吉田 邦吉

吉田 邦吉 について

CHIEF EDITOR ▼Yoshida Kuniyoshi / 小さな雑誌『WELTGEIST FUKUSHIMA』の編集長をしている。1981年1月大熊町生まれ育つ。中大法学士。政府避難指示区域内農業関連公共事業者。大型特殊免許。宅地建物取引士。エッセイが致知出版にて大坪社長特別賞。日々4kg背負い150m低山を4往復でマラソン20kmを走っている。総計10,000km超。20語学を学んでいる。編著『フクシマ発』(現代書館)。文化庁支援事業LMN、福島県立博物館、横浜美術館ヨコハマトリエンナーレなどで講師。私設図書館「ふくしま本の森」にて活動。NHK BS1 スペシャル (+ world premium)「福島タイムラプス」(出演)が全日本テレビ番組製作社連盟ATP賞テレビグランプリ優秀賞、ニューヨークでも受賞。facebook / website / Amazon/ Twitter/ Instagram▼ Essayist. Public enterprise of agriculture at Okuma town in Fukushima, where has been legally off limit area since 2011. Private school. Nuclear evacuee. Independent publisher. Jurisprudence. Majored in law, Chuo Uni, related to the Middle Temple in London. A special essay prize on a first-class magazine 2015. Lectures and Talks at Fukushima prefectural Museum, Yokohama Municipalcity Museum of Art as Yokohama Toriennale 2017 with works by Olafur Eliasson etc. Like learning languages, Folklore, etc. So many Appearances of Newspapers, Radio, TV, Internet, and NHK BS1 SPECIAL and NHK world premium (Fukushima TImelapse, ATP award TV grand prix, outstanding performance award 2018 in Japan. Also, in New York it received an award). Marathon 20 km with 4kg and study 20 languages everyday. Live in Fukushima.

風評で人は傷つく。吉田邦吉

自分の大事なものに悪口や悪評を立てられると人は傷つく。すなわち福島が安全なのに汚染だ危険だと常日ごろ言われ続ける風評は実害になりえる。何年も議論して共通理解を積み上げたのにと。

そのこころが、悲しくなるからだ。

かつて私が引用した、「風評でなく実害」という言葉の意味は、「噂のせいではなく実際に放射性物質が拡散されたこと」が被害の根本的実態だと言っていた。事故なければ混乱もなく。

しかし、おおむね暮らしの線量に安全が確認されて相応の期間が経ったあとまで、福島すなわち危険かのように汚染を激しく言われ続けることは県内にいる県民にとって、なんともない平気なことか。

風評被害イコールどうでもいいことではない。風評被害イコール無視して良いことではない。風評被害イコール言論弾圧の言葉だけでもない。風評被害は生業の破壊にもなりえる。自分に来る酷い言葉で傷つかない?

風評被害イコール人が傷つく。実害可能性があるということなのである。今まで実害を心配してきてくれていた人々は必ず風評被害が実害になってしまうことも心配してくれているだろう。

その言葉の向こうでは傷ついている人々がいる。思いやりとは、それを減らそうと努力することであって、政治的な終局が過ぎても、実害vs風評で争い傷つけ合うことを是とするものではない。

他人につけた傷は自分に跳ね返ってもくる。どうしたらいいか考え続けてもらいたい。恨みを晴らすかのように県民を傷つけ続けることが、傷ついた人々を癒す行いなのかどうかを。

通巻16号 共同執筆号 2020年01月12日発売開始

20200112発売 WELTGEIST FUKUSHIMA 全体号(共同執筆号)通関16号

解説
 本号はなんといっても執筆者の人数が多く、発行までに2年も要した点で、編集長としては思い入れが深いものになった。2年間も休んで居れば存続があやぶまれても不思議でない。再びご注文くださった皆様にこころより御礼申し上げます。これからも続けていく所存です。

*執筆者*
中筋 純
古屋礼美
果南子
稲山聖修
高田 緑
津田枝里子
酒井政秋
柴田慶子
芸術先生

*編集部*
・編集者
伊藤千惠
・デザイナー
天井優志
・総務
吉田博子
・編集長、発行人
吉田邦吉

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心よりありがとうございます。
歩みは遅くとも続けていく所存です。
何卒よろしくお願い致します

時の流れを持つ。見る。新生福島を語る。吉田邦吉

区域内で働いて分かる。ゲートは重く日に何度も開閉は大変。

2015年ごろ、確かに終わった。

約五年、帰還困難区域は見通しがまったくつかなかったのである(今ですら全てに明るい見通しが立っているかと聞かれると不安になる)。だから大勢が諦めた。日々、時は過ぎる。もはや終わったと思うしかなかった。

それぞれが新しい人生を始めていった。その土地で安定していけば、喜ばしいことでもあるから、それを放り出して戻ることもまったく簡単でなくなる。そうして実際に一部、昔の福島は終わった。例えば中間施設があったら帰還のアンケートは自由意思だけで決められるだろうか。

そうせざるを得なくなった大勢が、新しい暮らしを始めていったのである。たほう、今の区域は、さみしくなった。建物はどんどん消えていく。消えていく順番待ちだ。どう見ても昔の福島が終わっていくのは否定できない。いのししはいつも増えて土地や道を荒らし困ってもいる。

0.15マイクロシーベルト毎時。大熊町。2019 秋。

こんなに線量が下がっている事実もあるのに風化してしまった。伝えられていないと感じる。いまも汚染イメージがこびりつき、一部の表現的な様子は嫌がらせ(「放射能ハラスメント」と名付ける)のようにさえ感じられ、傷つきもする。前代未聞の復興を何でも批判ばかりするのは簡単だ。

ぜひ、自ら復興に参加してほしい。

どうあれば福島は幸せになれるかを探しにいこう。悲しみは悲しみだが、数々の伝統的な産業や文化、それから、新しい大熊町イチゴや広野町バナナでも分かるように、ゆっくりと、そっと、花が芽吹きだしてもいる。ぜひ食べに来て、せつなくて美しい地域の風景を見てもらえれば幸い。

いま、赤ん坊のような新生福島が、そこにある。

2019年12月末、福島の青い空を眺め、志を立てる。

優しい手紙を飛ばそう。吉田邦吉

忘れかけていたことを思い出す。なんでも過激かどうかという基準に照らし合わせれば、意見を言うことだって波風は立つものだ。怒りや悲しみにくれ、焦っているときだって人は多々あり得る。

しかし表現の世界が過激で埋め尽くされては当事者の尊厳がないがしろにされてしまい本末転倒である。ライク数シェア数が数百数千であっても現実社会ではむしろ逆を促している「勘違い表現」のなんと多いことか。

当事者性の傲慢はいけないことだが、当事者性を踏みにじることもまた、いけないことだろうと思われる。そのようなことが見えてくる場合には、物書きたるもの率先して反動的な意見を言い、穏健中道を保たねばならない。

わたしは変わってなくても、世の中がすうっと両端に沿っていくとき、わたしは真ん中に取り残されるかもしれない。が、群れることを前提としたイデオロギー的な、両極端にこうあるべきという意見は歴史的にだいたい間違えてきた。

だから、それを指摘したことぐらいで孤立することなど決して恐れてはいけない。過激は過激である。何気ない暮らしの有難みを忘れてはいけない。それは他人にもある。そこを踏みにじった表現を是としてはいけない。

人様世間様に感謝して、できるだけ穏当にゆこう。平和を守るために激しく争ってはならない。本当の意味で人様がひとり、いつかまたひとりと、そっと耳を傾けてくれるような、優しい話をし続けたり、聞いたりすることが大切だ。

測定とは何だったのか。吉田邦吉

(はじめに断っておくが、わたしは放射線の測定に関する専門分野に関する政府所属の有識者ではないから、言説に責任をとれない。たとえそうであったとしても真実を述べているとは限らないとも思うのだが、いずれにせよ、この文章は、福島の数々の事象や公私専門家の話をほんの少しは読んできた一般人が考えて書いているという事例の表示である。つまり、環境省の引用など以外は政府機関でない者の思考だということである)

当初から数年間は不安解消に役立ったから全国各地に測定所が出来たのだろう。利用者がどのぐらいいるのかは定かでないし流行っている風にも見えないが、当初の不安な時期を中心に、食品に対して若干の不安を抱えている人達が安心するために使うのであれば問題ないように思われる。

たとえばわたしはガイガーカウンターのほうの話だが、極端に高い場所を探すときだけに用いるようにしている。つまり、普段0.1とか0.5ぐらいのマイクロSV毎時のところを計測して変化を見るのはあまり意味がなく、0.3と3マイクロの区別などを事故当初、探知するのに役立ったということだ。

どちらかと言えば、是が非でも測定したい人達ほど不安になりたいように見えるのは気のせいではないだろう。測定やモニタリングというのは、その数値の意味するところを分かっていないまま、この話題に家族を守りたい動機だけで参加すれば、不安と安心の狭間を揺らされる仕組みかもしれないのである。

たとえば1kgあってはじめて10ベクレルという数字が、誤差がプラスマイナス10の数値を入れたら、どのぐらい低いのか、そもそもゼロかもしれない、ということを理解したくない人達は100gぐらいしか食べない食品にこう思う。「そんなにあるんだ」「拒否」。でも本当は1kgの全てを食べても別に10ベクレルすら満たすかどうか分からない。

しかも最初の基準がないところにおける測定については高いも低いも言えないではないか。何と比べてそう言えるかと言うと、ただ単に「震災前」と比較するからそうなるのであって、逆に言えば、震災前という状況はすなわち安全ということを意味しもしないのだから、危険ということをも意味しない。これは「低線量の意味」において述べたことと話が同じである。

たとえば土壌の放射性物質に関してもすごく線量が下がりえる除染作業とか、半減期といってすごく線量が減っていく時間の流れ、そしてただ一カ所の測定を全部に及ぼすような周知方法という論理的過誤、といったことに気を付けることなければ、計測データとか科学とか事実などという名目で、誤解と偏見を広めることができてしまうだろう。冷静な理解を妨げるような見せ方も考え物だ。

その機器や測定行為や数値への理解の仕方は非常に専門的なことであり、素人がその数値を見ても、「ああ、誤差ばっかりだ。ほとんどゼロかもしれない、超微量ではありえるかもしれないが、つまりNDということかもしれない」と思うのが大体だと予測されるところ、「いや、ごくわずか、超微量だって含まれているかもしれない」という思考はどれだけ不安になっているかがわかる。

まず、その機械を用いるその現場と人の手や道具などは完璧な状況で運営されていることが透明で記録されて第三者など複数人が保証できるか。完璧でなければ、超微量というのは、測れないのである。出たとしても空気から混じってしまったものかもしれない。それに、濃縮して超微量があるかもしれないと言うだけなら、どんなものにも「あり得るあり得ない分からなさ」という超微量の数値とプラスマイナスが言えるのではないか。

つまり、非常に偶然性のなかでほんの目に見えないようなスーパー微量の数値のものが混じってしまったら、その時点でそのほかの食材の部分のすべてに「混じっているかもしれません」という言い方をすることになって、それが果たしてどのぐらい妥当なのか、また、その数値にしても基本のそのキロあたり何ベクレル誤差±という表示にしても、どのぐらいの人達が正確に理解する知識を持っているのか。

なにも知らない、なにも分かっていない、基準や数値の意味などについて、なんの知識もないのに、ただ表示がNDやゼロでないということを一般の人達が思わせられるとしたら、それはもう機械の表示の仕方のほうが全く素人向けではないとか怪しい場所だと言っても良いのかもしれない。そもそも機械はゼロを表示できないのだから。表示できるのはNDだけだ。それなのに無知のままで計測されたら最後、「ごく微量、あり得るかもしれませんが検出できません、NDです」と宣告されるのは魔女狩りにも等しい。

考えて見ればすぐわかることで、全世界の食品をぐちゃぐちゃに破壊して完璧に超微量まで計測することに意味がない。そんな風にしてしまったらどんな全国の地方の食べ物も食べられないからだ。破壊しない方式は個人的には破壊式よりも完全に超微量が計測しきれるとは個人的には思えないし、すべての個体を検査するわけではないだろうが、食べる前のものを検査できるという点で大変優れており、便利だから普及したらよいとは思う。東北大学が開発したそうだ。(参考 『利用技術 食品の汚染検査のための放射能非破壊検査装置』石井慶造 Isotope News 2015年1月号)https://www.jrias.or.jp/books/pdf/201501_RIYOUGIJYUTU_ISHII.pdf

つぎに、環境省のサイトを見てみよう。

【放射能や線量率の測定結果が「不検出(ND)」となっていることがあります。 これは放射性物質が全く存在しないことを意味するのではなく、検出限界未満の濃度であるということを示しています。検出限界値は測定時間や試料の量などによって変化し、一般的には測定時間が長ければ長いほど、試料の量が多ければ多いほど、小さい値になります。検出限界値を低く設定するとわずかな量でも検出することができますが、時間や経費を要することになり検査できる試料数の減少につながります。そのため、測定の目的に応じて分析機関において設定されています。】本資料への収録日:平成31年3月31日 引用(環境省)放射線による健康影響等に関する統一的な基礎資料(平成30年度版、 HTML形式)https://www.env.go.jp/chemi/rhm/h30kisoshiryo/h30kiso-02-04-03.html

以上

つまり、ND表示はゼロを意味しないのである。ゼロ表示があり得ないところで、科学を用いた機械を目の前にして「ゼロじゃないんだ」と思わせられることの意味は、どことなく「無知で計測は不安の押し売り」にも見えるとを少しぐらいは考えてみるような勉強会から先にしたりといったように、まず計測に関する知識をしっかり安定的にレクチャーを受けてから計測に及んでも良いのではないだろうか。

「全世界の全物質中に存在しないことの証明をさせられること」これを「悪魔の証明」というのだが(つまり立証困難なことの比喩で使われる)、その悪魔の証明をしなければ不安だ、恐ろしい、ということを促進してなにか社会活動かのように考えすぎてしまうのは、なにかが違う。

すなわち、無知で素人による機械での測定という行為は、あまりあてにならないのだ。専門家ですらこの辺りはまた多様であるのだ。単に、その場での平均的な数値に比較したとき、異常に高い数値と異常に低い数値が出るとき、それは区別して考えることができるから、あとは専門機関にその高いのを送っても良いかもしれない、という程度のものではないだろうか。

一人の有権者として、たとえば福島のお米についてもう全袋検査をし続ける必要がないとわたしは有権者として思う。ほかの食品についても同様だ。そもそも福島だけいつまでもNDやなにか計測の負担だけして表示させられているのが正しいかのような空気は間違っている。ほかの地域にも微量ならあるのに。福島だけその微量云々をいつまでも言われ続けるのは、福島を追い込んでないか。

【福島県は2日、東京電力福島第1原発事故後に実施している県産米の放射性物質の全量全袋検査について、早ければ2020年に果物や野菜と同じモニタリング(抽出)検査に切り替えると発表した。15年産以降、放射性セシウムの国の基準値(1キロ当たり100ベクレル)を超えるコメは出ておらず、5年連続ゼロの達成をめどに検査体制を見直すことにした。】(福島米 全袋検査、20年に縮小 5年連続基準超えなしで 毎日新聞 2018年3月2日 https://mainichi.jp/articles/20180303/k00/00m/040/103000c

もはや事故当初ではない。測定はつまり、事故当初に極端に高いところを探すには向いていたが、今ごく微量の話をするに一般人には必ずしも適してないということだろうから、適切な使用と理解へのレクチャーのようなものを受けてからなら超微量の計測に意味があるように考えられる。むしろ先に、世界に対して福島や日本全体への誤解や偏見などが根強く残ってしまっていないかを社会には考えて頂きたい。

だれか一人の意見がその地域を代表できるわけがないのだから、多様な「自分の地元」があって良い。それに、社会的にどのような論点に関しても反対などの数字は一定割合で出るものであるし、測定に関しても、人々みんなの努力と苦労によって、なんとか落ち着いてきたと考えるのが穏当なのだろう。なにより、地道に改善すべき流通の件もある。(※参考『こっちさこ!そろそろ福島産を自由にしてはどうか』吉田邦吉 WELTGEIST FUKUSHIMA