高田緑

高田緑 について

Takada Midori /福島県郡山市出身。福島県立郡山女子高校卒業後、グラフィクデザイナーを夢見て美大を目指すが挫折。20歳から50歳前半まで、東京で広告制作会社と出版会社、マーケティング調査会社に勤務。現在は、都内のマルシェの広告宣伝と販売をしている。 好きな作家 : 遠藤周作、宮本 輝。尊敬する作家 : ヘルマン・ヘッセ。好きな画家 : エドゥアール・マネ。尊敬する画家 : パブロ・ピカソ。I was born at Koriyama shi in Fukushima, I gave up to enter an art university to be a graphic designer, and graduated from Koriyama Joshi high school. I had worked at an advertising agency and a publishing company for the time of life between 20 and 30. Now I help to sell products of organic cotton, which farmers grow in Nihonmatsu shi in Fukushima. I like novelists, "Endo Shusaku" and "Miyamoto Teru." I respect, Hermann Hesse, Édouard Manet, and Pablo Picasso.

◇月いちリレーエッセイ◇    長崎を巡礼する旅 高田 緑

15年以上前、長崎を旅したことがある。
長崎の街には路面電車が走り、どこへ行くにも便利だった。

浦上教会の朝6時のミサに与り、原爆投下地の平和記念公園と長崎原爆資料館へ行った。
永井博士の奥様の緑さんが、最後まで握りしめていたという溶けたロザリオを目にしたときの震えるような心の痛みを今も覚えている。

6月下旬の長崎は蒸し暑かった。
急な坂道を登って、西坂町にある「二十六聖人殉教の地」に立ち、聖フィリポ西坂カトリック教会の聖堂にも行った。
そこは、私が洗礼を授かるきっかけを与えてくれた神父様が東京から赴任した教会だった。

国宝となり、今では観光地となっている大浦天主堂にも行った。
聖堂入り口にある純白のマリア像は、キリシタン弾圧に耐えて信仰を守った信徒が発見されたことが世界にも伝わり、幕末の慶応元年にフランスから贈られたマリア像だ。

小説「沈黙」の舞台とされたという、黒崎教会に行くのも旅の目的のひとつだった。
海辺の町にある教会は、長崎駅から海岸沿いをバスに揺られて行った。
今は、映画「沈黙」で知る人が多くなったようだが、当時は、そこでバスを降りたのは私ひとり。司祭館の神父様に挨拶してから聖堂内でお祈りさせてもらった。
レンガ作りの教会は、信徒が積み上げて作ったと云われている。草むらに隠れキリシタンが覗いているかのような、潮風の音だけを感じる、そんな静寂の風景の中にある教会だった。

その先にある遠藤周作文学館の碑文が、私の巡礼の旅の全てだったように思える。

人間がこんなに哀しいのに
主よ
海があまりにも蒼いのです
(遠藤周作文学館 碑文より)

カトリック黒崎教会 (撮影:高田緑)

カトリック黒崎教会
(撮影:高田緑)

国民学校の少女の記憶(2)~戦後を生きる~ 高田 緑

昭和15年大東亜戦争の前年、専売局の女工さんと一緒に郡山市宇津峰山での記念写真。1列目の左から2番目が母(中島 良)。その斜め左が祖父(中島良眞)。

昭和15年大東亜戦争の前年、専売局の女工さんと一緒に郡山市宇津峰山での記念写真。1列目の左から2番目が母(中島 良)。その斜め左が祖父(中島良眞)。

国民学校の少女の記憶(1)よりつづく
敗戦国の日本に与えられた「自由」を生きる戸惑い。それは、国策によって思想も生活も統制されていた戦時中とは、180度変わったということだ。

私の母、中島 良は、国民学校5年生の時に終戦をむかえた。
翌年の昭和21年頃になると、郡山市赤木国民学校にはGHQがジープで乗り付け、度々やってきたという。戦時中に軍事教育をされてきた生徒たちの授業を監視していたのだ。日系二世の通訳を連れてきていたのを見て、少女は「非国民か!」と思ったそうだ。
戦時中、郡山市は軍郷(軍都)として日本軍の軍事拠点があった。その為、その拠点がそのまま連合軍の拠点となったのだ。
少女は6年生の終わりまで、女学校(高等女学校)に入るための準備をしていた。しかし、その年の5月に新制中学校制度に変わった為、生徒全員が受験せずに進学できるようになった。学制改革による中等教育の義務化である。戦後の教育改革は、しばらくは連合国軍のもと、つまりは占領行政のもとに行われていた。(日本国憲法が昭和21年11月に公布し、昭和22年5月施行されていたが、昭和26年のサンフランシスコ平和条約が成立するまでは、国政はすべて占領行政のもとにあった)
少女の父である私の祖父は、抑圧的なその制度にはいたく反論していたというが、少女にとってはあるがまま受け入れるしかなかった。と言うよりも、疑問を持ってはならないという軍国主義時代の教育を引きずっていた。
少女が入学した赤木中学校は、のちに芳賀中学校と合併し、郡山市第二中学校となった。中学校には、またもGHQが時々やってきたという。今度は教師へのレッドパージである。少女が慕っていた社会科の先生が学校から去っていったことを、少女は覚えている。

少女の父は、専売局(現在の日本たばこ産業㈱)の官吏であったが、戦時中は不本意ながらも国民服を着て専売局に通っていた。戦時中の専売局では、軍に支給する恩賜の煙草やわずかな量だが民間の煙草も作っていたそうだ。
そして終戦間際に結核を発症した。当時は、結核は死の病であった。食べるものがなかった時代に滋養のあるものなど手に入るはずがない。戦争が終わっても配給制度があったが、ますます食べるものが不足し、少女の母は、農家に出向いては自分の着物を芋などに変えてもらっていたそうだ。お金では物が買えない時代。食べる物を持ち得ていた農家の人の態度は、それ以前に比べて、一変したように少女は感じた。恨みはないが、その時に感じた虚しさや口惜しさは、当時の少女にとっては深く心に残っている。役人であったため、いくらでも闇物資を手に入れる手段はあったが父がそれを嫌っていたため、なお、生活は困窮していった。そんな中でも、煙草屋を営んでいた人が、父へ鶏肉や卵や鯉を滋養のためにと持ってきてくれたのが有り難かったという。
少女だけではない。日本中が飢えに苦しんでいた時代だったのだ。食べれるものなら雑草でも食べた。戦争が終わったからと言って、物資がすぐに出回ることなどなかった。
地方行政が機能していない時代。人間の本能に翻弄された時代だった、と少女は戦後を振り返る。
そんな状況が4、5年は続いていただろうか。結核の特効薬であるストレプトマイシンが世に出始めた。だが、すでに少女の父の病状はかなり悪化していた。また、保険の効かない薬だったため手に入れるのは困難を極めた。父の家系は代々医者の家系であったが、医者であった伯父でさえも自分の弟に回すほどの量の薬は入手できなかった。
昭和25年の4月1日、44歳になった誕生日に、少女の父、中島良眞(りょうま)は病死した。少女の高等学校への進学を死ぬ間際まで切望していたが、5人の弟妹を食べさせていかなくてはならなくなった家庭環境下で、少女は15歳で長女としての重責を課せられた。直前まで高等学校の受験勉強をしていた少女の人生が一転し、6月から父のいた専売局で働くことになった。父の部下だった上司のもとで。

少女は当時を振り返り、言う。戦後の苦しかったことはいくらでも語ることができる。でも楽しかった思い出はと尋ねられたら、楽しいとはどういう事なのかがわからなかったと。
少女の従兄のひとりは、戦時中、雨の神宮外苑で学徒出陣し、戦地に向かう途中に輸送船が撃沈され帰らなかった。(「国民学校の少女の記憶 外伝」
少女は当時を振り返り、言う。戦争とは、人間の運命を変えるもの。誰一人として幸せになった人間はいない。
軍国主義国の統制から自由になった戦後も、大人も子どもも何かと戦っていた。別な敵、別な“闘い”があった。それぞれの“闘い”だったのだろう。
少女は、軍歌や当時の流行歌を今も歌う。ラジオから流れていた歌を半世紀以上も経った今も忘れることができないのだろう。洗脳されたとは少女は決して言わない。ただ、素直で忠実であっただけだという。

平成28年、82歳になった少女は感じずにはいられない。ひたひたと知らず知らずに迫りくる、きな臭い社会の流れを。だから生きている限り、戦争で体験したことや二度と繰り返してはならないことを伝え続けていきたいと語る。

「昭和19年、鈴木中尉慶召記念」と記す。同僚を戦争に送る祖父の顔は険しい。(2列目の左から2番目)

「昭和19年、鈴木中尉慶召記念」と記す。同僚を戦争に送る祖父の顔は険しい。(2列目の左から2番目)

心の闇 高田 緑

千葉県佐倉市の教会での立てこもり事件について思う。(http://mainichi.jp/articles/20160219/k00/00e/040/199000c?fm=mnm)

数年前から、両親は教会に相談をしに一緒にカウンセリングを受けていたそうだ。この問題は希有なことではない。恐らく、どこの教会でも起きている。事件になるかならないかは、紙一重の状態にあるのだと思う。

私が通っていた都心の巨大教会でも、実際に聖堂内で暴れた青年がいた。椅子を投げるは、「神が何なんだ」と叫ぶはで、皆で止めようとしてもものすごい力で、私たちは吹き飛ばされた。

ある日、私は教会の近くの駅で電車に飛び込もうとするその青年を、一時間、説得したこともあった。私は専門家でもなんでもないが、たまたまそこにいたので放ってはおけなかった。その青年は、私の冗談にふと頑なな気持ちを弛めてくれた。

でも、ほんの少し間違えたら、青年は飛び込んでいたのかもしれない。

教会は、扉をノックする者は決して拒まない。弱き者を受け入れる。

救いを求める人に手を差しのべる人は教会にはたくさんいる。しかし、真に救えるのは神のみなのだろうか。現実的に考えるならば、精神的な救いを求める人を助けるには、それなりの知識を持った専門家ではないと、なかなか解決するまでには至らない。ふとしたことで大事件になりかねない。

それが、この教会で起きた事ではないだろうかと思う。

カウンセラーがいたと言うが、数年も教会内でカウンセリングをしていたのだろうか。そのカウンセリングは信仰の中にあったのであろうか。青年は、信仰の中に救いを求めていたのであろうか。

だからと言って暴力を正当化してはいけない。教会の聖職者も両親も、怪我をしたカウンセラーも、青年と向き合い心から助けたかったには違いない。どうすれば青年を闇から救えるのか、私には分からない。何が正解だったのか分からない。

神の家である教会の中だから安全とは、決して言えないのは確かだ。社会に蔓延る心の闇は深い。

 

十文字絞り旗指物 (桃山時代 : 旧白洲邸所蔵)

十文字絞り旗指物
(桃山時代 : 旧白洲邸所蔵)

 

※反響は多かった記事だがリンク表示の都合でここに反映されず(by編集部)。

被爆のマリア   高田 緑

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現在の浦上天主堂 / カトリック浦上教会 (撮影 : 高田緑)

70年前の8月9日、長崎市に原爆が投下されたその時刻、浦上天主堂で聖母被昇天の祝日の準備をしていた24名の信徒と2名の司祭が犠牲になりました。 準備とは、祝日のミサの前には欠かせない、神に罪を告白する「告解」のことでもあったのです。信徒たちは、祝日のミサに臨む “心の準備”もしていたのです。

爆撃により、浦上の信徒12000人の内8500人が、長崎市民74000人もの命が落とされました。

15年程前、ふと思い立ち、長崎を訪ねました。 浦上天主堂の朝のミサに与り、祈りを捧げました。カトリックでは、同じ日時に世界共通のミサを捧げますが、長崎ではミサの前に特別な祈りがあり、原爆で犠牲になった方への鎮魂と平和の祈りを捧げます。その祈りは、毎日欠かすことはありません。

原爆が投下されたというその地点、今は公園になっている”グラウンドゼロ”にも行きました。 その場はまるで時間が止まったかのように、空気が、風が、全てが静寂の中にありました。当時爆撃によりその場は”真空状態”になったと云われていますが、静寂がそれを教えてくれたかのようでした。いまだかつて感じたことのない、とても不思議な感覚を、今でも鮮明に覚えています。 霊魂というものを否定できない私には、 “沈黙の声” だったのだと受け止めました。

浦上天主堂の祭壇に奉られていたという、イタリアから送られた「無原罪の聖母」の木製の像は、とても美しかったと言われています。 浦上天主堂の上空500mで原子爆弾が炸裂したその日、『被爆のマリア』となりました。 瓦礫の中から、真っ黒に焼け焦げた顔で、深い悲しみをたたえて自分をみつめていることに気付いた長崎市出身の一人の復員兵こそが、北海道の修道院に帰院する途上の野口神父だったのです。 野口氏は北海道の自室に安置して毎日祈っていたそうですが、その後、原爆三十周年の年に浦上天主堂に返上されたそうです。 この『被爆のマリア』を初めて見たとき、私は底知れぬ深い悲しみを感じました。 光を失った悲しみの黒い瞳から、彼女は何かを訴えているのです。 深い悲しみは、犠牲になった多くの人の悲しみ。 今後、決して、このような悲しみが起こらないようにとの、祈りがこめられているのです。 「あなたを私は決して独りにしません」 「無実な人をこれ以上傷つけないでください」と。

福島県郡山市に、模擬原爆(パンプキン)が投下される予定だったと、以前、何かの本で読みました。郡山大空襲に次いでの原爆投下。 たまたまその日、郡山市上空は曇っていたため、実行されなかったそうですが、もしも、郡山市に投下されていたならば、私はこの世には存在していなかった可能性もあったのです。 悲劇にもその模擬原爆は、7月20日、福島市の渡利の水田に投下され、国民学校の高等科を卒業したばかりの14歳の少年が犠牲となりました。 そして、日本の数ヶ所での模擬原爆投下が、広島と長崎へと繋がっていったのです。

広島市と同じ被爆都市でありながら、長崎には被爆体験をシンボライズする遺構が何故に残されなかったのかとの論議がありますが、焼け野原で人々の苦しみを見つめていた、変わり果てた姿の”被爆のマリア”が全てを語っているのではないでしょうか。

『被爆のマリア』は、今も平和を祈り、悲しみに暮れる人々を光へと導いているのでしょう。

鎮魂の祈りを捧げて…..

平和を願い…..

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「被爆のマリアに捧げる讃歌」 CDジャケットより

(参考資料 :被爆のマリアに捧げる讃歌より「 被爆マリア像のメッセージ」)

 

 

国民学校の少女の記憶(外伝) 高田 緑

(1)よりつづく)

少女には、明治33年生まれの伯母がいた。
父親とは6歳違いの、明治、大正、昭和を生き抜き、土佐の血を受け継いだ伯母だった。(中島家は、廃藩置県の後に土佐から郡山市喜久田町に移り住んだ歴史がある。)
井上家に嫁いだ伯母の井上 光(こう)は、昭和63年の88歳のお祝いに、長年に渡りしたためていた句や日記を自費出版した。

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『草の露』である。 この世には出なかった本であったが、折りにつけ、少女の娘である私は読んでいる。
先の戦争に息子を送り出した光さんの言葉は重く、力強さを感じる。
次男は昭和18年の“雨の神宮外苑“で学徒出陣し、戦地に向かう途中に輸送船が撃沈され帰らなかったという。「行ってきます」とは言わずに、「行きます」と一言残し家を後にした。
長男は昭和19年5月に海軍少尉に任官し、海南島での任務を命ぜられ決死隊を組織したが、不本意ながらも生きて帰国した。「生き恥さらして帰ってきてしまいました。」、と玄関先で自決しようとしたという。 長男はその後、神風特攻隊についての随筆集を残しているが、「人間の出来る最後のもの、それは自ら撰ぶ死であるのだ。」、と最後に記してあるのを読む度に心が痛む。

戦争により、親より先に子に旅立たれ、離婚と再婚、そして夫の死。そしてまた娘に先立たれ、波瀾万丈 の人生を歩んだ少女の伯母は、100歳を過ぎるまで生き、少女にどんな世でも強く、プライドを持って生きる事を身を持って教えたという。

『草の露』の中の、戦後40年に当たり、光さんが85歳の時に書いた文が心に沁みる。

力強く生きるからこそ人間です

すっかり世の中が変わりました。
私は明治中期に生まれ、明治、大正、昭和と長い人生がいつの間にか過ぎたと思っております。
私どもが若い頃は、世の中の人はもっと親切で、誠実であり、国を大切に、神を敬い、親には孝行し子供には大切に、そして礼儀正しく厳しく育てたものです。
この寒い時期に、白鳥は一家眷属大勢で仲良くシベリアから日本の湖水に来ます。
晩秋には、北方から雁がきれいに列を組んで渡来します。
鳥でさえこんなに仲よく助け合って生きているのに、万物の霊長であるはずの人間が、どうして些細な事で殺し合いをしたり、子供を道連れに一家心中したり、子供が父母を殺したりするのでしょう。
人生、色々な一生があります。
悲しき事、苦しき事、耐え難い事、これを乗り切る事が人の道ではないか、と私はいつも心の中で思いながら生きて来ました。
生きる事は辛い事のみ多いものではありません。
楽しい事の方が、きっと多いのです。
明るく希望を持って生きる事です。
・・・・・・・・・
日本人と言う事に誇りを持つ事、どんな時でも自分に誇りを持つ事です。
苦しさも悲しさも乗り越えて、力強く生きるからこそ人間です。
悲しさに潰されそうになった時も、じっと我慢して、少しでもよい方に向かう事を考えて生きて行こうと思います。
(『草の露』井上 光著より抜粋 )