吉田 邦吉

吉田 邦吉 について

CHIEF EDITOR ▼Yoshida Kuniyoshi / 1981年1月大熊町生まれの原発避難者。中大法卒、2000年より塾長。2013年4月、赤坂憲雄の活動のもと文の道へ、2014年9月22日に卒業同日、「WELTGEIST FUKUSHIMA」で独立し出版事業を開始。エッセイで致知出版大坪社長特別賞。2017年度にアメリカ横断距離5000kmを歩き、1500kmの時点で20kg痩せ、2017年にアルコール、2018年にパイプを止める。会津民俗学研究会員。書籍編集長。雑誌共同執筆。文化庁支援事業や福島県立博物館や横浜美術館ヨコハマトリエンナーレ(オラファー・エリアソン作品)などで講師やトーク等々。私設図書館「ふくしま本の森」にて活動等。新聞、ラジオ、テレビ、インターネット、多数回のメディア出演を経験する。NHK BS1 スペシャルNHK world premium「福島タイムラプス」(出演)は全日本テレビ番組製作社連盟ATP賞テレビグランプリ優秀賞、ニューヨークでも受賞。2019年から日々20kmのジョギング開始。法学、哲学、民俗学、憲法学、宗教学など、そして20言語の学習も続けている。facebook / website / Amazon/ Twitter/ Instagram▼ Essayist. Private school. Nuclear evacuee 2011-. Independent publisher. Majored in law, Chuo Uni, related to the Middle Temple in London. A special essay prize on a first-class magazine 2015. Lectures and Talks at Fukushima prefectural Museum, Yokohama Municipalcity Museum of Art as Yokohama Toriennale 2017 with works by Olafur Eliasson etc. Like learning languages, Folklore, etc. So many Appearances of Newspapers, Radio, TV, Internet, and NHK BS1 SPECIAL and NHK world premium (Fukushima TImelapse, ATP award TV grand prix, outstanding performance award 2018 in Japan. Also, in New York it received an award). Jog 20 km and study 20 languages everyday since 2019.

分断と穏健の考察 吉田邦吉

このマガジンをお読みの人達には言う必要もないぐらいの2語がある。「風評被害」と「風化防止」である。それらは、「復旧」と「復興」に重ね合わせのような概念でもある。これらについての対立構造をまず考察したい。

なぜなら、風評被害がなくなって前のように通常営業できていることを「復旧」だと言えるだろう。そして、前よりも多様に栄えていけば「復興」だと言えるからだ。たとえあらゆる被害がありっぱなしでも「多様な繁栄」は側面から大回復し得る可能性もあるにはある。※繁栄の定義は今ここで考えない。

ストレートな方向性の図 作 吉田

しかし人は話せば話すほど言葉にミスが出てくる。このミスのなかにはいわゆる失言にも取れてしまうような難しさのあるものもある。これらのほうが数としての主な「風評」に実は入るのではないかと思う。それはむろん「実害」に転化していく。簡単に言うと「風評被害と汚染」は「どちらも実害」である。

しかし、福島が全く忘れられないようにするために、風評を恐れすぎて何のアピールもしないと、今度は福島が忘れられてしまうという危うさもあるのである。関心が高くなれば人が増やすあらゆる言葉や姿勢について発信者と受信者に食い違い(齟齬・そご)が出るのは人間自然だから、避けようがないのだろうか。

ある意味では社会を恨むかのような類の悪意のあるネット政治行動があり続けるうちはそういう人達には忘れられたほうがいっそ良いという意見があるのも頷けることではあるが、今ここでは、社会通念上一般的だと筆者が思える範囲内のことを考察し、そういう対立点があり得るという指摘だけをして理解に留める。

下の図のように、風評被害が上がれば風化防止にもなってはいくのだが、風評被害それ自体が被害でもあるため、今度は「被害が風化しない」つまり「実害が続く」という二次災害に陥ってしまうのである。

この「デッドロック福島」(行き詰まり福島)とも思える状態をどう回避して回復へ向かわせていくかは、むろん、誤解をほどいていく作業であろう。ただしそれは闘争スタイルのもとには無いほうが聞くほうも聞き入れやすいと思う。押し付け安全も押し付け危険も、どちらも宜しくない。

以下は普遍的な図だろう。それほどこの問題は困難な状況でもあるのだろう。なぜ無言になるかと言えば、激しい対立というのは、たとえば、恐ろしい言葉の飛び交うところだ。そこにたれがリスクをもって言葉をなんのために発するのだろう。とりあえず忘れてしまうほうが自己生活の効果が上がって生きやすい。

ここで無理解にも行儀作法を押し付けるつまり英語でトーンポリシングを激しい主張法の人に強要したいのではない。あくまで私は落ち着いて話をしたほうが伝わるときがあるのに長年機会を逃してきたのではないかという話をしているにすぎない。表現の不自由性ではなく表現の柔軟性である。乗るか乗らないか読み手に任せる。

そこに対して「無関心になるといつか自分が被害」云々と言われても何ともどうしたら良いのか判然としない状況に居るひとの人口のほうが大多数ではないだろうか。情報社会だが、情報格差社会でもある。同じネットの場だけではなく、多様な場所で、わかりやすく説いていくことが非常に重要だと思われる。

よって下図のように、最初のエンジンを取り換えてしまえば通常営業へ繋がっていきやすく、人々の意識が回復へ向かいやすいのだろうと思われる。国の抱える問題は少ないほうが国の明るさは増して政治も安定し経済や福祉が増進するため、お金をかけてでも物事は解決していくほうが良い。

ここで私は沖縄に旅をして思ったことと比較して考えてみたい。

沖縄は基地による危険性があったり実害があったりすると思われるが、たほうで、観光や産業の活性化による復旧復興性がおそらく数十年と続いてきたのかもしれないと私は想像した。わずかでも危険という負の印象ではないどころか、人々が憧れる沖縄となった。両立しているのである。

(※ただし福島の場合には食べ物という繊細さがついて回っていることはある。ひとつのブランドを生産者たちが爪に火を灯すようにつくっているとなりで、一次産業ではない人々が「子どもが云々」を叫びながら、生産者の暮らしつまり子どもたちのことは考えてないかのようにもなることは、それは緩やかな、善意による存在の否定だとも思えるから、だから分断が深まる。)

話を戻して、このような両立性を学んで思うに、そこについてお互いに配慮しているのだろうと思われるに至った。お互いのことを(おそらく)対立的に考えていないのである。できる範囲でそれぞれが応援しあっているのではないだろうか。それはきっと、大事な心構えなのかもしれない。

また、福島に関して、国のやってることや科学的権威が信じられなくなったから、常になにかを隠しているのではないかという猜疑心に囚われてしまったという人々も全国に点在しているかもしれない。安全だと言われ続けてきて安全ではなかったからだ。無理もない。権力のことを点検するのも民主主義の役割だ。

それでは、自分で計測して高低を比較して明確な計測器まで信じないで済ませられるか?無理だ(これが高いのは本当でそれが低いのは嘘だと同じ計測器で言えるはずがない)。この8年でいよいよ、そのレベルのことを福島は発表していると言えるのだから福島のことをまず信じることを選ぶことができると私は思う。

そうであればこそ、「同じ疑いという意見の方向性をもつ市民集団」が「権力」の設置したモニタリングポストの維持を求めた、つまり「計測器を信頼した」のであり、自ら計測した放射能測定の「機械によるデータ」に信頼を置いているのだと思える。

一言で言えば、同じく「機械を信頼した」のである。ひとつを信頼したのではない。非常に多くの計測器モニタリングポストや非常に多くの食品検査機器を信頼しまくってきたのである。それは年月の蓄積とともにデータを信頼できるということに繋がる。

(※もし、それでもその機械の数値を信頼できないという場合、つまりガイガーカウンターの数値を信頼できないのだから、福島の汚染という客観的な実害データも存在しないのではないかという方向へ疑うことが必要になってくる。繰り返すが、同じ計測器なのに自分の都合よいほうだけ肯定では矛盾なのである。)

(そういう人は福島でなく自分の暮らす地域名で汚染周知の活動をしなければならないだろう。そうでなければ、正義の自己肯定感だけは自分のもので責任と被害は福島当事者たちに押し付けるということになってしまて不公平で不正義である。ジャーナリズムには良心が必要だと私は本で読んだから希望をもってそう書く。)

話を戻して、それでは、どうして思いやりよりも分断が深まってしまうか、だ。

どうして発信者と受信者の双方において、一部ではショッキングで陳腐なアイキャッチに目を奪われるような、いわば炎上現象が増えてしまうようになったのか。おそらく、じっくり教養を育てることをやめてしまったか、もしくは、共通理解の構築という共有行動への努力を怠って焦るようになってきたからではないだろうか。

SNSでも政治的な意見を続けている人々の発言のなかで段々と夜な夜な「言葉」が「悪態」に代わっていく現象をたびたび目撃するようになった。大衆という、ある種の権力に対して苛立ちが増えるようになってくるのである。なぜ何もせず投票にもいかず自分で苦しくなっていくんだといういらだちであろう。

情報技術が発達して我々の時間は、たとえばメールの送信時間だって飛躍的に速くなった。手紙や封筒を出しにいってという手間の時間がなくなった。そのため、できることが増えたはずなのに、どうしてなのか逆転したような、「時間のない状態」に陥っているのではないだろうか。

すなわち、「速くなった」ら「忙しくなった」のである。ある村が便利になったら人が都会に憧れを強くもつようになって誰もいなくなったということと似ているではないだろうか。教育を人々全員が受けられるようになっているのに教養や情報量には格差が大きいと言われる。人間の方向性というのはときどき逆方向の結果を出す。

たとえば、関心を増やすと民主主義的に解決しやすい方向性だけでなく、今度はデモクラシーの語源にさかのぼる話になる。すなわち、民衆がデマゴギーに振り回されて大混乱に落ちていって解決しないゆえ、民衆は自ら、その解決から主導権から全てを独裁者に与えてしまって、民主主義は自ら終わる時がある、そんなことに似ている。簡単に言えば「みんなで決めよう!いやもう面倒くさい!みんなで決めるのをみんなやーめた!」。

先ほどの話で言えば、激しくなって混乱していきすぎると、見た目のライク数とは違って実際には人が遠のいていき、人々は国政選挙において独裁的な傾向をもつ政党に一票を入れてしまって丸投げするときがあるというような場合だ(むろん独裁的な政党には全く入れなくなるという逆の現象もあり得るが)。

そういうことを念頭におけば人は簡単お手軽になにかライク数やRT数などだけで満足ということには繋がりにくいのではないかとも思えるのだ。巨大な数値というのは反感も大なるものである。しかし人間の脳というのはみずからが社会から認められているという肯定感を好むのでそうは問屋が卸さないだろうと思われるが。

おもいやる多様な歩き方

(※同じ方向性ではなくてあらゆる方向性からなるべくぶつからないような共存共栄状態での復旧復興はあり得るだろうということを言いたい。そんなに対立と衝突が価値あるショウビズになり続けると個人的にはあまり思えない。人間関係や人の時間的な資源などを消費しつくしてしまいタブー化して閉ざされていくからだ。開かれる穏健なほうが好ましいと思われる。)

以上すべてをもう一度さておいて、結局「現実は現実だよ」(分断は止まらないだろう)という意見もよくわかる。今の世界を視てみれば、たしかに、頭脳明晰で力ある人達でさえも解決へは至難の業なのだなと思うほかない状況だ。だがだからと言って諦めても仕方がないので正面突破の方向を考えるだけは考えておいた次第の草案でした。お読みいただきありがとうございます。

こっちさこ!そろそろ福島産を自由にしてはどうか。吉田邦吉

私は若松だけでなく平にも居る時がある。
11日は、月命日だ。福島を思う。

福島県沖でとれる海産物の状況について知識がない業者が多そうなことは非常に問題だと、この記事「福島県海産物を避ける人 流通業者が多く見積もりの可能性」(NHK 20190510)を読んで、私は思った。簡単に言えば、消費者のもとに届く前に業者のほうが心配してしまっているから流通に壁があるのかもしれない、ということだ。

以下の2つの引用から明らかなことは、業者は業務で多忙だから、検査について学習する時間がとれていないのではないか、ということである。時は金なりを知らないビジネスマンなど居ないから、当たり前の結果かもしれない。

『福島県内のほか東京・大阪・名古屋・仙台の水産関係の流通業者871社にアンケートを行い、全体の20%にあたる178社から回答を得ました。』(引用 同記事)つまり、80%が答えなかった。これはどういうことなのだろう。残念。ここにこそ力を入れる必要がありそうだ。

『福島県が海産物の放射性物質の検査を行っていることを知っているか尋ねたところ、県内の会社の93%が「知っている」と回答した一方、県外の会社では「知っている」が28%、「聞いたことはあるが詳しくは知らない」が44%、「知らない」が21%でした。』(引用 同記事)つまり、なんと20%の業者のうち半数以上は検査の詳細をあまり知らないのである。答えなかった業者80%はどうだったのだろう。

また、それなりの数の業者は『放射性物質の影響を懸念している』ともある。ということは、もしも懸念しているのであれば、検査の状況をスタディツアーできて同時に意見集約も図れるような仕組みを行政が作れるという意味で、双方は未来に向けた仕事が出来る余地があるのだろう。

私は前から提案しているが、不安な人ほど行政が主催するような検査に関するスタディツアーに参加すべきであるということだ。検査機械や現実について学び、他国と比較し、それでもまだ不安だから取引しないまたは食べないことにしたという選択をだれも責めない。水も空気も、繋がっているのだが。

重要なのは「懸念があるから、迷っている」という人達(Xグループと名付ける)なのであり、「懸念があるから、将来も絶対に食べることはない」という人達(Zグループとする)ではない、つまり食べないという選択を最初から決定していて変える気が一切ないというZグループは一定数いるはずである。

最初から決定しているZグループの人達は、そういう種類の福島的活動の一切にも関わることが余り見込めない。ない上に、もしも福島について福島の人達が嫌がることだけはしたいというのがあれば、それは傲慢だと私は思う。できるだけ福島の人達が嬉しいことや関りを持ちながら、福島の人達と一緒に悩んで考えていくことが大切だ。

むろん、食べないという選択をした人たちや間違えた情報を流しただけの人達を意図的に吊し上げることも問題だ。であればこそ、食べないという選択をした人たちは自分たちも穏健な手法でそういう種類の活動はおこなうべきである。社会では意見が多様だ。その共存には、お互いの配慮が必要なのである。そうしないと互いに乖離したり険悪になったりする。

わたしは測定をすること自体、とくだん何も思わない。福島県農家はいつも測定に苦労している。問題は測定行為の後に多いのだ。生産者でない一般の人がした測定をこれみよがしに過剰誇大に広告して人々へ見せびらかすだけ見せびらかしてそれのみが福島の真実だと騙り、よって福島を苦しめ、なおかつ、福島の人々の一所懸命さを観ようともしない無視イジメを続ける、そういう傲慢さが嫌いなのである。

逆に、安全を押し付けるような傾向の人達にも、実はあまり共感していない。ましてや脱原発の動きと意図的に衝突するような人達をこの話題の中心にすべきではない。その衝突が福島の内外を多重錯綜して苦しめ、分断を作り出していることは言うに及ばない。話がややこしくなってしまう。エネルギー政策について福島県では脱原発に決定済みであり、とにかく、分別をつけるべきだ。福島に関する産品の状況と原発政策の是非は、話を分けるべきである。脱原発なら食べないとか逆も然りのレッテル貼りポジショントークな傾向にしてはならない。

話を戻すが、「知らなくて懸念があるから、迷っている」というXグループの人達との交流をどれだけ持てるかのほうが重要である。世界というのは70億人もいて非常に広いのであって、そもそもビジネスというのは、自由意思のもと、選択する・される、という関係性があるから良いのである。つまり無理強いなど誰もしていないというか不可能だ。

そろそろだろう。もう、いい加減、そろそろ、福島を自由にしてはどうか。会津に居て、10年という時間は、非常に短いものだというのはよくわかる。戊辰戦争は150年前だからだ。いずれにせよ、外野の無責任者がなんと言おうと、福島県民たちは生きていっている。他方、子育て中だから子どもにどうしたらとか女性だからなどの関係で、不安でたまらない人達の不安をあざ笑うようなことも嫌いだ。そういうことを少しは思いやれる人だけに発言して頂きたい。

この随筆たったの1本を書いて、ウェブマガジンに出すかどうかすら、正直、今は迷う。放射線は危険なものであるという大前提から私は抜けるつもりは無い。と同時に、人災として新たに発生した放射線と、至る所に天然にある放射線と、どちらも同じく放射線だというのも、理解できる。つまりは、いつでも被ばく自体は結構しているということなのだろう。

そこから、人災につき政府東電が責任を持つべきだという意見も変わっていない。そのうえで、私たちは経済的な生産活動をおこなうにあたって、無理のない限りで穏健なことをしていきたいということだ。

最近、古語を学んで思うことがある。来なさい、という言葉の古い言い方は「来(こ)」であるそうだ。私の町では、「こっちさ来(こ)!」とは、非常によく使う。「さ」は方角だったかと思う。もっと粘り強く言いたいときは「こっちさこおよ!」である(※「来よ」という古い言い方もある)。

福島に無理して来いとは言わないが、ネットだけで判断せず、福島に来るイコール思いやりの輪の中に入ると言っても過言でない。だからその意味で、「こっちさこ!」と、ずっと受け継がれてきた古(いにしへ)の声で私は誘(いざな)い続けたい。

20170711 いわきの海 撮影 筆者

いつか幽霊に成るとき with Right to be forgotten 吉田邦吉

いつか自分が死んだ場合に備えて、SNSのアカウントをどう扱っておけばよいのか。

ネットで自分が出してきたSNSの情報というものは、自分で消すか非公開にするか、誰かが代わりにそれをおこなってくれるか等しない限り、消えることなく、何年も残ってしまう可能性がある。

(※コンピュータという機械の仕組み上、おそらく絶対に消えないのは間違いないと思うが、自己の支配下に置けるプライバシーなどの情報として、一般的にアクセス可能な状況の如何、という意味あいである)

とにかく、死後ということを考えさせられる。

いつか自分も、終わりを迎えるにあたり、自分という人間の生それ自身の全体性と連続性という現実は、途絶える。別の方向で地球内部に存続するとも言えるが。

それでも、自分が世の中に出してきた「言葉」とか「ネット上におけるイメージ」などと言った仮想空間における情報は、基本的には消えることがない。

つまり、現実が終わっても、仮想現実で自分のイメージが生き続けていくということになる。喜ばしいと思う人も居るだろうが、逆に言い換えれば、安らかに眠れないと考える人もあり得る。

かつて記録者や表現者でない人たちの無数の死は、その日常的な情報もほとんど消えていくことを意味していただろう。しかしSNS普及に伴い、かなり多くの人達が自覚なく、表現者などに近い段階でこの問題に接近してきたのである。メリットも多いが、今この話題にテーマを絞る。

死は2元化された。現実の死と仮想現実の死である。現実の死を迎えても、仮想現実の死を迎えるかどうかは、選べるのである。死なないこともできるようになった。物質としての死と、情報としての半永続性だ。

もしSNSというものが終焉を迎えて居なければ、そのうち、10代前のご先祖様のSNS情報が30年分あり、なおかつ公開されたままであるなどといったことも起きえるのかもしれない。後の世代の家族はその公開非公開を選ぶ権利などは、どう相続されるのだろうか。

いずれにせよ自分で選んでおかねば、死に際し、おそらく家族などの誰かが内容から判断して一定期間などを経て、判断するのだろう。家族が目をそむけたくなるような内容は消されるかもしれない。いわゆる生前におけるネット終活という行為の、死後版である。

前に知人が亡くなったとき、fbフレンドたちがお悔やみの言葉を書き連ねていて、SNS葬儀が行われたといった様相だった。SNSで出会い、SNSのイメージのまま、SNSで終わりも迎える。

また別の知人の知人のアカウントは、亡くなって数年が経っても命日として思い出されていた。そのアカウントがあるのかないのかは、確認していない。いずれにせよ命日的な考えや「追悼アカウント(memorialized accounts)」という考え方もあるにはある。

リスクについてはいろいろと考えられると思うが「人工知能(AI)の登場で、サイトを放置するリスクが利用者にとっても運営側にとっても高まっている」「たとえば、亡くなった親のブログの内容から、そこで今も暮らしている娘の住所を瞬時に割り出したりとか。」(引用 参考3より)

さも「仮想生前葬」というものを新たにこしらえでもするかのように、SNSやネットにおける自分に関する情報を、ネット終活つまり整理整頓するのを、一体いつにするのか、という課題も挙げられる。むろん「死」という深刻な状況でなくとも、仮想現実における引退という意味で「仮想引退」も可能だろう。仮想世界からの引退宣言もあり得る。

ネットという場所にてブラウジングしている日々に思うのは、ネットという場所を人々はどう考え、思い、用いているのか、また、ネットという場所における他者をどう考え、そして、ネットユーザーからすればもうひとつの他者である「ネットの死者(または情報のみ永続=幽霊の如く)に自分が成る又は成ることを拒否して旅立とうとするとき」、という最後の段階をどう越えていくのか、それぞれに問われているということだ。

最後になるが、「容易に自分にはどうにもできない状況で傷口に塩を塗られるようなことが多い」と言えば、福島のことだろう。福島を落とすだけのジャーナリズムまたは評論家気取りは嫌いだ。怒りも悲しみも含め、なるべく暖かい話の仕方や表現を期待したい。現場に居ないのに何でも知った気にならないでほしい。何もかもダメだなどとこちらは思ってない。

自分事として考えるというのは、福島だけの問題でないと言いながら同時に当事者性の暴力をばらまくことではない。良かれと思って間違いつつも試みとして、今回の話題のようなレベルで福島を考えようとしてくれる、ということである。半減期で下がってきた線量を全く認めたくない気持ちもあろうが、他者に残酷を強いては成らない。福島にもあなたの家族と同じ命が、生きているのだから。

To be or not to be.
After the end, that is the question.
生きるべきか、死ぬべきか。
終わりの後も、問題だ。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 11-1024x686.jpg です


会津城の彼岸花 20170923 撮影:吉田邦吉

参考

1、『死んだら、私のFacebookってどうなるの?「追悼アカウント」があるらしい』ハフィントンポスト(南麻理江氏)20170821

2、08/21/2017 困難な問題(Hard Questions):オンライン上のアイデンティティは人の死後どうあるべきか Facebook  (English)

3、あなたが死んだらブログやSNSはどうなる? 「故人サイト」の専門家に聞いてみた。 古田雄介さんは語る「ネットは生者のためのシステム」 ハフィントンポスト(安藤健二氏)201803133

4、「忘れられる権利」コトバンク

サンチャイルドが面白い。吉田邦吉(ヤノベケンジさん作)

Some people say (General people in Fukushima got a statue which is called Sunchild made by Yanobe Kenji in order to make the peaceful world with new reneuable energy systems, but some people who like nuclear power plant are against its statue put in Fukushima however almost them are on Twitter and anonymous, being not a certain reason that they are real people in Fukushima. That’s why, nobody knows how many there are opponents in real. There seems many people in not Fukushima at least on Twitter.) You see this Guardian article. It might be not all facts. Anyway, I never agree with what Nazi government banned some art works as degenerate art in those days. Now a similar issue there is in Fukushima. People should think what is the difference between critic and ban by majority. Sunchild got Fukushima’s formal procedures. Hence, it needs the same formal ones just in case some people want to put it a different place. Since first procedures are already justified with its ideas.

福島では暑さが少し落ち着いて湿気のある最近。
親子連れがサンチャイルドと写真を撮影している。

【時系列の概要】
1、長いことヤノベケンジさんは放射能の関係で芸術活動をしてきた。
2、ある希望をもった作品サンチャイルドを創作した。岡本太郎さんの太陽の塔なども彷彿とさせる。
3、福島県の人達と福島市の市長が寄贈先の応募に申し込み、福島駅付近に設置した。
4、かなり時間が経ってから一定の批判が出る。多数の匿名からRTを受ける。
5、それなりの数で反論も出る。
6、紙面の都合上、賛成意見中心で、これをまとめる。

【説明】
福島市がJR福島駅付近に設置した6.2mのサンチャイルドという像に対して、原発事故の風評被害を増幅するとか科学的にあり得ないなどと批判をする人たちがいるそうだ。製作者のヤノベケンジさんが謝罪文を出したとのこと。防護服姿で脱いだヘルメットを手にし、空間放射線量の線量計を模した胸のカウンターには「000」と表示されている。「原子力災害がない世界」を象徴し、復興へ立ち上がる人々に夢と希望を発信する意図がある。

福島市長は真摯に耳を傾け、毅然としていらっしゃる。すばらしいことだ。今回のことは、一部の人達がネットで悪ふざけしているだけのことだろう(彼らの言葉遣いについて、そういうことへのマナー感覚というのが、まだないのだ。いわゆるネチケット教養という、リテラシーのこと、むろん全員ではないが)。話題の福島だから、いろいろある。でも、被災した傷を忘れず、希望も持っているサンチャイルドと市長そして福島市民である子どもたちが笑っているのだから、それが、何よりの証拠だ。市長のTwitterこちら。
https://twitter.com/hatabohk/status/1025526254697476096

ふくしま自然エネルギー基金代表理事の佐藤弥右衛門さんたちは県庁所在地の福島市に長年ご尽力なされてきた。やはり、これだけの大変な原発事故があって、風化防止や復旧復興の観点から、モニュメントがあって良いと私も思う。あれから7年半の現在、まだまだ課題の尽きぬ福島3.11の件での当事者性は限りなく深くて広い、人類概念より深くて国民概念よりも広いものだろう。そんなおり私もよく行く福島市がこうして現代アートのひきこもごもを希望してくれたという先進性には同じ県民としてたいへん誇らしい。

このたび福島市にヤノベケンジさんのサンチャイルドが寄贈されました。

ほとんどの昨今の人たちが直接に観たことはないであろうヤノベケンジさんの昔の一時のことについての批判がいまだにあることにつき、このツイートを見ていただきたい。

福島大学の新井教授よりFB投稿。

以上、よくわかるものだった。

河北新報の記事について、菊池氏の意見については、なんと言ってよいものか考えてしまう(河北新報の記事)。子ども用の、しかもいろんな考えを包含して、それでも生きていくという希望の意図がある現代アートについて、「科学的でない」とか「風評被害」とか……、ガンダムやウルトラマンにも同じことを言いそうだ。

子どもたちが一緒に笑って写真に納まる現代アートに「風評被害」とか「非科学的」なんて言われても、神経質になっている気がする。自分が気に入らないだけの理由で否定的なことを言うのは批判とは言わない。悪口とか不満と言う。ただ、現代アートに否定的なことを言うのも自由だ。どこに何を置くか常に現実の選挙で決めるのも自由だ。

しかし自由に批判して良いような公共のアートが、表現そのものの自由を規制されすぎる、つまり、撤去されるような、政治的に強い検閲を受けるように、もしなったら、今度は、公道のデモ行為が規制を受けるだろう。美醜とか、秩序とか、理由はいくらでもある。それから公共の出版物が表現に規制を受けるようになるだろう。最後は気に入らないという理由で人種や個人に及ぶ。そういうことを恣意的と言い、歴史が証明している。

みんな忘れている。FacebookやTwitterみたいに通報ボタンかんたん一発の多数決で、投稿から存在から、表現の自由すべてが奪われるかもしれない場所の、不公平な恐ろしさを。それと同じ構造として、おおやけの現実社会でまで表現の自由をかんたんに奪うような、つまり撤去の全てを否定しないが、それを簡単にしてはならない。批判すること自体はそれも表現の自由なのである。

今は、子どものオブジェがある。子どもたちは笑顔である。もし別の物で言えば、廃仏とか神社や教会の撤去とか、正式な手続きを経たのに、少数の大人が悪口を投げているから簡単に撤去などと、そんなことをされても良いのだろうか。正式な手続きを経た物事は、そういうことにならないことを意味する。丁寧な話し合いができる大人の人達とだけ話し合う用意が私にはある。

それに、サンチャイルドをイデオロギーと決めつけるのは間違っている。少なくとも行政と東電は県内で原発について福一も福二も、とっくに脱原発を決定している。地域で再生エネルギーは既に始まっている。そもそも3.11後の原発の是非は特にイデオロギーではない。政治的に常時一方通行でベキ論が固いだけのイデオロギーなどでもない。

数年前に起きた「音楽に政治を持ち込むな事件」のときは相当にその台詞への反感リアクションが盛り上がったものだったが、アートに政治を持ち込むなへの反感はまだまだ少ない。しまいには福島に政治を持ち込むなという無理を言うだろう、「代理戦争をやめろ」と言う形で言われるだろう。政治とは人々が暮らすところに起きる利害調整のことを言うのであるから、あらゆる人間の発言は政治的発言となる。

さらに、ごく一部で流行している圧力的な政治行動がある。「ある人達の政治的な行為が一部の人達のみから悪い評価を受けたこと」と、「何もし得ない像であるサンチャイルド」、これらをいっしょくたに混同させた印象操作をして、だからサンチャイルドは要らないというのも、おかしい。そんなことよりフクイチいらない。汚染バック要らない。デザインや風景論としても悪いし放射能は危険物質だから政府東電に言わねばならないと思い出す。

ましてや誰が賛成したかなどで反対を唱えるなど敵味方そして人間を排除する論理に他ならない。たとえそれが一種の批判とはなり得たとしても撤去要因まではいかないので、展示されたままで良いことになる。行政に寄贈されたものが私的な利権ということにもなり得ない。そもそも権利を手放すのが寄贈という日本語である。だれでもサンチャイルド像で常識的なイベントを企画できるパブリックなアート。社会通念から考えても、サンチャイルドは県内外で好評であり、デザインに撤去までの特殊事情は見当たらない。

また、そこまで放射能を気にかけるならフクイチのデブリや目の前にある汚染物質のリアルのほうが、ずっと気になる。この列島に防護服だろうと宇宙服だろうと街中にいろんな姿があって良い。それらを着て仕事をしている人達がいる。安易な軍国主義の礼賛などではない。股間部分に関しても、放射線と遺伝子の論点を思い出すし、性器や血管や臓器など人間の器官を保護することを連想させ、宇宙でのことだろうと地球上のことだろうと、重要な示唆も受けられる。

イデオロギーを言うならアートのゼロ表記ぐらいで風評被害ベキ論を強く押しすぎて表現の自由を後から他県の人達がTwitterで多数の匿名に扇動して新聞にそれを県民から批判などと書かせ結局は撤去要請までいき検閲と同じことをして表現を奪うほうがイデオロギーである。数値を見るならモニタリングポストもあるしテレビやラジオでは天気予報もある。

しっかりとした判断力をもって、精緻な解析力を醸成していきたい。この場合は、法的というよりは分別的な言い方で、事理弁識能力と言っても良いのかもしれない。ただの悪口、ただの敵味方、ただの呪い、そういう考え方でなく、それが自分に、どのぐらい受け入れ可能な言説・表現かだ。キビタンにだって不満な人達も賛成な人達も山といるだろう。

いつでも認められるときは相手の意見を認めて仲良くできる用意のある者しか、議論に参加できないと私は思う。むろん、公共の場所にこの手のものを置くのが嫌いだという意見はそれはそれとして成立するだろう。しかしそれは公共の場所にその手のものを置かないのが嫌いだという意見と同じである。

ヴェルト編集者のひとり伊藤さんはサンチャイルドの機能を考え、こう述べる。そもそも自分にとって新しいものについて急に好き嫌いなどが発生するような人達はどれだけいるのだろうかということ、同時に、大人としての判断、そういうことも考えさせられる良い投稿だと思う。

8/25あたり土日サンチャイルド大喜利が密かに良い感じ。

8月22日、写真家の中筋純さんがサンチャイルドに関して写真と文を投稿した。こころに来る内容にほっと癒された。こういう風に大人の経験豊かな人達からの感想ご意見をどんどん知りたい。中筋さんの眼力きわまる撮影に感謝。

ちなみにヤノベケンジさんが謝罪文を出していることについて、良いことだとわたしは思っている。すでに周知期間も過ぎ、実行の段階とはいえ、もし万が一、福島原発事故の被災当事者を傷つけてしまったら申し訳ないことだとヤノベさんは思っていることを表明したということであり、そのことにもわたしは賛同したい。通常の謝罪文とは意味がちがう。

市長から真摯なコメントがさらに出ている。
市長のTwitterで子どもたちの笑顔がなによりである。
http://www.city.fukushima.fukushima.jp/hisyoka-hisyo/shise/goannai/shichonoheya/mayor20180813.html

福島でのイベントも重ねてこられたようだ。

赤坂さんの随筆が発行された。あらゆる論点が短い論考のなかに凝縮されていて、なおかつ、思いやりのある、優しい文になっている。この記事に対してオリエンタリズムという批判が見受けられたが、私としては、ルサンチマンにはなりたくないと思った。早速、たまたま話した、福島県にお住まいの人たちに私は感想を聞いてみた。余談だが、赤坂さんは福島県の血をひくかたである。

福島県にお住まい、農家の60代男性に伺いました。
「難しい記事だな。二度読んだけど。ゼロ……日々、暑い中、農作業なんかしてると、ゼロ……、原子力の事故はないほうが良いから、うん、そうだな。そのほうが、良いと思う。」

福島県にお住まい、研究者の70代男性に伺いました。
「いろんなジレンマがあるでしょう。過去に、汚染で被災した地域では計測なんて一般の人達はしてなかったと思います。わずかの放射能を気にするのも気にしないのもある。しかし数値にこだわることで人に対して神経質になりすぎないのが良いでしょう。いろんな考えがあると思います」

当該記事URL 日曜論壇 福島民報新聞 2018年8月26日
http://www.minpo.jp/news/detail/2018082654732

ふくしま30年プロジェクトがリツイートしている。

7月初旬には記者会見もしている。

本当に、「関りづらい福島」ということにはなってほしくない。「ひらかれた話のできる福島」であってほしい。そこで当事者性の論点は、ただいろいろなことが多様で重層にグラデーションになっていて、それを良いとも悪いとも言える。要は用い方次第のものごとなのである。

絵になるとまた違う雰囲気になる。

小林さんの感想が出た。いつも本当に優しい。

実にそう思う。今回の件は、グルメのサイトなどで、人様のお店のページにまでいって平気で星一つをつけ、悪口まで書き残すような行為に似ている。私はそういうのを見ると、正直、昨今のインターネットの悪質さに悲しくなって気絶しそうになる。

ご本人

福島県の二本松市には、フローラという像が来たことあるらしい。

サンチャイルドとフローラ。
福島に来てくれたこと有難し。

市では、像の近くでアンケート調査を行って対応することとした。(時事通信

・同月18日の追記
福島民友新聞の社説(8月18日)「サン・チャイルド/賛否を福島の未来への糧に」にて、こうある。「賛否両論があっていい。ただ、想像の産物である芸術作品に対して、科学的根拠を求めるのは意味がなく、撤去を迫るのは妥当ではないだろう。」 河北新報の記事に対する私の反論と同じのようだ。多様な考えを学べるチャンスでもある。それを民友はタイトルで「賛否を未来への糧に」と書いた。市長は「真実」を探求するとある。

ほか、東京新聞もサンチャイルドを取り上げている。

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これも雰囲気ある。

「作品の意図に共感するので、撤去しないでほしい」という意見もあり、小学5年生の男の子は「福島と原発は切り離せない問題で、像は明るい表情なのであっていいと思う」と話し、福島市に住む別の子育て中の女性は「賛否両論があるのは知っていますが、福島に住む人としてはあまり騒ぐ必要はないと感じています」と話し、たとのことだ。参照 防護服子ども像にアンケート調査 2018年08月18日 福島NEWS WEB NHK

福島市が設置した防護服姿の子どもの立像に「東京電力福島第1原発事故の風評被害を増幅する」などと批判が相次いでいる問題で、木幡浩市長は22日の記者会見で「像を見て福島が危ない地域と思う人はいないと思うし、子どもが立ち上がっている姿だと思うのが一般的な受け止めだと思う」と反論した。防護服像問題で福島市長反論「危ないと思う人いない」2018/8/22 ©一般社団法人共同通信社 同様 福島民報新聞 20180822

「原発事故のあとアートで福島の復興に貢献したいと制作されました。「子どもが想像力を膨らませて、希望ある未来を感じて欲しい」とヤノベさん。芸術を間近で感じることは、とても刺激になりますね。」2018年07月06日 (金)芸術を 間近で感じる 至福の時 @吾妻謙 はまなかあいづtoday NHK福島

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と、……ここまで読んでいたところ、この写真を見つけてわたしは大爆笑した。「な、なんだこれは!ネコがいる!」。この黒ネコは二本松に居るらしい。でかい。なにでできているのか。

出典:https://blogs.yahoo.co.jp/takecyann2_40/69584883.html

出典:https://blogs.yahoo.co.jp/takecyann2_40/69584883.html

白ねこ版もあるらしい(笑)

http://yanobe.hatenablog.com/entry/2017/06/18/074128

こんなのもあるらしい。明かりが、きれい。どんどん変化している。

どうやら、ship’s catというらしい。「船の猫」。なぜシップスキャットができたかはご自身で探索をしてみるのも一興だ。このイラストがあることでまとまりが出てきた。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/y/yanobe/20170615/20170615085322.jpg

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/y/yanobe/20170615/20170615085322.jpg

シップスキャットがパリの展覧会に出た。
https://www.fashionsnap.com/article/2018-06-20/shipscat-yanobe-horiki/

いろいろ揃ってくると、これまた違う世界が見えてくるような気がして、面白い。ヤノベケンジさんの考えている、いわば、なんだろう。ボーダレスな「宇宙双六」とでも言えそうな作品が面白そうだ。やはり、くちゃくちゃした大人の屁理屈なんぞよりは、無邪気なこころが観て「わー!」とか「なにこれ!」というのが、いかにも楽しそうである。

わたし個人の意見を最後につけさせてもらえれば、わたしはいつも、「このまま世界最大の原発事故レベル7の被害ばかりを抱えて、それでも生きている、生きていくことを、だれにも伝えられず、共有もむずかしく、いったいどうしたら、道ゆく人々と、何かを共にできるだろう」と思っていた。あれは、目に見えないのである。

巨像の、ちょっとした驚きによって、だれかとサンチャイルド談義が出来る、それだけでも共有は始まっている。そこではむろん、賛否両論ひきこもごもがあって良いのであり、それを引き出すことこそが、現代アートの役割の一つだろうと私は考える。潜在化させると物事はろくなことがない。明るい社会へ。サンチャイルドへの愛称も募集してるそうで楽しみだ。

3・11ということを忘れないという風化対策も重要だ。忘れて良い個々人の気持ちやトラウマがある。いっぽうで忘れるべきではないこと受け継がれるべき大事なこと、老若男女にとって、様々にある。そこをうまく次世代へ、リレーしていくことが福島の、道義的な責務である。原発の存在こそトラウマだ。

われわれ人類の傷と希望と、両方を体現してくれる共通のアートが、3・11後、ちょっとぐらいあっても良い。ましてやサンチャイルドは社会通念上、穏健だと私は思う。共通のアートは、他にもずっとたくさんあってしかるべきだ。いっそのこと、アートやネコが街にあふれかえるぐらいに!

現代美術は、交流の機会、コミュニケーションのスイッチになる。これがかなりの重要な、それでいて、美術の枠にとどまらない普遍的な役割を果たしてくれることが、やさしい文体で、よくわかった。

ヴェルトガイストフクシマfbページ

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追記18日

そうだったのか。歴史を持って未来へ向けた平和と創造のアートなのである。ふんわりとした雰囲気が、でてきた。

なるほど。これはすごい。芸術品だ。

ウルトラ・サン・チャイルドかっこいい!

さらなる無限大の展開も期待したい。

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8月28日の昼、サンチャイルドを現在の場所から撤去する方針であるというNHKニュースが流れた。以下である。防護服着た現代アート像 撤去へ 福島NHKNEWSWEB 20180828 12:48

原発事故からの復興への願いを込めて設置された防護服を着た子どもの現代アート像について、福島市は制作した現代美術家のヤノベケンジさんの意見なども聞いて検討した結果、撤去する方針を決めました。28日午後にも記者会見を開き、発表することにしています。現代アート像、「サン・チャイルド」は、防護服を着た子どもがヘルメットを外して立ち、遠くを見つめてほほえんでいる高さ6.2メートルの作品で、平成23年に現代美術家のヤノベケンジさんが、震災と原発事故で深刻な被害を受けた福島の復興への願いを込めて制作しました。制作後、日本の各地で展示されたサン・チャイルドは福島市に寄贈され、先月28日から子育て支援施設「こむこむ館」前に設置されました。しかし、像の設置後、「原発事故のあと、福島市では防護服が必要だったと誤解を招く」などの撤去を求める批判的な意見が市に寄せられていました。福島市はヤノベケンジさんの意見や、今月17日から実施したアンケートでの市民の意見を検討した結果、現在の設置場所から撤去する方針を決めました。福島市は木幡市長が28日午後、記者会見を開き、発表することにしています。ヤノベケンジさんはNHKの取材に対して、「不快に思われた福島市民のみなさま、応援してくださった市民のみなさまに、改めておわびを申しあげます。大変残念ではありますが、こむこむ館前に置き続けることで苦しむ市民の方々がおられるならば、展示を取りやめた方がよいという結論に至りました。また、これ以上、市内外の人々を巻き込み、対立が生まれることは避けたいと思いました。展示する場所、時期、方法によって受け取られ方は変わりますので、細心の注意を払うべきでした。今回のことを真摯(しんし)に受け止め、できる限り多くの市民の皆様と対話させていただき、一から精進してまいりたいと思います」というコメントを出しました。以上

夜にはウェブが出た。街の声があった。交流できた機会だったかもしれないと思うと、寂しさがのこる。福島 NEWS WEB 防護服着た現代アート像 撤去へ 08月28日 20時02分。引用はじめ この問題について福島市は市民に意見を募り、今月17日から27日までに意見を寄せた110人のうち、移設を含めて撤去をするべきだと答えたのは75人とおよそ70%を占めたということです。

【撤去で街の声は】
現代アート像、サン・チャイルドが撤去されることについて、福島市の女子大学生は「SNSで写真を投稿する友達がいてよく目にしていました。像の設置について賛否の意見が寄せられていることをニュースで知り、設置に関してそこまで神経質にならなくてもいいのではないかと感じています」と話していました。
また、郡山市の子育て中の40代の男性は「この像があることで風評被害が出るのであればいやだと感じます。しかし、設置するにもたくさんお金がかかったと思うので、この短期間での撤去はもったいないとも思います。すぐに撤去という結論には何とも言えません。複雑です」と話していました。以上

フクシマ発(現代書館)での私の意見と近い。

Twitterが荒れている件について精神科医の堀有伸さんがコメント。

美術手帳から記事が出た。

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また、震災以前よりヤノベケンジと関わりのある福島県立美術館の学芸課長・荒木康子はこう話す。「(いち市民として)作品に対してどういう感想を持ってもいいとは思います。美術とはそういうものではないでしょうか。ただ、設置にも撤去にも、時間がもう少し必要だった。美術だけに限りませんが、意見の対立で終わってしまうのはあまりにも悲しい。そうではなく、(時間はかかるかもしれませんが)相互理解を深めることが必要ではないでしょうか」。

……(写真挟み)……「福島県立美術館の常設展で展示されている10分の1スケールの《サン・チャイルド》。同作に対して批判が寄せられたことはないという」とのこと。なお、市によると作品の撤去時期については未定。撤去後の取り扱いについては「いずれかの施設で保管することになると思う」としながらも、具体的な予定は立っていないという。今後、作品を撤去するだけでなく、作家や行政、そして市民との対話の機会が設けられるのか。経緯を注視したい。編集部---以上 福島に設置のヤノベケンジ《サン・チャイルド》が撤去へ。時期と収蔵先などは未定 20180830

震災以前からヤノベさんの活動を知る福島市在住の詩人、和合亮一さん(50)は「関係者に悪意はない。撤去決定でも傷ついた人がいると思うと残念だ」と話した。【宮崎稔樹、岸慶太、柿沼秀行】防護服子ども立像撤去、市長が表明 批判が相次ぎ 毎日新聞2018年8月28日

また「震災や被災者をテーマにすると面倒だ」という風潮が広がっては、災害の教訓や被災者の無念を風化させず後世へと伝える上で、逆効果ではないか。その点、撤去が決まったとはいえ、福島市の木幡浩市長が当初、批判に対し「サン・チャイルド」の制作と設置の真意を丁寧に説いたのは、意義深い対応だったといえよう。美術も文芸も、創作の営みはなべて自由な思念や感情の表れだ。社会の規範や科学の知識のしもべではなく、逆に常識や先入観を疑い、揺さぶり、社会に問題を提起する意味合いも大きい。心ある表現者による創作とそれに対する意見が、反目や排除に向かうのではなく、互いの主張を認めつつ社会をより豊かにしていく対話の起点となるよう、議論を深めたい。震災とアート 反目より対話の起点に 中日新聞 20180905

国立遺伝学研究所の川上浩一さんがコメント。

画家の山内若菜さんの絵が、すごくてすっかり私はファンになった。
福島に来てくれているらしい。見に行きたい。

今回「パブリック」であることが、サンチャイルドの最大の論点であり、全員の一致は見られないから、(暗にTwitterでの炎上と)数十件の批判が投函されたことが、市長の行政行為を超短期間で覆すほどの撤去要因とされてしまった。おそらく何をしても数十ぐらい批判は来るときは来る。簡単に動いて良いのだろうかと心配に思う。

夏休みに子どもたちは嬉しそうに親子連れで写真を撮影していったその思い出を考えるに、もっと法的安定性などの方面も重要視してよかったかもしれない。戸惑うだろう。あれほどのものが、一度置かれてすぐとは、いったい何故に、市民の財産が突然に無いのかと。現代アートや街づくりについて専門家の意見を仰いでも良かった。

これからみんなで学ばれていくことを希望する。

ある撤去派の意見では、置くのが美術館などであればこのアートは通常のアートなのだそうだ(しかし「こむこむ」は文化施設であり使節内部なのである。おそらく駅のド真ん前にあると誤解していたり、まったくの外にあると思っている人も大いに違いない。ネット上の議論だから)。

私にはまだどの批判も首をかしげるのだがとにかく決まったは決まったことだ。設置から一か月だった。それで一文を書いた(20180828)。

太陽の子サンチャイルド

それは今は、公開しない(9月末から公開)。ただ、あれを見て一緒に遊んでくれた子どもたちや、福島は忘れられてないと思ってくれた人たちに、とにかく、ありがとう。

*こちら

8月30日夜、
子どもの像とモニタリングポスト2018年8月30日
NHKニュースの最後にこんな一言が添えられていた。

「福島と向き合って!」

SNSの特性ニュースしかり。
NHKは福島を見てくれている。
ありがとう、メディア。

ーーー

今回のいきさつを謝罪したうえで、「さまざまな声を聞きながら、これからも堂々と福島に関わり続けたい」と述べました。9月5日福島大学で開かれた、今月9日から県内で行われる現代アートの祭典「福島ビエンナーレ」の記者会見に、現代美術作家のヤノベケンジさんは参加アーティストとして出席しました。ヤノベさんは、平成23年に復興への思いを込めて防護服を着た子どもがヘルメットを外して立ち、遠くを見つめてほほえむ作品「サン・チャイルド」を制作しました。この像は市に寄贈されて、ことし7月から子育て支援施設の前に設置されましたが、「福島市では防護服が必要だったと誤解を招く」などといった撤去を求める批判的な意見が寄せられ、先月、市が撤去を決めました。
会見の冒頭でヤノベさんは謝罪したうえで、批判や撤去の判断については、「市民の声を置き去りにして設置を急ぎすぎたことに反省とふがいなさを感じている。このままでは対立や分断が広がると考えると、一度撤去してから冷静に丁寧に議論した方がよく、撤去の判断を真摯に受け入れたい」と述べました。そのうえで、「このままではほかの表現者の萎縮にもつながりかねない。これで終わるのではなく、さまざまな声を聞きながら何をすべきか探すチャンスがほしい。これからも福島のことを勉強して福島にしがみついて福島に堂々と関わり続けたい」と抱負を語りました。ヤノベさんは今後、福島の人たちと意見を交わすことを検討しているということです。ヤノベケンジさん会見の場に 福島 NEWS WEB NHK 20180905

続きがありそうで良かった。
へこたれない姿勢を学びたい。