伊藤 千惠

伊藤 千惠 について

Ito Chie / 熊本生まれ。昭和音楽短期大学卒業後、インディーズバンド活動に入る。久保田安紀ユニット“”マリンコーニア”、吉田達也ユニット“高円寺百景”等に在籍。宮崎祐子氏にエリックホーキンス・ダンステクニックを学びパフォーマンスに出演。現在、派遣CADオペレーター兼主婦。幻想文学、民俗学、民俗藝能が好き。I was born in Kumamoto pre. and graduated from Showa music university. I have an indie band experience, belonging to groups, each of which was called, "Malinconia" organized by Aki Kubota, and "Koenji Hyakkei" by Yoshida Tatsuya etc. I have learned about a modern dance, which is called, "Erick Hawkins dance" from Yuko Miyazaki and performed. Nowadays, I work as a CAD user. I like, fantasy literature, folklore, and folk performing arts.

双葉町ドキュメンタリー「原発の町を追われて」を見る    伊藤 千惠

去る8月6日に開催されたドキュメンタリー映画「原発の町を追われて」を見た。
2012年に作られた1作目から、その後を追ったパート2、ある牛飼いの記録としてパート3と続けて見ると、原発事故のもたらしたものが避難という物理的困難さだけではなく、当事者である避難者を受け入れる側、あるい避難者ではない福島の人々の心境など、さまざまな方向に波及していることが見てとれる。
画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、テキスト双葉町は2011年3月11日、東日本大震災による原発事故のさい、町ごと埼玉県に避難した。さいたま市在住の堀切さとみさんは、その当初から町民の方々と交流しずっと映画に撮り続けてきた。
最後の避難所としてマスコミにとりあげられ注目された騎西高校が閉鎖され、報道も少なくなった。いっときの流行ではなく、ずっと記録し続けてと町民の方から言われたそうだ。

今でも避難生活が続いているのは、双葉町も浪江町も大熊町も飯舘村も葛尾村も南相馬市も田村市も川俣町も広野町も楢葉町も富岡町も川内村も、すべての帰還困難区域にいる人たち、自主避難した人たちにとっても同じ。
映画では、双葉町民の受難がさまざまな立場から語られている。そこから発生する地域内での、あるいは県内での分断。是非の判断が簡単にはできない複雑にねじれた状況がある。
そこには、ひとりひとりのナマの物語がある。

福島第一原子力発電所から送電された電気を使ってきた東京都民の自分は、目を背けることはできない。
ひとりひとりの想いを聞いていきたいと思う。

極私的震災レポート  熊本2017~熊本市内編  伊藤千惠

阿蘇編より続く

熊本市内は、昨年ゴールデンウィークの火が消えたような状況から一転して、商店街はすっかり活気が戻り、応急危険度判定の赤紙の貼られていた建物は修復・改修されたり、解体されて更地になっていたり。

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熊本市中央区春荘寺(2106年5月撮影)   春荘寺は、明治以前の農業のかたわら皮革処理に携わった人たちが信仰の中心として建設した春竹説教所であった。

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ゆがんだサッシ窓は取り替えられ、壁面がきれいになり前面の柱を支えていたつっかい棒もなくなった春荘寺。(2017年6月撮影)

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市民からの寄付を募る      春荘寺はかなり復旧されていたが、すぐ近くの辛崎神社はつっかい棒のままだった。日吉神社の摂社である唐崎(辛崎)神社は、肥後国では被差別地域にのみ存在が確認できるという。

が、ブルーシートがかかったまま、壊れたまま人が住んでいたり、あるいは放置されている家屋が存在していた。解体や施工業者の不足で、最近やっと修復にかかる家が多いという兄の話。復旧の見通しがたたない寺社も多くあるようだ。(西日本新聞

熊本で見たローカルュースでは、仮設住宅に住む1万9千人に対しての意向調査で約3割が住宅再建のめどがたっていないと報じていた。(2017年5月末時点での仮設住宅入居者数は約4万5千人)
県は仮設入居期間の延長を国に要望しているようだ。相談窓口を設けているが、市内で見かけたような修理しないまま住んでいる家が気かがりである。

昨年のボランティアセンターが設置されていた辛島公園からほど近い熊本城のまわりを歩く。
石垣や櫓の崩れた箇所に安全対策工を施したあと、はじめて復旧工事がはじまる。城内は入れないが外から見物する人のために、工事フェンスに復旧の様子を撮影したパネルを貼りだしてある。隣接する熊本城公園には休憩所が設けられ、ビデオや説明パネルが展示してあり、説明員も何人か常駐している。

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倒壊した五間櫓付近(2016年5月撮影)

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崩れた石垣をていねいに仕分けして安全な場所に移し、崩壊箇所にモルタルでの安全対策工が終わったところ(2017年6月撮影)

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遺跡の発掘作業のように仕分けされた石垣(2017年6月撮影)

まずお城より市民の生活復旧が最優先であることは当然のこと。パンフレットにもそううたってある。けれども、熊本の人は熊本城をわが城のように思っている。移封されてきたにもかかわらず、熊本城を築城した加藤清正が大好きである。
象徴とはこういうことを言うのだろう。

震災一年後の熊本は、阿蘇でも熊本城でも県外、海外からの観光客がかなりみられた。南阿蘇村では、阿蘇大橋や断層や地割れ箇所などを震災遺構として保存するという。(熊本日日新聞

今回行けなかった益城町や西原村、南阿蘇村の被災した家屋は、まだこれから復旧というところも多く、支援も必要であろう。

極私的震災レポート  熊本2017~阿蘇編  伊藤千惠

2016年4月14日に発生した熊本地震から1年あまりたった。
震災直後のゴールデンウィークに、熊本へボランティアがてら実家や家族の様子を見るため帰郷したが、そのときのレポートは、冊子「ヴェルトガイスト・フクシマ2016年夏号(通巻6号)」に掲載した。
今回は、奇しくも東日本大震災の起きた2011年の6月に他界した父の7回忌のために帰郷。阿蘇に一泊し、法事のあと、熊本市内の昨年歩いたところを見てまわった。

被害の大きかった南阿蘇村の宿泊施設は再開していないところが多く、今回は阿蘇の内輪山をはさんで北側にある乙姫地区の温泉民宿に宿泊することにした。

鉄道はJR豊肥線、南阿蘇鉄道ともに一部不通。
道路は阿蘇大橋の崩落部分を迂回するルートのため、かなり渋滞しているように感じる。工事車両が多いせいもあるのだろう。

熊本空港から阿蘇を経由して大分へ向かう長距離バスは、平日ながら、補助席を使うほど混み、阿蘇で降りる観光客も何組かいた。

阿蘇駅から見た阿蘇五岳、往生岳か?

JR豊肥線は肥後大津駅から阿蘇駅まで不通だが、阿蘇駅より大分側は運転再開したため、駅前は列車を待つ人や道の駅で買い物をする人たちが三々五々。

阿蘇駅から乙姫の宿まで歩く。
目の前に広がる田園風景に、地元の生活はもとに戻ったように見える。しかし、よく見ると斜めにかしいだ電柱や

阿蘇市黒川地区

阿蘇市黒川地区

豊肥線のレールが曲がっていたり

JR豊肥線内牧~阿蘇駅間

JR豊肥線内牧~阿蘇駅間

レールが浮いてしまっていたり

JR豊肥線内牧~阿蘇駅間

JR豊肥線内牧~阿蘇駅間

これは川に土砂が堆積して、まるで道のようになっており、本来の河道はずっと下にある。少し下流側に土砂を取り除く工事看板があった。

乙姫地区を流れる小さな川

乙姫地区を流れる小さな川

いまだ復旧に時間がかかることは見てとれる。

乙姫の温泉民宿は非常に快適な施設で、平日にもかかわらず数組の客が家族風呂を楽しんでいた。宿のご主人は、JR不通のため私たちのようにバスで来るお客さんも多いですよと。

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民宿の看板犬、チャック君

山や塚が近く遠くに存在する阿蘇はとても気持ちのいいところだ。活火山ではあるし、たびたびの洪水や昨年の地震など自然災害が多くはあるが、今回、6~7キロ歩いてみてあらためて良さを実感した。
正直なところ、小中学校を通じて毎年のように阿蘇には連れて行かれていたが、特別な感懐を持っていなかった。近くにいて何もわかろうとしなかった盆暗である。

熊本市編に続く

 

書の海を漂う~乱読日記*その六  「言葉と音楽」 :Ayuo (洪水 第十八号)    伊藤千惠

乱読といいつつ長らく投稿できずにいたが、読書は日常的に生活の中にある。
私にとって本を読む行為は、自分の欠損した部分を埋めることと、娯楽というか活字中毒である。自分はこのままでいいのだと肯定したら内的成長がとまるのではないか、という強迫観念にからくる被虐体質なのかもしれない。きっとそうなんだろう。

IMG_6071それはさておき、短歌総合誌「うた新聞」を発刊されている玉城入野さんからご恵贈いただいた、「洪水」という年2回発行の詩と音楽の雑誌がある。
玉城さんには『島尾敏雄の小高』というとても惹かれるエッセイがあるのだが、それについては次の機会にとっておくとして、
このなかで強く心に残った文章がある。
「言葉と音楽」  というエッセイのなかの『国を持たない人々』という、アーティストAyuoのライブで語られる文章。

Ayuo Takahashi(高橋鮎生)は、作曲家・作詞家・ヴォーカル、ギター、ブズーキの演奏者であり、自分の思想を言葉や詩にして、台本を書き、それを歌、朗読、楽器演奏と動きで演奏するパフォーマーである。
多くの世界的なアーティストと共演、作品を発表し続けており、舞踊・映画・CM音楽などさまざまな分野に楽曲や詞を提供している。詞は英語で語られ、日本語に訳される。
その世界は、商業ベースに乗り形式化された音楽とは違い、より自由に自分を表現する、日本では稀有な存在である。
ヨーロッパの古楽の香りのする曲もあれば、サイケデリックであったり、とても日本的な曲もあったり、ワールドワイドな広がりのある音楽であるけれど、Ayuoの思想がくっきりとそこにある。そこで語られることばはとても重要だ。
映像をバックにライブで語られる彼のことばを、私たちはどう感じるか?

 

「国を持たない人々」 by Ayuo
人にとっては自分の育った場所がふるさとだ。言語や文化は自分の育った場所から学んでい
く。科学用語ではエピジェネティックスと呼ばれている。体は先祖からつたわるもの、文化は環境から伝わるもの。
簡単そうに聞こえるが、簡単なことほど人には見えないものが多い。
ニューヨークで育った人は一生、自分の育った時代のニューヨークの中で一生を過ごす。
ロンドンで育ったアラブ人にとっては、自分の育った時代のロンドンがふるさと。
両親が信仰していたコーランはそのままでは彼にとって分からない。
両親と親戚とは口論ばかりになる。しかし、自分の育ったふるさとの人間も彼がその一員だと認めないとすると彼はどうする。そうした彼にアイデンティティーを与えてくれるのが過激派の宗教団体。
海外で育った人間がそのまま、自分の先祖のふるさとに行くとどうなるか?
『オマエは我々とは違う』と言われる。
『オマエは本物ではない』と言われる。
『オマエは日本人ではない』―これは僕がよく聴いた言葉だ。
しかし、人間はみんなアフリカで生まれた。
長い旅をしながら、やっと今ふるさとと呼んでいる場所にやっと着いた。
今でも人間の旅は続いている。
二百年前に旅をした人がアメリカを作った。
旅をしている人たちは毎年増えている。
移民が多く増える未来。
未来ではこうした人々がどうするかによって決まるかもしれない。
それは新しい民族になるのか?
それとも、国を持たない人々になるのか?
未来はこうした人々がどうするかによって決まる。
アウトサイドに生きている人は、アイデンティティーは作り物だと知っている。
社会のアウトサイドに生きている人に、そのようなアイデンティティーはいらない。

All Music and Lyrics have copyright.
They are registered internationally by JASRAC
Words, Music, Illustrations, Photos, Articles, Lyrics by Ayuo
© Ayuo All rights reserved

 

日本人の母とイラン系米国人の継父との家庭のもとにニューヨークで育ったAyuoは、日本で育った日本人は自分にとっては外国人であると言う。
身体は日本人であるけれど、ニューヨークの文化圏が自分のものだと感じる彼にとって、英語圏ではない日本で生活することは、常に異邦人であることを自覚させられ、違和感をひりひりと感じてきたであろう。しかし、それは同時に日本を社会のそとから客観的に見ることができるということなのだ。
私は日本で生まれ育ち、異なる民族や他の国家という環境になげだされた経験は旅行以外にはない。日本で生活する外国人や異なった文化圏で育った人たちはみな、日常が旅のようなものであろうか。この文によって、そういう人たちの視点に気づかされる。
「日本人の誇り」、「日本人として」といったことばを聞くとき、他民族からの優越性をほのめかす裏に、民族という属性に依存したもろさ、偏狭さを感じる。それは確立した「個」がない、自信のなさが根底にあるからではないかと思っている。
人間が人間であること、ラディカルに人間の精神をみすえるとき、性別や年齢、国籍や容姿、学歴、履歴などもろもろの属性は関係ないだろう。民族という属性も。
もちろん固有の民族文化や伝統を大切にしたり、愛でることとはまったく別のことである。

私にとって、自分の生まれた国の文化と、それ以外の国の文化はすべて等価で存在している。それぞれに好きなものや深いところで何かを感じさせるものと、そうでないものがある。その文化がどこのものであろうと関係ない。日本のものだから好きとか、日本人だから他の国よりすぐれているとも思わない。(もちろん、自分の国のものだから好きという価値観を否定するものではない。)
自国の文化だから理解できるということはあるだろう。しかし、文化の基底に流れる奥深い何かは、たぶん民族や国境を超えるのではないかと思っている。
ユングのいう元型(アーキタイプ)といったものかもしれない。
未来は国境なんかなくなって人種もすべて混じりあえばいいと私は思っている。

(「国を持たない人々」の掲載についてはご本人の承諾を得ています。
Ayuoさんの文章、詩、ライヴ映像は下記のブログで見ることができます。
ぜひ、皆さんにふれてほしいと思います。)
https://ayuoworldmusic.wordpress.com/

郡上踊りとローカル線と   伊藤千惠

ことしの盆休みの最後、どうしても岐阜県郡上八幡の郡上踊りに行きたくなって青春18切符で在来線を乗り継ぎ、片道400キロ、約9時間半かけて行ってきた。

日本三大盆踊りのひとつに数えられる郡上踊りは、江戸時代より400年、城下町郡上八幡で歌い踊り継がれてきた。
盆踊りは、中世におこった鎌倉仏教系の踊り念仏が起源と言われている。宮廷ではなく民草のあいだで流行ったのがかっこいい。
藝能のはじまりである「祭り」は、外からまれびと(客人)がやってきて、訪問された家の人がまれびとを歓待するために踊りや歌を供したことからくるのではないか、と民俗学者、折口信夫はいう。思うに、まれびとは神や霊や森羅万象の具現化したものなんだろう。
むろん生きた人間、村人が神や霊に扮して村の家を訪れるのであるが、歌や踊りを供してまれびとの魂を鎮めることに意味がある。
盆踊りもこの時期、この世に戻ってくる死者の魂を鎮めて、ちゃんとあの世に帰ってねという意味あいでなされる。
一遍上人のような諸国を遍歴した遊行僧がはじめた念仏踊りが盆踊りや風流踊りに、そして宗教性が薄まり田楽や猿楽といった藝能へ発展していく。

ずっと気になっていることがある。
この全国を漂泊した僧たちや藝能者は後世、と賤民して差別されるのだ。
動物の解体や皮はぎ、死者の埋葬などを職業とした人たちはもとより、山の民、海の民、巫、巫覡、神人とよばれる神社に属する下級職も含まれる。
死者の埋葬や動物の解体に携わる人が死や血のけがれにさわるという理由で差別されたという解釈は理解できる。
では藝能者や遊行僧のような人たちは定住しないから差別されたのだろうか?
藝能、祭りの淵源は神事につながる。古代天皇は祭祀王であったのか?
聖と俗。ハレとケ。けがれときよめ。聖なるものが賤視される。
諸国遍歴した遊行僧は聖(ひじり)と呼ばれた。
すべての研究書を読むほどのことはできていないが、定説はない。
決して歴史の表舞台で多くの人が熱狂する人物が登場することもないフィールドではあるけれど、私たちのこころのあり方や考え方を意識下で形成してきたものがそこにあるのではないか、と私は思っている。これからもずっと考え続けていくだろう。

それはさておき、私の踊りたい歌いたいという欲求が、「自分の内部に良き魂を招じ入れることが鎮魂ということ」という折口説に自然にフィットしてしまったので、誰が参加しても良いという郡上の盆踊りに行くしかないではないか。

期間は、なんと7月中旬から9月上旬にかけて33夜も行われ、8月の盂蘭盆会には徹夜踊りが4日間行われる。その徹夜おどり最後の16日、浴衣と下駄持参で行ってきた。
会場は毎日かわるが基本、ストリート。お囃子の山車を中心に細長く輪になって踊る。
踊り手が多いので2重3重の輪になって踊る。10種類の曲があり、緩急それぞれ組み合わせた配列で演奏されるので、飽きずにとても踊りやすい。
よく見る盆踊りの所作とはかなり違う。こぶしをあげたり、下駄で地面を蹴る所作が多い。
これは、歌舞伎や能、日本舞踊にみる足で地を踏む所作反閇(へんばい)からきていると言われているのと同じだろう。反閇は、陰陽道の足の運び方で邪気を鎮める呪法である。相撲のしこを踏むことも、歌舞伎で六法を踏むのもそこから来ている。
まさに「郡上甚句」という相撲甚句からきた曲もあり、ナンバ(右手と右足、左手と左足が同時に出る動き)でこぶしをあげる所作が相撲取りのようでおもしろいものであった。

特筆すべきは、踊る人の年齢層も男女比も極端な偏りがないこと。高齢の方も小中学生も男女同じくらいの数が楽しそうに踊っていた。中心になるのは30代のようだったが、それも珍しいのではないだろうか。端正な浴衣の着方をしている人が多く、郡上踊りにかける意気込みを感じた。
街並みの古さと水路がはりめぐされた水の町といった風情が、ちょっとした時空を超えた旅の趣きがあったことを申し添えておこう。

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蛇足ながら旅のルートとその感想
《往き》―下図の青いルート
JR東海道本線 東京⇒岐阜、
JR高山本線 岐阜⇒美濃太田
長良川鉄道 美濃太田⇒郡上八幡(すべて各駅停車)
《帰り》―下図の赤いルート
長良川鉄道 郡上八幡⇒美濃太田
JR太多線 美濃太田⇒多治見
JR中央西線 多治見⇒塩尻
JR中央本線 塩尻⇒東京

往きの東海道側は、人口密集地らしく在来線の本数、車両の数も多く、乗り継ぎ時間があきすぎることもなかった。が、乗り換えでホームに降りるも、殺人的な日差しにめまいが。
長良川鉄道は1車両だけのワンマン運転で本数も少ない。始発の美濃太田は人口密集地だが、美濃市をすぎたあたりから長良川に沿って自然がひろがる。終点まで乗ってみたい。
帰りの中央西線は山の中を4両編成でゆく。統計GISを見ていただく通り、駅前にも人家はまばらである。車窓から見える木曽川が上流であるからだろうか、水深が浅く岩が突出していることに驚く。木曽の山の中とて製材する前の木材が線路脇に積まれている。
過疎を思わずにはいられない。

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(出典:株式会社東京教育公論HPより)

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(出典:総務省統計局 地図で見る統計(統計GIS)

・郡上踊り公式HP(郡上八幡観光協会)
http://www.gujohachiman.com/kanko/odori.html

参考文献
「日本藝能史六講」:折口信夫
「折口信夫全集 第二巻」:中央公論社
「ケガレの民俗誌」:宮田登
「柳田国男を読む」:赤坂憲雄
「辺界の輝き」:五木寛之・沖浦和光
「日本の歴史を読みなおす(全)」:網野善彦
「東北学 vol.7」:東北芸術工科大学東北文化研究センター