ多いものではありません。
楽しい事の方が、きっと多いのです。
明るく希望を持って生きる事です。
・・・・・・・・・
日本人と言う事に誇りを持つ事、どんな時でも自分に誇りを持つ事です。
苦しさも悲しさも乗り越えて、力強く生きるからこそ人間です。
悲しさに潰されそうになった時も、じっと我慢して、少しでもよい方に向かう事を考えて生きて行こうと思います。
(『草の露』井上 光著より抜粋 )

国民学校の少女の記憶 (1) 高田 緑

昭和9年生まれの母は、多感な少女時代に先の戦争を体験している。

中島家の長女として生まれた、中島 良(よし)は昭和16年、尋常小学校から国民学校に改称されたその年、郡山市赤木国民学校に入学した。

昭和16年のお正月の家族写真
(福島県郡山市咲田町の自宅にて。これ以降の家族写真はない。)

その年の12月に大東亜戦争が勃発。
終戦までの4年間を、現在81歳になった少女は、長い時を経て、澱んだ記憶を流すように語った。

「大本営発表。本未明、日本軍は米国・英国を相手に戦闘状態に入り」(少女の記憶)

ラジオからの発表で、真珠湾攻撃での日本軍の圧勝と戦争の始まりが7歳の少女の記憶に刻み込まれ、小国民(国民学校の子ども)としての生活が始まったのだ。

昭和17年シンガポール陥落の情報が入ると、大人は提灯、子供は旗行列をして祝った。

子どもにまでも軍歌を歌わせた軍国主義の社会。少女は、この平成の世になってもその歌の一節一節を忘れてはいなかった。

学校での教育は、社会の科目以外は至って普通であったが、社会の時間はすべて「兵隊さん(軍)」を賞賛する教育のみ。兵隊さんが我慢しているのだから。兵隊さんがお国のために戦っているのだから。欲しがりません、勝つまでは。当たり前の教育だった。

家族であっても「戦争」に関する話題は全てタブーとされていた。どこにスパイが潜んでいるかも分からないから。国民がコントロールされていた、そんな時代だったのだ。

当時、専売局の官吏であった祖父だが、大学在学中はジャーナリスト志望であった。それ故に尚更、言論の自由のない社会への憤りは大きかったであろうが、それさえも越えて、諦めの境地だったのだろう。

少女が質問すると、教育熱心だった少女の父親は「今は言えない」とだけしか答えてくれなかったという。

そして、昭和20年4月12日の郡山空襲

その前年の19年の終わり頃から、幾度となく上空を艦載機がトンボのように飛び、薬莢が屋根瓦に雨のように降ったという。

低空飛行だったため、金色の髪と高い鼻のパイロットの顔を今でも少女は忘れない。
“巷の噂”では、赤木国民学校に中島飛行機の一員が住んでいたのをアメリカ軍は狙っていたという。
現に、中島飛行機郡山工場が当時存在していた。

郡山空襲のその時、少女は国民学校のみんなと、近所の山の松林で松の根っこの油を採取していた。その油が何かの燃料になると、大人に言われて、ただそうしていた。

その時、空を見上げたら、北の方角から編隊を組んで飛んでくるB29の姿がはっきりと見えた。郡山駅周辺からの爆撃の音は凄まじかったという。警戒警報、空襲警報もなく、いきなりの敵襲であった。
それは、3月10日の東京大空襲のわずか1ヶ月後のことである。

郡山市如法寺には、空襲で犠牲になったかたの慰霊碑がある。犠牲者の中には、優秀な学生もいた。

その年の8月15日の玉音放送を、少女は疎開先である東白河郡古殿町にある祖母の実家で、正座をして聞いた。

「終わった」。

少女の思いはただそれだけだったという。

だがしかし、その後、敗戦国の日本に与えられた「自由」を生きる戸惑い。すべてが180度変わったのだ。

戦いは終わってはいなかった….。

あの戦争を伝えるためにこの歳まで生きつづけたのだ、と母は細い身体で言うのだ。

(外伝)につづく)

「コットンツアー 2015 . 5」に参加して  高田 緑

「コットンツアー2015 .5月」参加者((撮影 : コットンプロジェクト福島)

「コットンツアー2015 .5月」参加者((撮影 : コットンプロジェクト福島)

5月23日・24日、コットンプロジェクト・福島(代表:渡邉真紀湖) 主催の、綿花の苗植え体験ツアーに参加してきました。
コットンツアーの開催は今年で4年目。4月の種蒔きから始まり、苗植え、草取り、摘芯、綿摘みと一年を通してのコットンツアーが開催されています。

栽培を管理しているのは、福島県二本松市のオーガニックふくしま安達の有機農家さん。農家民宿に泊まり、有機野菜を使った料理を食べて、オーガニックコットンの寝具にくるまれて眠る。食だけではなく、生活の中にオーガニックを取り入れる窓口としてのツアーには、今回は、初めて福島県を訪れたという参加者もいました。 福島県で綿花が栽培されているのを知り、また「福島県に行ってみたい」との希望で参加してくださいました。

当日は、最高気温が東京よりも高くなった炎天下での苗植え作業。事前にマルチを張って、後は苗を植えるだけの準備をしてくださっていたので、私たちはただひたすらに、10センチ程に育った苗を優しく定植しました。そう、優しくです。「生きてちょうだいね!」と、声をかけながら土に植えていたのです。 この苗が、雑草や害虫にも負けず、花を咲かせ実がなり、綿(わた)になり、種を取り除き、糸を紡ぐ。糸が織られてコットン製品となる…。この果てしない緻密な工程を、先人たちは日常の生活の中で行っていた事に、毎回、改めて敬服せずにはいられません。

綿花の苗植え(撮影 : 高田 緑)

綿花の苗植え(撮影 : 高田 緑)

福島県では、会津地方での綿花栽培の歴史が古く、天生年間に綿花栽培が推奨され、会津木綿が藩の特産品の一つとして、今なお400年の伝統が受け継がれています。

二本松市では、【地元の農地で有機栽培された綿花を原料に使い、衣服や小物に加工して活用することで、農業の6次産業化を目指し、都市と農村の地域間交流を推進しながら、日本の農産物の自給率向上に貢献する、という思いを「かたち」にしていく】(コットンプロジェクト福島より) というコンセプトの元、震災後から取り組んでいるそうです。

山里で土に触れ、根付いた苗に水をやる。青蛙が飛び、山からは鳥のさえずり。見上げれば青く澄んだ空。全てが自然と平和の成せる業であることが、参加されたかたの笑顔から滲みでています。 生産量はまだまだ少ないようですが、参加することにより、自然の恩恵なしでは人は本来、生きてはいけない、そんな有り難さのようなものを感じることができれば良いのではないかと、私なりに解釈しています。

農家さんの作業は果てしなく、日々続いています。一日二日の数時間では、現実的な苦労も理解出来たとは言えませんが、とにかく、コットンツアーは様々な醍醐味があります。 東北地方の厳しい気候の中での農作業の合間にあるお祭りごとのように、楽しいご褒美も満載です。

餅つきを体験( 撮影 : 高田 緑)

餅つきを体験( 撮影 : 高田 緑)

福島県を初めて訪れた参加者の若い女性が、富岡町から避難されてきたお孫さんをもつおばあちゃんの話を、対面で瞳を見つめながら聞いていたのがとても印象的でした。これも参加しなくては、分からなかったことかもしれません。
コットンツアーは、次回は草取りです。
フワッフワッの綿花に癒される日を待ちわびながら…。

 

わたしのふるさと

安達太良山  (撮影 : 遠藤教夫・郡山市在住 )
安達太良山  2015年1月
(撮影 : 遠藤教夫・郡山市在住 )

安達太良山に残雪がある間は、まだまだ郡山に春は来ない。
子どもの時から、そう聞かされていた。

私が幼き時期から住んでいた社宅からは、安達太良山や磐梯山、遥か遠くには那須連峰も望むことができた。

故郷を思うとき、心に潜んでいるのは『千恵子抄』の一節である。
「智恵子は東京に空がないと言ふ、ほんとの空が見たいと言ふ。」
(高村光太郎著『千恵子抄』~あどけない話~より)

住んでいた郡山の社宅は、数年前に全て跡形も無くなく取り壊された。帰る「場所」と言うモノがあるならば、父の眠る墓地だけになってしまったのだろう。
その地から安達太良山を見る度に、故郷に帰ってきた自分がいることに安心する。
美しい山の曲線も、澄んだ空も何も変わってはいない。

山に登ればその山に立つことが出来るが、山の全景を見ることが出来ない。
故郷を離れてみて、分かったことが山ほどあった。
当たり前に存在していた豊かな自然。
自然の恩恵である美味しい水や食べもの。
あたたかい人々の心。

それらはいつまでも存在し、裏切ることがなく永遠に続くものだと信じていた。
帰れば待っていてくれるものだと思っていた。

四年前の三月十一日。東京にいた私の記憶は何故か曖昧だが、テレビに映しだされたニュースの信じがたい映像を何日も何日も見ていたのを覚えている。
親戚や同級生の安否を出来うる限り確認しては、刻々と深刻な状況に変化する映像に感情のコントロールをするのが精一杯だった。
暫くしてから、同級生からの「東京に一時避難する」とのメールがあり、その時、ことの重大さが実感としてやっと私に入ってきた。

夏休みになると、父と一緒に磐越東線の電車に乗って、海水浴に行っていた福島の海。
高校の夏の合宿でキャンバスに描いた福島の海。

あの海辺で、日本の誰もが想像を遥かに超えた異常事態が起きたのだ。
私は何をすれば良いのか。何をすべきなのか。
北へ向かうボランティアの人々の後ろ姿を、ただ目で追うだけだった。

二年が経ち、やっと郡山の駅に降り立った時の今までにない違和感。
それは、駅前に設置された放射線測定器を見た時の虚無感だった。
恐れにも近いものがあった。「無」になってしまう恐れであろうか。
だが、お墓参りをして、見上げた空の向こうには変わりのない安達太良山が待っていてくれた。

 「阿多多羅山(安達太良山)の上に毎日出てゐる青い空が智恵子のほんとの空だといふ。」(高村光太郎著『千恵子抄』~あどけない話~より)

私の心にこの風景がある限り、その山、空がある限り、私の中に故郷「福島」は存在し続ける。
福島が故郷であることを誇りに思う。
私のルーツは福島県郡山市の何ものでもないのだから。

『日本と原発』(河合弘之弁護士初監督)をやっと観ることができた。これが福島の現実だ。
けれど私は、いつまでも故郷とともに歩んで行く。
ともにそこにいる。