柴田慶子

柴田慶子 について

Shibata Keiko / 会社員。自称写真家。好きな分野:民俗学。好きな写真家:栗田紘一郎。A member of a company. A self-styled photographer. I like a genre, "Folklore" and photographer, whose name is, "Koichiro Kurita."

遺構ー福島の写真展を新宿西口で見てー 柴田慶子

存在した意味や、追われた意味や、悲しみの記憶は、本だけではなく遺構として生きる。広島に原爆ドームがあるけど、長崎にはなんとかドームがないの知ってる?写真のように浦上天主堂は原爆直後も残っていたんだ。1958年に解体された。保存運動もあったらしい。保存に前向きだった市長が、渡米をきっかけに方向を転換したという話もあるが、明らかではない。グランドゼロの地点は、流れるプールがあって400円で遊べる。

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浦上ではあの8月9日、8月15日の「聖母被昇天」の準備があった。信徒1万2000人のうち8500名の命が奪われたと言う。

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流転福島 中筋純 写真展 2015年7月18日~8月1日@新宿西口プロムナードギャラリー

新宿西口の地下街の歩道で福島の写真展を見る。本音を言うと、この場所は、息苦しい。かつて、ホームレスが大勢すんでいた。ダンボールハウスがたくさんあった。地下街には不要な広い空間。二つの私鉄とJRと地下鉄が交わる、リーマンも学生も行き交う、その交差点にホームレスがいたのだ。ある日、出火した。

写真にうつる風景は、作者が意図したんだろうが、営みがないから息苦しい。しょうがない、これが福島の事実なんだから。一瞬見るとジャスコができてシャッター通りになった千葉のいなかにも見える。本当は豊かな営みがあったはずなのに、休止した町。ただ、これは、シャッター通りではなく、たった一日の出来事で全てを奪われた商店街や町なのだ。
失われた町をうたった青春の詩を読んでみる。商店街で普通に青春を過ごした作者がビートルズのように横断歩道を渡っていく。彼は、どうして、この町に戻ったのだろう。

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流転福島 中筋純 写真展 2015年7月18日~8月1日@新宿西口プロムナードギャラリー

ネットラジオが歴史と向き合うことを忘れた愚か者達の野蛮な振る舞いを述べている。ガラスの向こうにある凍結した店の営みは遺構そのものだ。ガラスのなかの写真に背を向ければホームレスがいた空間がある。人が行き交うなかで、そのまんなかで、段ボールをたて、暮らしていた。

青春の詩を書いた人は、この町を離れて、福島県内にすんでいる。お金一杯もらってるんでしょ、と言われるのだそうだ。ああ、この国で、お金一杯もらってるんでしょと言われる人は、沖縄、かつては、長崎、広島。お金をもらってるんでしょと言う国は、この国の他にあるんだろうか。お前の金歯も金でできているだろうが、札ビラでほっぺたをひっぱたきたいが、それには、手がたりない。

大熊の商店街の人は、いま、どんなところにすんでいるのかな。

ネットラジオが、もう、この国にはクーデターが起こった。それは7月1日だったと伝えている。鶯の巣にホトトギスが卵をうみつけるように、その卵は7月15日に孵化した。鶯は雛の大きさに疑問を持ちながら、餌をやり続けるそうだ。もう手遅れ?ヨドバシへの階段をかけのぼった。戦後は終わったとされるその日、娘を塾に送りながら、福島の写真展を見た。

隠された意味

「理智はすべてを常識化し、神話に通俗の解説をする。しかも宇宙の隠れた意味は、常に通常以上である。」萩原朔太郎「猫町」より

2月28日、岐阜県揖斐郡春日村中山に向かった。小西行長を祀る小西神社の祭礼と大般若の準備をする2月の末日、いつもこの村に向かう。

関ヶ原で敗れた小西行長はこの村に逃れ、密告でつかまって、呪いの言葉を吐いたので、たたりを沈めるためにお祭りをする。武将がここに逃れたことは事実でしかない。重要なのは、300年前のわずかな1日の事実が物語りになってしまうことだ。

川からいっきにせりあがる集落を形作る川原の石を積んだに違いない石垣。川からの湿気が登ってくる集落で「お宮さんからの風で村はいつも寒い」。その言葉を思い出しながら、川原に下りてみた。
墓の上にサルスベリの枝が落ちていた。石組みの墓の上に誰かが置いたに違いない茶碗が置かれている。

いまは、揖斐駅からバスで行くが、道路が通る前、この村は炭焼きも買い物も関ヶ原や垂井に向かっていたように、川をはさんで対岸の山に登れば、こちらは中山、向こうは垂井であり、春日全体を訪れた落人の数は数知れない。武将は合戦場のあった垂井(関ヶ原方面)から長谷川沿いに途中から“ヲバナ”の稜線を辿って川合に至ったと村の人は言う。オバナの稜線は北国への間道であったが、長谷川の源流は滋賀県への藤川にも通じている。法則があるとすれば滋賀県にはいかず、こちらに来たこと。なぜか、長谷川からはずれ、ヲバナを超え、中山の観音寺に隠れた。

「かわいそうなことをした」。その人は言った。かわいそうなことは、武将のことではないだろう。村が火事にあったことなのか、村の人が下へ出ていってしまうことを言うのか。7年も戦争に出た自分のことか。戦争で帰らなかった村の人のことか。聞くのを忘れてしまったのは、悲しげな伝説が村の風景と相まってメランコリックに響いていたからだろう。通説や伝説など真実を見誤らせる。武将がどこから来ても自分には関係のないことなのだ。それなら、自分はこの村で何を見ようとしているのだろう。見えない宇宙の法則を。隠された意味を。

垂井から登れば、こちらが春日。武将が通ってきた山。岩手峠当たりを越えた後、西には行かず、ヲバナの稜線を越えた。知られた間道ということだ。

垂井から登れば、こちらが春日。武将が通ってきた山。岩手峠当たりを越えた後、西には行かず、ヲバナの稜線を越えた。知られた間道ということだ。

「コゲラが鳴きおる。つがいじゃ」。小西神社は村の上方のお宮さんとお寺の隣の山のまた高いところにある。自分には一匹しか聞こえないコゲラを村の人はつがいと言った。「違う声がするから。」村ではまだ雪が残っている。武将の心を静めるための祭りは2月28日。小西さんが置いていった刀を埋めてあるのである。禰宜さんが、登ってくる村の人のために火を焚いていた。

「えらい、ここまであがれんて。下でやることも考えなあかん」。誰かが言った。 それでも、するめをふるまい、日本酒をふるまい、おまつりは終わり。武将が超えていったにちがいない稜線が見えている。

小西神社は社叢の一段高いところにあるので、杖をつきながら登ってくる。

小西神社は社叢の一段高いところにあるので、杖をつきながら登ってくる。

小西神社のお祭りが終わると、お寺でりんとう磨きがある。3月の第2日曜日が大般若さんなので、その準備のために、村人総出でりんとうを磨いたり、本堂を布で飾りつける。村人は18名。そのうちの10名以上がお寺に集まってくる。大般若さんとは、「五穀豊穣でも家内安全でもええ、願いをかなえてくれるありがたいお経」である。お経をめくるだけで読んだことになるとは言え、そのために、本堂を飾りつけ、りんとうを磨くのに1日かかる。

中山観音寺の本尊は千手観音であり、武将の菩提をともらうために美束からもらわれてきたと言われている。目の病に霊験あらたか、ということで大垣藩主の息女が中山にお参りにきたというえらい観音様なのだが、あまりに霊験あらたかなので、息女が山を超えてお参りに来るのはえらいということで大垣公が下へつれていってしまった。しかし、下へ下った観音様は大正に入って火事で焼けてしまった(栄春院)。こちらの観音様は、替わりに贈られた観音様なのだが、何度か火事にあっても、村人が救っていまも静かに暮らしている。本堂から外に投げ出されたり、肥桶をかけて火を消されたりと難儀しながらも静かに暮らしておられる。

この観音様であるが、少し疑問に思うところ、最近、春日村史をめくっていると興味深い記述を見つけた。

春日村史
春日村史592ページ(「美束長者平1886番地にある長国寺廃寺と、その後に建立されている五輪塔について、その時代、由緒等については、確たる記録はないが、樫のところ杉屋著『濃週揖斐郡春日村古今明細記』による」との前書きの後に続く。)
「延元年間(1336~1339)領主土岐美濃頼康、名僧有緑の霊場の荒廃を嘆き再興し、堂宇建立、仏像その他、全備せしめられたる古刹なりしが、土岐氏没落以後、堂宇修繕する人なく、堂宇はくち果て住僧泣きに至り寺の一部は、日坂へ移る、今の長国寺これなりと云ふ、今字長者平には石垣・寺跡・五輪石塔あり、また、泉水池の跡あり、四方に葦原を生ぜり」と記され、また、仏像については「薬師如来は池田郡日坂村長国寺へ移り、今尚長国寺の本尊是なり、観世音菩薩は種本観音堂に移る、千手観音大菩薩・釈迦牟尼如来・大日如来・四天王は中山観音寺へ移る。内、千手観音大菩薩は万治三年12月6日、安八郡北一色村(神戸町北一色)栄春院へ遷座、今尚、同院に奉安せり、四天王も同時に移る、釈迦牟尼如来・大日如来は、今尚、中山観音寺にあり、云々」と記録されている。

長者平の長国寺由来ということになると、またつぎのつながりを考えなくてはならない。長者平に五輪塔が残っているだけなのだが、長者平、長国寺にはなかなか興味深い研究が残っていおり、産鉄族や伊吹信仰のなかで十一面観音を考えなくてはならず、春日村一体は伊吹修験道や伊吹文化圏のなかで捉える研究があるようなのだ。また

続くの(予定)

3月の第2日曜日には大般若さんがあるので、小西神社のお祭りの日に、お寺の飾りつけをする。 村に春が来る。

3月の第2日曜日には大般若さんがあるので、小西神社のお祭りの日に、お寺の飾りつけをする。
村に春が来る。

結構、フクシマのことを。

みんな福島のことをーー自分は福島に行ったことがない。

最近、福島に行った事がないのだが、結構、福島のことが話されていることを書いておきたい。

私がよく行く岐阜県の山村は、やはり都市部への電力供給地となった徳山ダムと同じ町名になっている山村である。「犠牲者1万人」の手書きのキャプションつきで集落内の草刈の写真と一緒に張られてあるのは震災の写真である。みんな川下の町へ出ていってしまった村なので、行事の時だけ、戻ってくる。

2012年1月9日 岐阜県揖斐郡春日村 山の講を見学中に撮影

2012年1月9日 岐阜県揖斐郡春日村 山の講を見学中に撮影

村は、大飯原発から50キロ圏内。美浜で事故があった後(04年蒸気噴出事故、作業員4人が死亡)。村人が中部電力聞き取りにいった。その対応の感じに「あーんな、ええかげんな。事故が起きて北風吹いたら村は終わりじゃ。」政治色はどちらかと言うと保守の御仁だが、こんな感じ。100人を切った集落。夫婦のどちらかが死ねば村を出て行く。「情けない、村は終わりじゃ」と言いながら、村の思い出話と、原発の話をする。川が音を立てて流れている。峠を越えれば福井県である。この村は炭焼きが盛んだった。戦争から帰ってくると村で炭を焼き、村に木がなくなると、小浜、京北へと炭焼きに焼き子にいった。炭から電気に変わったのが昭和30年。山で稼がなくなると下(川下)へ出て行った。

東北と福島

東北には、海産物に関わり“復興”をしている私の友だち。なかには、放射能は光化学スモックより危なくない……、なんて公言する私の友だち。「でも、それなら、なぜ、福島のある地域の人は戻ってこれないのだ」。そう言いながら自分は、ノーベル中村が比較衡量について語ったことを思い出している。「この国は正義で判断しない。必ず大多数の利益と比較する」(ノーベル中村)。多くの人の利益を守るために、正義も、本当のことは言ってはいけない。福島ではどうして、生まれた土地を離れるんだ。ただ、この問いを友だちに言う事もないだろう。私がこう書いていることもとっても悲しく思うだろうな。

「福島は事件だ、私らとは違う」と一人の友だちが言った。津波で豪邸が流され、エメラルドの海を見下ろす高台にある仮設に住んでいる。事件と天災は違うと言う彼女。「もう三年だし~」。家に戻れない福島の人とは違う。彼女の父さんも津波の話は決してしない。

そこから、南下して、また知り合いの漁師に会いに行く。アイナメのベクレルの値が基準値を上回って売れなくなってしまったこと。震災で魚をしばらく取らなかったこともあって、魚が戻ってきた。養殖場の汚れも津波がきれいにしてくれた。それなのにアイナメといった高級魚が売れなかった。8割の補填があるが1日20万円ぐらいあった売り上げには響いた。牡蠣の工場も震災で全部やられた。3年以上経って、やんなる〜なんて言ってるんだろうな、いまごろ。

そんな東北の人たちの海は、三陸海岸の始まりにある。エメラルドグリーンの入り江。その入り江を伝って南下すると、福島がある。

2012年 宮城県東松島市宮戸つづら浦付近 白魚漁を撮影

2012年 宮城県東松島市宮戸つづら浦付近 白魚漁を撮影


いつか寄りたいと思ってる。どこに行っても、みんな、福島のことは話題にするので、行ってなくてもなんとなく身近な福島。