吉田 邦吉

吉田 邦吉 について

CHIEF EDITOR ▼Yoshida Kuniyoshi / 1981年1月大熊町生まれの原発避難者。中大法卒、2000年より塾長。2013年4月、赤坂憲雄の活動のもと文の道へ、2014年9月22日に卒業同日、「WELTGEIST FUKUSHIMA」で独立し出版事業を開始。エッセイで致知出版大坪社長特別賞。会津民俗学研究会員、書籍編集長、雑誌共同執筆、福島県立博物館や横浜美術館トリエンナーレなどで講演やトーク等々、私設図書館「ふくしま本の森」にて活動等。新聞、ラジオ、テレビ、インターネット、多数のメディア出演を経験する、最新はNHK BS1 スペシャルとNHK world premium。facebook / website / Amazon▼ Essayist. Private school. Nuclear evacuee 2011-. Independent publisher. Majored in law, Chuo Uni. A special essay prize on a first-class magazine. Lectures and Talks at Fukushima prefectural Museum, Yokohama Municipalcity Museum of Art as Yokohama Toriennale 2017 etc. Like learning languages, Folklore, etc. So many Appearances of Newspapers, Radio, TV, Internet, and NHK BS1 SPECIAL and NHK world premium.

熊川が泣いている。吉田邦吉

20180522 東京電力福島第一原子力発電所 撮影:吉田邦吉 大熊町 Fukushima First Nuclear Power Plant

20180522 東京電力福島第一原子力発電所 撮影:吉田邦吉 大熊町 Fukushima First Nuclear Power Plant

 初夏の陽射しが強い5月22日。フクイチが目の前だった。小さな崖を降りれば目の前にフクイチが居る。あの野郎が居るということだ。まだ居座ってやがった。しかしここは潮風が吹きつけ、寄せては返す波間に、美しそうな海、東のほうには船が浮かぶ。中筋純さんと宮尾節子さんが東北旅行だそうた。私は一部の案内をした。大野駅は言っている、「観光名所 原子力発電所」。中筋さんにはいつもお世話になっている。新しくできた立派な大熊食堂を御馳走になった。高い。地元の人は誰も来てない様子だったが原発関係の人が多いのかもしれない。周囲は東電ヒルズのような住居群が建てられていた。食堂のサイズの割りに小さい客用駐車場は彼らでいっぱいだった。「客用」。宮尾さんの「明日戦争が始まる」に私は影響を受けた者の一人だ。宮尾さんはふるえながら「笑顔」という詩を読んでくれた。スクリーニング場ではF1レースのピットインのように大勢が声をあげて一気呵成に仕事を為す。ああ海……この海は太平洋!この向こうにはアメリカ!昔からそう思った。太平洋と草木たち、の向こうにはフクイチが!原子力は爆発した!ゲートだらけの「off limits area」には日本のために押し付けられた闇のピラミッドの群れが森をなしていて、その奥には、やつが潜んでいた。わずかのぞかせるやつの顔を私は肉眼で見た。大地震と大津波で家がボロボロのまま。あとは基礎だけ。まだ瓦礫がある。その付近の神社にはむかし巨木にカミナリが落ちたような記憶がある。その周りを黒い山が囲み始める。音もなく匂いもなく、色もなく味もなく、ただ、ぎらぎら、ギラギラ、ギラギラ、ギラギラ、みんな吹き飛ばした。・・・・・・振り返れば、そよそよ、さらさら、きらきらとかがやいて、細くなって流れていた、熊川の光が、ひんやりした海に、とろけるような黄金色で、よこたわっていた。たまたま計測した地点の砂浜は県内でもだいぶ低いほうだろう0.07mSV/hだった。だれかが山のような瓦礫を片づけた後だった。ひっくりかえった堤防に小石が積まれていた。線量が高いのは地面だった。電気柵に囲まれた牛たちが梨畑に居て草を食べていた。「やあやあ」集まってきた。「そうやって挨拶するの?」。少し話した後、ぶふぉん!ぶるうん!なぜか猛ダッシュでリーダー格の巨牛の号令か、どこかへみんな走っていったのは迫力があった。マイペースな数匹は行かなかった。草むらにはイノシシが居た。家々の跡に大津波がつくった潟があった。あやめが咲いていた。野ばらは美しく咲き誇っていた。大自然が飲み込もうとしていた。朽ちていく匂いがした。白い月があがっていた。「女の子が傷ついた理由を泣きながら話すとき、ひっく、ひっく、となりながら、言葉になっていないのに、伝わること」「はい、ニラの苗」。黄色い屋根の喫茶店がなくなっていた。酒屋さんかもしれない大谷石造りの蔵は今も在った。友人の家がなくなっていた。見慣れた風景がところどころ消えてなくなっていた。傷だらけ。しかしまだ100年も前に存在したかもしれない青春を思いながらクラシック音楽を聞くようなセピア色の風景のなかに居た。ここで遊んだんだ。すこしの貝殻に、さらさらの砂に、海の家があって、浮輪があって、沢山の人達が居た。きれいだな、本当にきれいだ。

2018年5月22日 大熊町熊川海水浴場の熊川 撮影 吉田邦吉 Kumagawa river(しかし標識にはkumakawaとあり、あれは間違いではないのか)

2018年5月22日 大熊町熊川海水浴場の熊川 撮影 吉田邦吉 Kumagawa river(しかし標識にはKumakawaとあり、あれは間違いではないのか、正確には「くまか゜わ(kumag̃awa/ kumangawa)」だ)

「逆・差別ふくしま」の問題を考える。吉田邦吉

たとえば避難者が声を挙げると、Twitterでは大抵「一部の目立つ人達ばかりに声が聞かれ、われわれ平凡な福島県民には何ら光が当たらない!」というように迷惑噴飯ものぐらいの話をされるのを私は何度も一部の人達の言説で目にした。彼らは同時に「デマ撲滅」「放射能少しなら安全」「福島差別」の主張をする。

これはアメリカでは古い話に似ていることに最近、思いを致した。つまり「逆差別」の問題なのである。ごく簡単に言えば、「アフリカ人がアメリカで差別されていることを理由として、なにかしらの白人の枠を減らすことなどにつき、白人への差別だと主張すること」だと私は理解している。むろん厳密にどうなのか学んでないが、メモとして。

まず、ことを整理する。私の考えは、こうだ。

1、Aさんたちの不幸がある。
2、Aさんたちの不幸を解決する必要がある。
3、Aさんたちの声を聞く。

これが通常「復旧」と言われるものである。
追加して「復興」もあり得る。

これが、逆差別の主張だとこうなる。

1、Aさんたちの不幸がある。
2、Aさんたちの不幸だけを解決するのではなく、
3、自分たちというBの日常を聞け。

とても理解に苦しむのだが、この式ではAの不幸は相対化されてしまい解決は遠のくだろう。Bがものを食ったり遊んでいる話ばかりを「無理に」聞かされることになって、それが被災地なのか、被災を回復する必要はないのかとすら思う。

するとこういう反論が返って来る。

1、福島の不幸を搾取するな。
2、福島は不幸だけじゃない。
3、福島の幸福を聞け。

いつの間にか、被災の話は、どこか遠くへ行ってしまうような気がしてならない。むろん私は福島の楽しみを最も知る者のひとりだと自負するし、明るい話おおいに結構。そういう話はテレビで毎日毎日ずうっと観ている。

それでも彼らは言う、

1、被災者でなく、
2、脱原発の話でもなく、
3、俺たちの話を聞け。

いつも思うのだが、同じ被災地や同じ被災者の人達の話を私は聞きたいとき、こういう話ばかりがTwitterにあふれかえっているのを見ると、いつもがっかりする。彼らは酒を飲んで食べ物を食べてそれで良いなら、それで良いのではないか。なにかしらの「逆差別的な自説」を押し付けているようにしか見えない。

他人の足を引っ張っているようにしか見えないのが、「逆差別」なのかもしれない。いわゆる「平凡を強調する」ところにも、彼らの特徴はうかがえる。ただのオッサンというような自称をする人達のうち、その一部が、不幸な人達を、酒を飲みながら「逆恨みしている」ように見える。

もともとは「あまりにもひどい風評被害になるようなデマを、できるだけ信頼性ある話を中心に、それをたたき台にして、みんなで、それなりに妥当そうなものを探し、できるだけ明確な間違いを減らしていこう、事実をありのままに伝えよう」だったのが、いつの間にか、「風評加害は福島差別という問題」にすりかわり、そこに正義感と愛郷心を燃やし、Twitterで他人を排除する。

それを言う人達は、笑顔でこう言う、
「普通のオジサンです(^^)」

普通って、なんなんだろう。つぶやくほかない。

日本人という存在 吉田邦吉

 いろいろと解釈はあり得るでしょうけれど、日本人が初めて国際的に発生したのは、ある点によって今回は、明治時代からだと私は解します。それまでは「倭やアイヌなどのひと」でした。日本という国号は7cの飛鳥浄御原令からあっても、ほとんどが「それぞれの国に忠誠」であり、江戸時代などでも言わば「藩に忠誠」でありました。バラバラだったんですね。そのバラバラでは、日本人じゃないと思います。それは藩人であるか、または、国民の意味が違うのです。

 それぞれの「故郷=藩」=「お国のひと」ですね。
 憲法が出来て、日本国臣民が発生した。
 日本全体という「自覚」が発生した。

 しかしそれでも、「また自分さえよければよしの無責任な大敗北」をして、非常に多くの人達の命が、あまりにもむごたらしい、残酷で、酷い、死に方を、しました。生き残った少なからぬ人達も残酷すぎる人生を送りました。その大反省のもと日本国民が発生した。今は、また、大量の無責任な「日本国民」が、あらゆる「無責任な売国」をしまくっていますね。そうして日本人は、消えるんだと思います。土台から無責任だったのですから、終わりも無責任でなんとなく終わるのでしょう。悲しいことですけれども。

 じっさい、SNSのひとしかこの話題についていけないと思います。もちろん、SNSやってなくても、毎日新聞だとか朝日や東京新聞などリベラルな読者なら違うと思います。われわれは、そういう「リベラル以外の日本人たちによって終わりを迎える可能性が高い」とも言えるのかもしれません。割合で言えばリベラル有権者は(私の想像で)4割います、たぶん。わたしはこれを以前から「反知性主義によって日本は滅ぼされるだろう」と言う言葉で代表させて言っています。言い換えれば「バカにやられる」と言ってもいいです(良いバカも居るでしょうけど今とりあえず)。

 政治を見てくださいよ。あれ、責任感ありますか。
 有権者を見てくださいよ。責任感ありますか。

 不正を憎み、自主独立の国家を持ち、個人が主体的に言論を行使していますか。ほとんどが「奴隷」ですよ。これのどこに自覚と責任感がありますかね。ないんですね。終わっているとはこのことです。自衛隊の人達は、「こんな売国バカどもを命がけで守ってる」と思ったら悲しくなりますよね。戦争が始まったら、日本国民は我先に逃げて、あと全て無責任だったのが太平洋戦争ですから、今度もまた同じようになるでしょう。「自分さえよければ良い」では「多くの人々がダメになる」のです。この辺りについて気になるかたにオススメは「文部省著作教科書 民主主義 径書房」などかもしれません。

 原発事故を思い出してください。
 日本国家は、誕生していたのでしょうか。

いごく「ふくしま/フクシマ」 吉田邦吉

また少しの間だけ出しておこう。

いわき市が「いごく(igoku)」というメディアを始めていて、小松さんが参加して編集している。地域包括ケアは旗振り役が必要なので良い取り組みだ。それなのに全く関心が増えず、「デマの件で争う」のほうがTwitterではぐんと上がる。

食のテーマについても安全論は伸びない。それには理由があると私は思う。ただ、私で言えば実害論しかアクセス数が伸びないのとそれは同じ構造である。SNSユーザーは争いや闘いに飢えている。議論と争いは異なるが。NPO法人や地域の活動などを無視している。

だが私は考えの違う人達を押しつぶしたいと思わない。放射能御用はそうでないから困る。悪い。だが、8年目の今それだからといって私がまた刀を抜いたら、無用に傷つく人を増やすだけだから鞘に入れた。

争いを好むことはリアルと乖離し過ぎていることにネットが気づいていない。リアルでは逆だ。争いが好まれず生産的が好まれる。ここらにネットとリアルの溝すなわち政治と社会の溝がある。

私と小松さんの放射能についての考えは合うかどうかわからない。
たぶん、どこかがあわない気がするし合う面もある。

しかしいずれにせよ、争いよりも福祉に取り組む人を私は立派だと思う。地域にこだわる。そこが良いと思う。少なくとも放射能の議論で盛り上がるのはTwitterだけだ。政治の争いだけだ。

政治に社会は関心がない。いっさい怒ってはならないとかそういうことを言っていない。人間の自然な感情を誰も否定しない。ただ単に、なるべくなら争いに人は参加したくないだろうと私は思う。

政党だの政治家だの。
大事なのは政策論とその結果と未来だ。

ある人は言った。「自分たちは籠のなかの鳥だ(≒鳴いている=泣いているしかない)」と。それは一理ある。だが別の側面から見て、被災者とか被害者とかそういう枠だけで捉えられたいと私は思わない。

あくまで被災は自分を形成する一つの部分的な経験に過ぎない。論理関係が逆なのである。地方や地域を下に観ないでもらいたい。私達は同じ人だ。争いに利用されるための被災ではない。事実は事実として見てもらいたい。

以前わたしは「不幸を政治利用するな」に反対した。それは今も変わってない。人の不幸を放置しすぎて酷いものになっているのに何もしない政治は批判されてしかるべきだからだ。

しかし「人の不幸を政権を倒すためのネタとしか考えない」のと「人の不幸に共感を寄せ、何もしない政府に、結果的に腹を立てる」のとは、だいぶ違う。普段の行動が違うから、わかる。

常に牧歌的であれとは言わない。無理だ。
常に争いであれというのも無理をしていないか。
どうしても闘いたかったら自分と闘おう。

よって争い、そんなことに焚き付けられるしか能がない福島だなんて私は絶対に思われたくない。私達はもっと優れている。私達の暮らしを見てもらいたい。私達は争わせられるだけの植民地などでは決してない。

個性ある人の暮らしがある。

磐城の山々 吉田邦吉

 ああ、こんなにいわきの山々って美しかったんだ。

 山国会津で培われた観察眼に違いない。春4月初旬、温かく、いつものように明るい陽射しが照らしていた。今年は双葉郡の桜も会津の桜もみな一度に咲いたぐらいだった。三春はすごいことになっているに違いない。どことなく春ぼけしたまま車に乗る。平のロッコク(国道6号線)辺りで桜が咲いていたのを眺めた。差塩(さいそ)辺りだとたびたび思うが。ふわふわもこもこと雑木が色とりどりになりつつあった。黄土色から茶色、緑の木々に、薄桃色、濃い桃色、白色、黄色の花々そして椿が咲いていて、会津では少ない竹が浜通りには生い茂っていて、家々が犇(ひし)めき合っていた。避難の友人たちともときどき話すが今回はいわき市で90歳のお爺ちゃんとたまたま話した。あの辺に住んでる。ここから近い。ちょっと耳が遠いんだという合図をしていた。誰も何も言わずとも「うん、うん、うん」と、何度も小さく頷いていた。口数の少ないおじいちゃんの眼はとても優しく、この山々の春のようであった。昔々、磐城で私が観るモノは何だったか、少し考えていた。洋服、アクセサリー、小物、音楽、食べ物、海、……ふつうの暮らしがそこにあったことを思い出す。幼い頃はスケート場にも行ったことがあった。双葉郡の外で買い物と言ったら、南相馬または、磐城であった。稀に郡山、そして仙台または東京である。いわきの今は、どうなったのだろう。あの直後から昨年までと今年とでは、また違う風景になった気が最近している。磐城を出るころ、磐城は暴風警報だとラジオが伝えたのは、阿武隈高原あたりだったか。

 雪の縞が残る磐梯山は雲に届き、その上に繋がっているかのようだった。