酒井政秋

酒井政秋 について

Sakai Masaaki / 1978/02/07生まれ、飯舘村で高校までを育ち東京に上京するも肌に合わず南相馬で婦人服製造業の主任を経験し、長男と言う事もあり飯舘村に戻り友人が経営する婦人服製造工場に勤めました。これから村とどう会社として個人としていくかを模索している最中、2011/3/11、東日本大震災が起こりました。夢は破れ、飯舘村での人生は砕かれました。現在、通信制大学在学中。原発被害糾弾 飯舘村民救済申立団事務局庶務 / Facebook / Website / Twitter / I was born at Iitate-mura in Soma-gun in Fukushima prefecture. I had lived there for 18 years and lived in Tokyo, but I didn't have the feeling for Tokyo's life in my body and then coming back to hometown, I had manufactured women’s clothing at Minamisoma-shi, however, I'm first son, so did it at Iitate-mura as a chief. Thinking about how to activate my village or company, it happened the Great East Japan Earthquake to us on the 11th of March, 2011. I act for the rebuilding of our lives as a general clerk of a group, which is called, "Iitatesonminkyuusaimoushitatedan (a group to save people of Iitate village and denounce TEPCO for nuclear accident's damage.) and as a chairman of a group, which is called, "Kasukadarinokai (A group, 'Let's talk sincerely' )."

◇月いちリレーエッセー◇ 共に過ごしてきた「我が家」が無くなるとき~酒井 政秋~

2017年も残すところあと14日。

今年は3月末日に飯舘村避難指示解除になり、ようやく解除後に我が家の除染がはじまり、我が家の家屋解体をした。

家が無くなるという事は、はじめは想像すらつきませんし実感すら持っていなかった。ただ、漠然と家を解体するんだな。という事だけだった…。

家屋2017しかし、いざ、除染が始まり、土が削られ、家屋周辺、田畑などがどんどん剥がされていくたび、心の中で何かが削られるような、いや、何かをえぐられる様なそんな気持ちがした。それは自分が育んできた生活をむしり取られるような感覚かもしれない。

除染も終わり、いよいよ家屋を解体するという連絡が入った。
祖父母が一代で築きあげた家が壊されていく。祖母からしてみたら、どれほどの心の傷なのかは孫であるわたしにも想像できない。もしかしたら、今まで生きた人生を一瞬で奪われる様な気持ちなのかもしれない。けれど、本心は分からない。
9月解体現場を見に行こうと決めた。家にたどり着くまで何を思って車を走らせたのかその時の記憶はないけれど、解体がはじまった家を見て、心臓がバクバク音を立てて早くなっていくのは感じた。この時にようやくこの家が、私が生まれてから共に生活をし、台風の日も、雪の日も、あの地震の時にさえも共に過ごしてきた「我が家」が無くなるときだと実感したのである。

壊されていく我が家変わりゆく姿を行ける日に足を運び写真で撮り収めた。
だんだんと崩れていく我が家に哀愁を帯びてゆく。

解体家屋

季節は初秋から本格的な秋へと変わる中、一軒の家は、更地になった。

更地

幼い頃、囲炉裏の淵でどこまで遠くに飛べるか姉と競い合っている中、誤って落ち大やけどをした囲炉裏も、よく寝坊をしそうになって急いで滑り落ちてた階段も、親戚がお盆に集まり従妹たちと蚊帳に入って遊んでいた客間も、受験勉強を夜遅くまでやっていた部屋も今では私や家族の心の中にしか存在しない。そこに行っても、影も形も今はない。けれども、そこは私が生まれた故郷ではあることは確かなわけである。

原発事故というものは、どこまで私たちの心を汚していくのだろうか。
わたしの住んでいた集落(わたしたちは「組」とも言っている)は帰村する人はゼロである。いずれ誰かが住むにはもう一度、先代が行ってきた「開拓・開墾」をしなければ住めないであろう。そういう「時の継承」をも失ってしまったのである。

これから、集落に祀ってある神様はどう継承していくのか、今の世代の人たちですら年配者である。次世代と言ってもこの集落では私を含めて2名しかいない。話し合いを重ねながら解決していくとは思うが、20年後の未来が原発事故のおかげで時を越えてのしかかってくる。緩やかに継承するはずがそうもいかない状況にさらされている。それもまた問題である。こうして、一つの集落、個々の問題だけでも問題は山積しているのである。飯舘村全体で大小問わずにどれだけの問題が日々増えていってるか予想をはるかに超えるだろう。そのなかで、当事者が沈黙してはダメ。と風の便りでそういう声が聞こえてくる。しかし、それ以上に現場では日々その問題と向き合い打開策を考えている人もいるという事を知ってほしい。そのうえで、無理のない範囲で発信を出来る人はやっていると理解をしてほしい。

来年は原発事故から8年目、時だけが足早に過ぎ去っていくが、それとともに県内の中での温度差、県外の温度差、自分の中での記憶の風化、どれだけ「自分事」として考えられるのか、当事者としても試される1年になるのではないかと思う。

 

本年もご愛読くださり誠にありがとうございました。

来年もできるだけ発信できるように精進していく所存でございます。

2017年3月31日 酒井 政秋

2017年3月31日

帰還困難区域を除き避難指示が解除された。

わたしは故郷の”その時”を感じたくて、飯舘村に向かった。

飯舘村に入った県道12号線(福島市ー南相馬市を結ぶ県道)には黄色の幟旗が掲げてあった。幟旗には「避難指示解除」と「おかげさまで」と書かれていた。

その姿は異様に感じた。いつか感じた光景とダブった。それは、除染が始まったときに、「除染作業中」の幟旗とこの異様な感覚が似ていた。

「これが…飯舘村⁈」おもわず一人車中で呟いた。

運転中の足が震えた。途中車を止めて、深呼吸。

なにか悪い夢を見ているような感覚になった。

これも現実だと自分の心に受け止めるまでに、時間がかかった。

今、村政は狂っている。素直にそう思った。

飯舘村は自主自立で、あるものを活かし、つつましく丁寧に心をこめて、村政をやってきた村ではなかったのか⁈

復興予算は適切に使われているのだろうか⁈

疑いたくなる光景を目の当たりにした。

これから飯舘村の未来はどうなるんだろう。

真の問題解決しないままに、この村は何を目指して生き残っていくのだろうか?

自分の心に様々な感情がうごめいている。

今日、はっきりわかったことは、「この村に帰らないんだな俺は。」ということだった。

それも受け止めながら明日を生きなければならない。

幟旗

 避難指示解除にあたって思うこと・考えること 酒井政秋

原発事故から7年目の避難生活も3月31日には帰還困難区域を除き避難指示解除となる。しかし問題が解決したからではない。未だに除染をしてもなお1μ㏜/hのところも数多く点在している。安全にというには程遠い。この避難指示解除に至る経緯について村の説明によると原子力災害対策本部長(安倍首相)へ要望書の提出(平成28年4月5日付・村と議会連盟提出)し村が政府に要望したという形で決議された(※1)。大半の村民は解除の一報に唖然としたことだろう、それは村民に周知する前の解除の一報だったからだ。いつもそういう大切な事案は決定されてからの説明会及び懇談会を開き、ただ決議された内容を話すだけの何とも奇妙な説明会や懇談会が行われる。そんなことが6年も続いた村民は疲弊をしてしまっている。それは、自ずと国の思うつぼなのかもしれない。当事者を疲弊させ、「言う口」を減らした方がスムーズに物事は進んでいく。そうして6年の間に切り捨てられてゆく村民を目にしてきた。

「どうせ・・・」「しょうがない・・・」そんな言葉が蔓延しているのは確かだ。

4月からは村に帰らない人は自ずと避難者から「自主」避難者となる。
村からも何れは切り捨てられるだろう。
けれど、我が故郷は飯舘村に違いはない。
飯舘村はのどかな村だった。
飯舘村は放射性物質にも汚染されたが、この6年で国にも汚染された。
村と国はズブズブの関係を築き、今まで村民が築きあげたものを次から次へと壊していった。
このまま壊されたものを諦め、見なかったことにして飯舘村として見過ごして果たして良いのだろうか。
小さな田舎社会というものはしがらみがある、けれど、今まで築きあげたものを押しつぶされて、それすらなかった事にされてもなお、頑張っぺ!なんて言えるのだろうか…。

村の行政区総会説明資料(※2)によると、前年度より2倍を超える212億3500万円と過去最大の予算額だ。その内容は、学校等再会整備事業・スポーツ公園整備事業・復興拠点エリア整備事業・被災地域農業復興総合支援事業などの事業により、昨年度と比較し120億7700万円の増であり、その中で、復興対応事業分は約177億円と予算全体の約83%を占めるという。

それが飯舘村らしいやり方なのだろうか…?

つつましく、あるものを活かし、自主自立で「までい」な生活をスローガンとしていた村が次々とハコモノを建てたり、整備したり。戻る村民の負担にならないだろうか。確かに6年放置された建物は老朽化して使えないかもしれない。けれど、それだとしても、あるものをリフォームして使うことだって可能だったはず。そのツケは未来の村民に重くのしかかってくるはずだ。維持費や経費などを考えると莫大な費用はかさむだろうに…。

それで果たして「飯舘村の復興」というものなのだろうか個人的には疑問である。
わたしだってこんなこと好きで説明会などで言っているわけでもないし、書いているわけではない。
黙って見ざる聞かざる言わざるをするほうが楽だ。しかし、それは未来への棚上げではないのだろうか。
何れは未来の村民に振りかぶって苦悩するのではないか。だとしたら第1当事者が言い続けなければならない。そして、綴り残さなければいけないのではないか。
原発事故というものは途方に暮れる問題だ。
しかし、このまま解決していない問題を解決されたようにされていいのだろうか。

これから起こるかもしれない実害と日本が抱えている社会問題の縮図がこの村に襲い掛かってくるだろう。

限界集落・高齢化・介護・孤独死・少子化・村の存続など多岐にわたる問題とこの原発事故による低線量被ばくの問題・健康被害・風評という実害。

元の村民らしい生活ができるわけではないのだ。どこかで我慢しながら生活をしていかなくてはいけない村になってしまう。

自然と共存・共生してきた村は、もうそれはできない。生態系は崩れ、民家にまでイノシシや猿が来ている。6年、人を見なくなった野生獣は「境界線」が無くなっている。まずはその境界線対策を練らなければならないだろう。四季折々の山菜はもちろん食すことができない。畑で作る野菜もその都度計測しなければ食べれない。そして、村民にはガラスバッチをつけ、積算線量を計測しなければそこでは生活できない。介護の問題もある。村では介護を受けることができない。なぜなら、介助する人員がいないためだ。

これが現実問題なのではないだろうか。

非常に目に見えないものに抑圧された生活となるのではないか。

それでも解除が喜ばしいことなのだろうか。

現実よりも幻想の中で、生きる為政者たち。

その幻想は現実村民の苦悩にならなければ良いなと切に思う。

本当の問題解決までにはあと何十年…いや何百年かかるのかもしれない。

100年先、200年先、300年先にあの大地がそこに住む人々が輝きを取り戻している事を希望にしながらこれからも伝え遺していきたい。

 

iitate

 

 

 

※参考資料 1)村民自治会懇談会資料より引用 2)平成29年度行政区総会説明資料より引用

 7年目の原発避難生活 (間章)~あの日のキオクの断片~ 酒井政秋

あの日とは

2011年3月11日 14時46分のこと。

東日本が大きく大きく揺れた。

この世の終わりかのように揺れた。

(中略 発災当初は会社にいたが、皆家族の無事を確認するために仕事どころでは無い揺れだったので解散して自宅に向かう)

カーラジオからは大津波警報と叫んでいる。

焦った。家へと向かう車を何度も止めて、メールを送る。

また、揺れた。

余震が次から次と来る。

不安の中、

真っ暗闇になった。

飯舘村は停電。

ろうそくの明かりで、

夕飯を食べた。

その日食べたサツマイモの天ぷらやジャガイモの天ぷらの味が忘れられない。

夕飯を食べたとき、‟生きてる”ことを実感した。

涙が出そうになった。

必死で堪えた。明日を生きるために。

夜になっても幾度となく突き上げるような大きな余震が止まらない。

そのたびにストーブを消した。

ラジオでは、

ジィーーーーー、

”「まるでここはゴーストタウンです。このような光景は見たこともありません。」”

とラジオの向こうからアナウンサーの声。

おそらく浜のほうはもっと大変なことになっているんだな。

不安と恐怖・想像で震える体をおさえるように、布団に包まる。

ウトウトすると、また地鳴りが聞こえ、

大地を揺さぶる。

そのうち、うっすらと明るくなった。

わたしは外に出た。

東の空が夜空を押し返すように静かに明るくなった。

その時、思った。

「明けない夜はないんだな。」と。

 

しかし、

そこからがまた地獄の日々だった…。

何もかも奪い、大地を汚したあの事故が起きたのだ。

あれから6年経とうとしている。

ミエナイものはまだ、あちらこちらに点在している。

だからこその問題も積み重なってゆく。

海を見たくなったわたしは車を走らせた。

そこに広がる海は太陽にキラキラと輝いていた。

海に向かって静かに祈った。

 

 

撮影:筆者 2017/03/05の海

撮影:筆者 2017/03/05の海

 

7年目の原発事故避難生活(第1章)~村民の声2017~ 酒井政秋

第1章)村民の声2017

わたしは2012年~2014年まで「飯舘村の1人1人の想い~伝えたいメッセージ~」(HP:https://iitatemessege.jimdo.com/ )を運営していた。これは、事故後、各仮設住宅の傾聴を始めていくうちに一人ひとりがちゃんと自分の意見や想いがありながらも口にすることができず、一人ひとりが苦しみを抱えていた。なぜこの声が村・県・国には届かないのだろうと…もどかしい気持ちでいた。村民一人ひとりの「声」は大切な声なのに…と。わたしは当時政治家にお会いする機会や行政区説明会などが頻繁にあったのでその大切な声を伝えていこうと思った。実際に相馬仮設住宅の不備などを役場担当職員に要望してきたこともあった。月日は流れ関心が薄れつつある県外の人たちにもこの想いを知り村民一人ひとりが、どんな状況にあるのかを想像して欲しいと思うようになり、ホームページ開設とSNSで専用ページ(現在閉鎖)を作成して公開してきた。

あれから早3年、わたし自身も色々と忙しくなり、中々思うように‟伝える活動”さえも出来ない状況になっていた。

そこで今回、原発事故7年目・3月末避難指示解除(帰還困難区域を除く)を迎えるにあたって村民は何を思い、どんな心情で日々を送っているのだろうか。1度限りの復活として、何名かの村民にご協力してもらい質問用紙にて声を聴かせてもらった。回答(順不同)を原文そのまま伝えていくことにする。

それぞれの考えや思いは村民一人ひとりで変わる。そして、その気持ちは6年間、波のように情報や状況や環境で揺れ動いていることをご理解いただきながら読んでほしいと切に願う。

撮影ー筆者 飯舘村の夕焼け

撮影ー筆者 飯舘村の夕焼け

 

①震災・原発事故から7年目になるわけですが、あなたは今、どのような心境ですか?
(例えば、悩みや不安、怒り、将来への展望など、書ける範囲で字数には制限ありませんので、ご自由にお書きください。)

・家族が笑って暮らせればそれでいい、3月から新しい職場での仕事が(スムーズに)務まるか不安、部落での役割と責任が増していくのが負担、子どもが福島市の高校に入るので「いじめ」られないか不安。              (40代 男性)

・飯舘村には、あと10年以上戻らないと決めている。その先戻るかは、その時になってみないとわからない。飯舘村は、生まれ育った故郷。それでいい。これからの人生が大事だから、生活する場所にこだわる必要はないと考えている。原子力発電所がまだ不安定な状態なので、地震等の災害が来たら、行く先は決めていないが、すぐに逃げる覚悟はいつも持っている。                 (40代 男性)

・ストレスが富士の山よりも高く積もりました。         (80代 女性)

・避難先での生活としては長い年月が経ったのだなと思います。小学1年生の子供たちが、中学生になるほどの年月です。しかし、子供から高齢者の老若男女が、生活していけるような村になるという意味では、まだまだ短すぎる年月だと思います。山林の除染も何とかしてほしいと思います。自然と共に飯舘村の暮らしがありました。仮に除染をしても、元の暮らしが出来るとは思えないのが、正直なところですが…。100年、200年、300年経って、子供たちが何の不安も無しに、山や川など、外で楽しく遊べる日が来ることを願ってやみません。私は、飯舘村の写真を撮っているので、避難指示解除後、村に戻って精力的に活動している方や住民などにスポットをあてた写真も撮りたいと考えています。            (20代 男性)

・子供たちを自分と同じような環境で育てられない、地域社会の中で育てられない、そしてそれらを諦めてしまっていることを時折辛く感じる。別の場所に移り住んでそういう環境づくりをすればいいのだけれど、それでは地元に帰れなくなる。                (30代 男性)

②2017年3月末日で飯舘村が避難指示解除になりますが、まず、はじめにあなたは飯舘村に帰村しますか?それとも新天地で生活を継続していきますか?

《帰村するを選んだ方》

・村の指示に基づいて村に帰ります。飯舘村の自然と共に土で生きた人生でした。いのちの終焉は飯舘村の「土」になる覚悟で生きていきたいと思っています。

(80代 女性)

・いずれ帰村をする。そして、村での仕事をする。農地を守る。地域社会を守る。子供たちにつなげるかどうかは自分たち次第だと思う。       (30代 男性)

《新天地での生活継続を選んだ方》

・新天地に家を建てるので当面は新天地で生活していきますが、飯舘にも家を建て直すので、いずれは帰村するかもしれない・・・わからない。    (40代 男性)

・帰村しない。当分は、避難先で生活する。その後は、妻と一緒に永住できるような土地を探し、小さな家を建てる。
汚染された土地、フレコンバックがある風景。
そんなところに子供を連れて戻りたくない。
飯舘村は、まだ、元に戻る途中の状態である。まだまだ時間がかかる。

(40代 男性)

・まだ、帰りたいと思える場所ではないため。家族と一緒に新天地で暮らすことにした為。放射性物質、汚染の心配。避難先での生活の基盤が出来てきている中、早々に帰るメリットや理由が見いだせない。              (20代 男性)

・今は避難してからの生活が定着していて、現在の飯舘村で生活していけるのか?を考えると不安が多くあり(病院・買い物などのインフラ・放射能・フレコンバックなど)現時点では帰らないと決めて新天地で生活していきたいと考えています。   (40代 女性)

③避難指示解除について今のあなたの心境をお聞かせください。
・帰りたい方々が自宅や地域で過ごすことができて、大変良かったと思う。

(30代 男性)

・まず、避難指示解除の方針が示された時に思ったのは、「なんで?早すぎる」でした。その思いは、今でもまったく変わりません。そして、方針を知った村民の方たちの反応を見て、「こういう風になったのか」と思いました。避難指示が解除されたからといって、みんながやっと帰れるということではないんだな。
帰りたいけど帰れないんだな。
仕方なく帰るしかないんだな。
帰る気はないから帰らないんだな。
帰れるところじゃないから帰らないんだな。
帰っても、どう生活していくのか、何が出来るのか。
避難先での生活の基盤ができている方も多いと思います。
放射線量、汚染、単純にそれだけの問題ではないのが現状だと思います。

(20代 男性)

・避難指示になったときから、いつかは解除するとは思っていましたが、現況だと安心して帰れる状態ではないと思います。             (40代 女性)

・安心して村で生きる事への対応を!!とても不安に感じています。(80代 女性)

・仕方ないと思う。                      (40代 男性)

・汚染土が入ったフレコンバックが至る所にある状態で、避難指示が解除されることは到底許されるべきことではない。時の政府、県、村が責任不在のまま、自分たちの思いのまま決めているに過ぎない。そこに、避難している村民の声など反映されていない。村長選挙で今の村長が選ばれてしまったことに残念さ、無念さを感じる。

(40代 男性)

④今の行政に対してあなたが今、感じている事・思う事をご自由にお書きください。
・聴く耳、聴く場、伝えようとする場を持たない村なんて、本当の飯舘村じゃない!本当の飯舘村は村民の夢や将来、仕事継続等に向かってサポートする裏方!(村政が村民より)全面に出てどうする。誰がついていくのか?勝手にやってろと言われても、しょうがない。                      (40代 男性)

・村内での学校再開も、やはり本当にそれで良いものかと疑問です。
通学する際、子供を乗せた車やバスで、フレコンバッグが置かれているすぐ横を通り過ぎる。こんなことはあってほしくありませんし、とても悲しいことです。

(20代 男性)

・もう少し早い段階で村民からの意見に耳を傾け、話し合いをすれば、村民が知恵を出し合い、協調しながら解除に向けて準備ができたように思います。村政は、村民の為ではなく、「飯舘村」という名前だけ残ればいいように思えてなりません。

(40代 女性)

・役場職員のテンションは上がらないだろうが、前向きに頑張ってほしい。見る人は見ているから。応援・共同できるところはしていきたい。     (40代 男性)

・村職員の方々は大変忙しいのではないかと感じる。行政も続けられる体制でいてもらいたい。                          (30代 男性)

⑤さいごに上記の質問事項以外で何か伝えたいことがあれば、ご自由にお書きください。

・個々が懸命に生きていけば、それで良い。それぞれが家族を守りながら楽しく元気に暮らしていく事。行政には期待もしていないが、文句も全くない。大変だろうなと思う。俺にはできない。                    (40代 男性)

・村内で保護されている犬もこれから先どうなっていくか、気になるところです。
お世話してくださっている方の優しさとご苦労、そして、村内をパトロールされている方々、除染作業員の方々へ、感謝の気持ちでいっぱいの思いです。(20代 男性)

・誰も責任を取るつもりのないまま、ことが進んでいる。
飯舘村にこの先10年戻らない。飯舘村がどうなろうと構わないと思えれば楽なのだが、今の飯舘村のやり方を見ていると、どうしても我慢ならない。
我慢を抑えて生活しているとストレスがたまり、自分がダメになってしまうので、思うままに言い、思うままに行動するんだー!という気持ちで生きていきたい。

(40代 男性)

・高齢者が終の場所として選択した・・・村・国は安全、安心(人間が最低限度生活していく為に)をどう対応されるのか・・・?種々の角度から情報を頂いていきたいと思っております。私たちも村民として(自立・自律)と共生!!を常に心して生きていきたいと思っております。                  (80代 女性)

撮影ー筆者 2017年2月 飯舘村

撮影ー筆者 2017年2月 飯舘村

おわりにご協力いただいた村民の皆様に感謝をしたい。

この6年で村民の「声」はより重く響いてくる。

そして、言葉の裏にこれまで歩んできた平坦ではない道のりがどれほど険しかったことだろう…。

それぞれの苦渋の決断が迫られている。