吉田 邦吉

吉田 邦吉 について

CHIEF EDITOR ▼Yoshida Kuniyoshi / ゆとりある暮らしを好む小さな雑誌『WELTGEIST FUKUSHIMA』の編集長をしている。1981年1月大熊町生まれ育つ。中大法学士。政府避難指示区域内農業関連公共事業者。大型特殊免許。エッセイが致知出版にて大坪社長特別賞。日々4kg背負いマラソン20kmを走っている。総計10,000km超。20語学を学んでいる。現代書館にて書籍編集長。文化庁支援事業LMN、福島県立博物館、横浜美術館ヨコハマトリエンナーレなどで講師。私設図書館「ふくしま本の森」にて活動。NHK BS1 スペシャル (+ world premium)「福島タイムラプス」(出演)が全日本テレビ番組製作社連盟ATP賞テレビグランプリ優秀賞、ニューヨークでも受賞。facebook / website / Amazon/ Twitter/ Instagram▼ Essayist. Public enterprise of agriculture at Okuma town in Fukushima, where has been legally off limit area since 2011. Private school. Nuclear evacuee. Independent publisher. Jurisprudence. Majored in law, Chuo Uni, related to the Middle Temple in London. A special essay prize on a first-class magazine 2015. Lectures and Talks at Fukushima prefectural Museum, Yokohama Municipalcity Museum of Art as Yokohama Toriennale 2017 with works by Olafur Eliasson etc. Like learning languages, Folklore, etc. So many Appearances of Newspapers, Radio, TV, Internet, and NHK BS1 SPECIAL and NHK world premium (Fukushima TImelapse, ATP award TV grand prix, outstanding performance award 2018 in Japan. Also, in New York it received an award). Marathon 20 km with 4kg and study 20 languages everyday. Live in Fukushima.

測定とは何だったのか。吉田邦吉

(はじめに断っておくが、わたしは放射線の測定に関する専門分野に関する政府所属の有識者ではないから、言説に責任をとれない。たとえそうであったとしても真実を述べているとは限らないとも思うのだが、いずれにせよ、この文章は、福島の数々の事象や公私専門家の話をほんの少しは読んできた一般人が考えて書いているという事例の表示である。つまり、環境省の引用など以外は政府機関でない者の思考だということである)

当初から数年間は不安解消に役立ったから全国各地に測定所が出来たのだろう。利用者がどのぐらいいるのかは定かでないし流行っている風にも見えないが、当初の不安な時期を中心に、食品に対して若干の不安を抱えている人達が安心するために使うのであれば問題ないように思われる。

たとえばわたしはガイガーカウンターのほうの話だが、極端に高い場所を探すときだけに用いるようにしている。つまり、普段0.1とか0.5ぐらいのマイクロSV毎時のところを計測して変化を見るのはあまり意味がなく、0.3と3マイクロの区別などを事故当初、探知するのに役立ったということだ。

どちらかと言えば、是が非でも測定したい人達ほど不安になりたいように見えるのは気のせいではないだろう。測定やモニタリングというのは、その数値の意味するところを分かっていないまま、この話題に家族を守りたい動機だけで参加すれば、不安と安心の狭間を揺らされる仕組みかもしれないのである。

たとえば1kgあってはじめて10ベクレルという数字が、誤差がプラスマイナス10の数値を入れたら、どのぐらい低いのか、そもそもゼロかもしれない、ということを理解したくない人達は100gぐらいしか食べない食品にこう思う。「そんなにあるんだ」「拒否」。でも本当は1kgの全てを食べても別に10ベクレルすら満たすかどうか分からない。

しかも最初の基準がないところにおける測定については高いも低いも言えないではないか。何と比べてそう言えるかと言うと、ただ単に「震災前」と比較するからそうなるのであって、逆に言えば、震災前という状況はすなわち安全ということを意味しもしないのだから、危険ということをも意味しない。これは「低線量の意味」において述べたことと話が同じである。

たとえば土壌の放射性物質に関してもすごく線量が下がりえる除染作業とか、半減期といってすごく線量が減っていく時間の流れ、そしてただ一カ所の測定を全部に及ぼすような周知方法という論理的過誤、といったことに気を付けることなければ、計測データとか科学とか事実などという名目で、誤解と偏見を広めることができてしまうだろう。冷静な理解を妨げるような見せ方も考え物だ。

その機器や測定行為や数値への理解の仕方は非常に専門的なことであり、素人がその数値を見ても、「ああ、誤差ばっかりだ。ほとんどゼロかもしれない、超微量ではありえるかもしれないが、つまりNDということかもしれない」と思うのが大体だと予測されるところ、「いや、ごくわずか、超微量だって含まれているかもしれない」という思考はどれだけ不安になっているかがわかる。

まず、その機械を用いるその現場と人の手や道具などは完璧な状況で運営されていることが透明で記録されて第三者など複数人が保証できるか。完璧でなければ、超微量というのは、測れないのである。出たとしても空気から混じってしまったものかもしれない。それに、濃縮して超微量があるかもしれないと言うだけなら、どんなものにも「あり得るあり得ない分からなさ」という超微量の数値とプラスマイナスが言えるのではないか。

つまり、非常に偶然性のなかでほんの目に見えないようなスーパー微量の数値のものが混じってしまったら、その時点でそのほかの食材の部分のすべてに「混じっているかもしれません」という言い方をすることになって、それが果たしてどのぐらい妥当なのか、また、その数値にしても基本のそのキロあたり何ベクレル誤差±という表示にしても、どのぐらいの人達が正確に理解する知識を持っているのか。

なにも知らない、なにも分かっていない、基準や数値の意味などについて、なんの知識もないのに、ただ表示がNDやゼロでないということを一般の人達が思わせられるとしたら、それはもう機械の表示の仕方のほうが全く素人向けではないとか怪しい場所だと言っても良いのかもしれない。そもそも機械はゼロを表示できないのだから。表示できるのはNDだけだ。それなのに無知のままで計測されたら最後、「ごく微量、あり得るかもしれませんが検出できません、NDです」と宣告されるのは魔女狩りにも等しい。

考えて見ればすぐわかることで、全世界の食品をぐちゃぐちゃに破壊して完璧に超微量まで計測することに意味がない。そんな風にしてしまったらどんな全国の地方の食べ物も食べられないからだ。破壊しない方式は個人的には破壊式よりも完全に超微量が計測しきれるとは個人的には思えないし、すべての個体を検査するわけではないだろうが、食べる前のものを検査できるという点で大変優れており、便利だから普及したらよいとは思う。東北大学が開発したそうだ。(参考 『利用技術 食品の汚染検査のための放射能非破壊検査装置』石井慶造 Isotope News 2015年1月号)https://www.jrias.or.jp/books/pdf/201501_RIYOUGIJYUTU_ISHII.pdf

つぎに、環境省のサイトを見てみよう。

【放射能や線量率の測定結果が「不検出(ND)」となっていることがあります。 これは放射性物質が全く存在しないことを意味するのではなく、検出限界未満の濃度であるということを示しています。検出限界値は測定時間や試料の量などによって変化し、一般的には測定時間が長ければ長いほど、試料の量が多ければ多いほど、小さい値になります。検出限界値を低く設定するとわずかな量でも検出することができますが、時間や経費を要することになり検査できる試料数の減少につながります。そのため、測定の目的に応じて分析機関において設定されています。】本資料への収録日:平成31年3月31日 引用(環境省)放射線による健康影響等に関する統一的な基礎資料(平成30年度版、 HTML形式)https://www.env.go.jp/chemi/rhm/h30kisoshiryo/h30kiso-02-04-03.html

以上

つまり、ND表示はゼロを意味しないのである。ゼロ表示があり得ないところで、科学を用いた機械を目の前にして「ゼロじゃないんだ」と思わせられることの意味は、どことなく「無知で計測は不安の押し売り」にも見えるとを少しぐらいは考えてみるような勉強会から先にしたりといったように、まず計測に関する知識をしっかり安定的にレクチャーを受けてから計測に及んでも良いのではないだろうか。

「全世界の全物質中に存在しないことの証明をさせられること」これを「悪魔の証明」というのだが(つまり立証困難なことの比喩で使われる)、その悪魔の証明をしなければ不安だ、恐ろしい、ということを促進してなにか社会活動かのように考えすぎてしまうのは、なにかが違う。

すなわち、無知で素人による機械での測定という行為は、あまりあてにならないのだ。専門家ですらこの辺りはまた多様であるのだ。単に、その場での平均的な数値に比較したとき、異常に高い数値と異常に低い数値が出るとき、それは区別して考えることができるから、あとは専門機関にその高いのを送っても良いかもしれない、という程度のものではないだろうか。

一人の有権者として、たとえば福島のお米についてもう全袋検査をし続ける必要がないとわたしは有権者として思う。ほかの食品についても同様だ。そもそも福島だけいつまでもNDやなにか計測の負担だけして表示させられているのが正しいかのような空気は間違っている。ほかの地域にも微量ならあるのに。福島だけその微量云々をいつまでも言われ続けるのは、福島を追い込んでないか。

【福島県は2日、東京電力福島第1原発事故後に実施している県産米の放射性物質の全量全袋検査について、早ければ2020年に果物や野菜と同じモニタリング(抽出)検査に切り替えると発表した。15年産以降、放射性セシウムの国の基準値(1キロ当たり100ベクレル)を超えるコメは出ておらず、5年連続ゼロの達成をめどに検査体制を見直すことにした。】(福島米 全袋検査、20年に縮小 5年連続基準超えなしで 毎日新聞 2018年3月2日 https://mainichi.jp/articles/20180303/k00/00m/040/103000c

もはや事故当初ではない。測定はつまり、事故当初に極端に高いところを探すには向いていたが、今ごく微量の話をするに一般人には必ずしも適してないということだろうから、適切な使用と理解へのレクチャーのようなものを受けてからなら超微量の計測に意味があるように考えられる。むしろ先に、世界に対して福島や日本全体への誤解や偏見などが根強く残ってしまっていないかを社会には考えて頂きたい。

だれか一人の意見がその地域を代表できるわけがないのだから、多様な「自分の地元」があって良い。それに、社会的にどのような論点に関しても反対などの数字は一定割合で出るものであるし、測定に関しても、人々みんなの努力と苦労によって、なんとか落ち着いてきたと考えるのが穏当なのだろう。なにより、地道に改善すべき流通の件もある。(※参考『こっちさこ!そろそろ福島産を自由にしてはどうか』吉田邦吉 WELTGEIST FUKUSHIMA

次世代ふくしまに繋ぐもの 吉田邦吉

第五福竜丸の大石又七さんがローマ法王に手紙を出したニュースがどんと注目されている。同じぐらいに原発事故被災地から福島の柿が贈られたニュースも好印象の注目があってほしい。SNSではカラーが別れてるのが散見される。そもそも食べない人に無理強いさせたい人などいない。無理して食べないほうが良いに決まっている。どうもこういう風に被災を訴えるだけで「食えと?」というような反感を投げつけられてしまう。被災を訴えるだけで言論弾圧を受けてしまうのだ。嫌な人は食糧危機でも同じことを言うのだろうか。相手がどれだけ傷つくかご存知か。

核兵器廃絶も原発事故の被災からの回復たとえば風評被害からの回復も、どれもわたしは昔から応援している。福島でも宮城でも栃木でも新潟でも岩手でも茨城でも神奈川でも千葉でも埼玉でも東京でも群馬でも関西でも南西日本でも農産物を元気よく食べてるのだが、そういう普段の暮らしを、地域の温かみを、なんだかどこか、本音のことを口に出来ない雰囲気を、そろそろ終わりにしよう。なぜなら闘争は終わったからだ。次世代に禍根と汚染だけ残してしまうのは、大変バカげている。なにを言ってダメとは思ってない。ただ、わかっているはずだ。次世代ふくしまに繋ぐものは、愛されるような福島的文化だということを。

将来の福島を考える。吉田邦吉

だれもが知るとおり、福島と原発是非の関係性は複雑だ。

 1、両極性
 それで生きてきた面もありながら、それで被災したという面もある。だから、「ア、安全神話」に腹が立っていても、「イ、どこまでが安全の範囲内か」ということには被災の回復つまり復旧や復興のために必須なのである。

 ア、安全神話
 とくに原発運営についての安全神話について考えていくべきである。安全神話というものを原発推進のために使えばどういう組織的な失敗が待っているか。この考察こそが実は原発を推進しようと反対しようと重要なのである。すなわち民主主義、組織論、不確実性などの問題である。

 イ、低線量の安全性の周知法
 これが原子力災害を被っている地域の復興には何より肝心である。ただし周知は大事だが、その方法はもっと重要なのである。たとえば、いきなり100ミリという数字だけを最初に出しては大バッシングを食らうだろう。放射能について人は不安があって自然であり、原発の是非だって誰もが考えはある。

 イのA、不安感や怒りなどを否定しない
 低い線量でも浴びたくないという人の気持ちを否定するのは間違いである。考えや気持ちは自由なのであるから、心配すること自由なのである。もし2人以上なら、他者の話が終わったら次は自分の番、という順番で話を行えば良い。ひとが権力と闘うのも闘わないのも自由。

 イのB、非政治的にシンプルな提示
 そもそも、「低線量」関係における分析データのほうでは明確な増加が見当たらないという話があるだけなのであるから、それを提示し続ければ良いのである。それをもって、原発の賛成とか反対とかのために他者を論難しすぎないことが大切だ。あまりのものは禍根を残す。

 ウ、県外の脱原発
 福島県内での原発は第一はむろん、第二も廃炉になるので争いがない。県外においては賛成派と反対派が分かれている。そして特に、県外の脱原発派というのは福島の被災つまり低線量について何の理解もなく非情または感情的のみに政争利用なのかということを考える人も居るかもしれない。

 ウのA、理解ある人々
 理解ある人々は、そもそも原発の是非に関わらないで、低線量に関して政府が採用したデータや知識の意味を共に学ぼうと理解してくれるだろう。そうであれば、福島の被災は国内にくわえ世界へ向けて回復していくことが出来る。分断も融和していくだろう。脱原発派で理解ある人達は沢山いると思う。

 ウのB、理解ない人々
 理解ない人々は、そもそも原発の是非に関わらないで、低線量に関して政府がどうこうしてきたこと自体を理解「したくない」のであって、理解力のない冷酷無情な人々ではない。そういう人達は、国政関係のことを今は信頼したくないが、福島の人々が続けている努力については評価してくれるだろう。

 2、教訓性
 福島県民としては、「繰り返してはならない」という意識も実は強い。かつて県民は原発に関心が高いとは言えない状況だったと思うので、そこには有権者としての責任を他の国民と同様に感じているだろう。どうしたら教訓のようなことを後世につないで行けるのかは重要な仕事である。そしてそれは、原発政策の是非両方だけでなく、民主主義そのものや悲劇を繰り返さないという普遍的な意味内容もある。

 ア、記録
 記録を遺していくことは何より重要だ。その際も、新聞、映像、写真などにくわえ、むろん、当事者の声、周囲としての間接的な当事者の声、学術書、雑誌、フリーペーパー、事故由来の事実を伝える物の数々、イベントの記録といったあらゆる雑多なことを保管しておくアーカイブセンターのようなものの存在が必要である。

 イ、記録所の運営
 記録所においては様々な楽しいイベントが日常的に開かれていて、別段、「そのことだけでないゆるやかな運営」をもって心掛けるべきである。そうであってこそ多数の人達が集う場所になってくれることだろう。今はしばらく自己保存や図書館に自己献本というような状態かもしれない。

 3、分断性
 県内外において原発を順次でも廃炉していきたいと考えている「脱原発」の人達と、県内外において原発を推進していきたいと考えている「原発推進」の人達がいて、そこの勢力争いに福島の被災が巻き込まれて分断している。いわゆる「二次被災」の問題であるから考察することは若干必要だ。むかし「喧嘩と放射能は福島の華だ」と書いたことがあるが、最近は不毛な感じを受け、無関心を助長しているような気がする。マクロな意識の流れに展開が欲しい。

 ア、思惑
 今の福島関係のことは、一定数の人々による思惑が見えてしまうかもしれず、本来それはむしろ目的達成のためには邪魔になる。たとえば脱原発したいから福島が嫌がることをし過ぎるということだとその問題提起は広がりにくいのである。一見して広がっているように見える激しい投稿のライクやシェアというのはどんな傾向の人々がしているのかまで可視化されている時代だ。広がっているように見えて実は熱狂依存の回覧板状態を人は見抜く。

 イ、未来への可能性
 広がるような投稿を心がけようと思ったら内輪受けを狙うような表現の仕方ばかりではまったく広がらないと言って良いだろう。逆でなければならないのである。一見したらこれは閲覧数低くなるだろうという地道で地味なことであればこそ、別次元に居る人達が見てくれる確率が高まるだろう。ゆえ、広がるというよりは、未来への可能性を広げると言ったほうが正確かもしれない。

 ウ、理性と感情
 成熟した人達であればその投稿にどれだけのライクやシェアがついてるかなどほとんどどうでもいいことだ。なぜなら99人が正しいと言っていることを理由として何が正しいかを決めることが大きな間違いのもとであり、自分で複数の情報にあたってゆっくり考えていくことが道のりだということなどを知っているからである。

 そういう人達に自然と伝わっていくような、理性と感情のバランスのとれた大人のアプローチが最も好ましい。SNSや言葉だけでなく、場づくり、映像、写真、物語、テレビ、物作り、食べ物づくり、なんでも福島は、やる気と才能を待っている。県民も日本に居る人々も積極的に評価していくと良いのだろう。きっとそれは、この日本という国に注ぐ日差しを暖かいものにしてくれるからだ。

 そうだから、関わってくれて、ありがとう。







8000Bq以下などの作業は、【年間】1ミリSV未満だ。読み解き環境省。吉田邦吉

わずかフレコンバッグが台風で流れた報道があって騒ぎになった。しかしそのことについて怒りや騒ぎはあっても、学びのムードは無かったように思う。こういうときこそ、ちょっと学んでみたいとわたしは思った。

分類時の「8000」という数字は、見た目が高そうだ。わたしもずっと高そうだと思ってきた。しかし実態は、当の基準「8000ベクレル以下ですらその作業をする人たちからして年間1ミリに満たない」のだった。以下の引用文と画像2つに、それが書いてある。

『8,000Bq/kg以下の廃棄物は、通常の処理方法でも処理等に伴い作業員及び周辺住民が追加的に受ける線量が、安全の基準である「年間で1mSv(ミリシーベルト)」を下回るため、安全に処分することができます。』(「放射性物質汚染廃棄物処理情報サイト よくある質問」環境省 http://shiteihaiki.env.go.jp/faq/

指定廃棄物について 環境省
福島県における取組み 環境省

ただし思うに除染作業をするということの場合には、たいていが低いものばかりであっても中には比較的には高い線量のものもあるだろう。だからこそ彼らは積算線量を管理しているのだと思われる。

今ここでわたしが言及したいのは一般の人達が、桁の大きそうな8000ベクレルという数字に驚きすぎて過剰な不安症などを発したら大変だから書いている。放射能と聞いて不安になることは自然なことだと思うが、生活に支障をきたさないように適切な理解をしていくのは総合的な生活の質向上のためには重要である。

つまり、8000ベクレルという数字はその件で作業している人達にとっても低いものであるため、「以下」のものは市町村・民間で通常の汚染されていない廃棄物と同様の方法で処理できることになっている。

それよりも問題なのはそれらをまとめて黒いフレコンバッグ(トンバッグ)に入れているのだから容量が非常に大きなものになる。それらは一挙には管理しきれずに今もまだ民間の人達のところに置いたままになっていることが課題になっている。そういうこともあって、焼却や乾燥などで容量を小さくする工程を経るために「減容化の施設」が稼働している。

参考 なお、原子力施設と比較するとこうなる。あまりにも数字の桁に幅がありすぎなのである。一般の人達の通常の感覚で1000という数字を考えると違うような気がする。

『原子力施設で発生する廃棄物は、10兆Bq/kg超えるものなど様々なものがあります。 一方、指定廃棄物のほとんどのものは10万Bq/kg以下であり、比較すると約1億分の1とはるかに小さいものになります。』(以下に出典表示)

文と図(引用 指定廃棄物について コラム 環境省)

それに「8000の話」をすると今度は「100Bq基準の話」が気になる人達が出てくると思うが、それは100を即座に害毒と考える前に、カリウムもガンマ線を出しているという話に戻って考えてみることが先かもしれない。それに、基準値近くまでの食品が日常的にどこかで売ってる話などわたし個人は聞いたことがない。

あまりにも不安になりすぎるということはネットやSNSを見すぎている。そして疲れている。だからまず忘れることをおすすめする。それからゆっくりして、再び気になりだして学びたいときなどに心身調子よければ少し学んでみて、様子を見ながら進むぐらいが楽かもしれない。

自分のなかで楽であることが大切ではないか。
ゆっくり、あるこう。

※追記 このエッセイに質問があった。フレコンバッグの中身が数十袋という量で台風により流出したというような話が新聞報道などであったことにつき、フレコンバッグ数トン分などは川や畑に流れても人々の健康に被害がゼロなのか、というような趣旨であった。

2012年5月のNHKの記事によれば、2011年3月の原発事故によって90京ベクレルが放出されている。それで今の状況だから、たとえ流れ出たフレコンバッグの中身が、すべて基準値満タンの8000ベクレルやそれを超えるものであっても、もし薄まってしまったら影響が明確なほどの変化は見つからないのではないかということをわたし個人は思う。

それに、呼吸をしても、おにぎり一個を食べても、「がんにはなり得る」のであって、なにをしても「健康に影響がゼロではない」こともある。そのようなところで、これについてだけ「データでは明確に出ないかもしれないが、ほんの見えない程度に影響があるかもしれない、つまりゼロとは言えない」と言うことにどのような意味があり得るのか、わたしには難しい。

このような考えはわたし個人の感想であって、正確なことは環境省なり政府なりに問い合わせて見て欲しいが、すくなくとも環境省では小泉進次郎大臣が現時点では環境への影響はないという認識だとNHKで発表された(「2019年10月15日 注目の発言集 福島 除染廃棄物の袋流出 「環境影響なし」小泉環境相」https://www.nhk.or.jp/politics/articles/statement/24391.html)。

そして、わたしがこういう考えだからといってせっかく除染してきたフレコンバッグの中身が流出したりしてしまうのを嫌でないとか悲しくないとかそういうことではない。それとこれとは別問題なのである。

列島全体にフォールアウト。吉田邦吉

世界でおこなわれた核実験の影響による空気についてざっと学ぶことにした。なぜなら「日本全体の大気はどうなのか」と思ったからである。環境省のサイトでフォールアウトの件を検索してみると、北海道でセシウムが核実験の影響で見つかったということが分かった。それから東京都や日本全体でのことがグラフ化されていた。

そもそも核実験の世界初は1945年7月のアメリカである。そして左上のグラフは東京都の空からセシウム137が日々どれだけ降っていたかを示している。1950年代後半ぐらいから表示されており、1990年ぐらいまで相当にあるようである。しかも2010年代でも高い数値が記録されているようだ。朝日新聞によれば2019年2月にも核実験はアメリカで行われている。

右上のグラフは大気圏内核実験時代の国内の日常食中のセシウム137の量であるそうだ。そんなに昔からこの話はあったのか。わたしは何も知らなかったのである。大気圏内核実験というのは、地下とか水中とか大気圏外などでなく、地上、海上、空中のようである。

「大気圏内核実験は、1950年代から1960年代初頭にかけて米国、旧ソ連を中心に多数回実施された。実験は主として北半球の成層圏内で行われたため、核分裂生成物の微粒子は地球の大気循環流に乗って北半球全域に拡散、降水とともに地上にも降下し、地表面や農作物に放射性汚染をもたらした。降下核種の中ではセシウム137が最も多く、日本人成年男子を対象とした測定結果ではセシウム137平均体内量は1964年にピーク値(約530Bq)に達したが、米ソの大気圏内核実験の停止とともに急速に低下した。」ATOMICA (※平成31年3月14日より、ATOMICAは国立研究開発法人 日本原子力研究開発機構(JAEA)が運営)https://atomica.jaea.go.jp/dic/detail/dic_detail_510.html

ひょっとしたら日本中の日常食に微量でも入っているのかもしれない。同じ微量を福島という名前だけで避けようにもすでに日本中に人工由来の放射能があるということが現状のようだ。「低線量」という言葉の概念から比較したときにはやはり非常に微量な世界なのであろう。すなわち「微量の範囲の中に、日本全体がすっぽり入るので、日本全体が微量に汚染されている」と言える。むろん、わたし個人は福島に居るときと同じように微量の範囲内を心配しない。

下の2つのグラフは、日本人の成人男子の排泄尿中にセシウムが入っていて体内にもセシウムが入っていて、というグラフである。チェルノブイリ原発事故でも日本人の体内のセシウム量は増加したそうだ。なんと、こどものころのわたしたちのあの恐れは、恐れだけではなかった。すでに内部に取りこんでいた。ただし時間とともに排出されたようではある。

こういった数多くの核実験による放射性降下物をフォールアウトと呼ぶ。ちょっとした衝撃であった。ここで、フォールアウトなどという災害があると聞けば、人には人の精神的に受けるその苦痛というようなことが重い人がいる可能性を思う

たとえば現在のところデリーでは大気汚染が深刻であり計測できない状態にまでなって危機だそうだ(インド・デリー大気汚染、「耐えられないレベル」 外出自粛求める BBC 2019年11月4日 https://www.bbc.com/japanese/50285251)。世界の都市部は大丈夫だろうか。

もし微量の粒子系の有害な物質を避けようと思ったら、この世界ではかなり困難だと思われるが、この文章では逃げるなと言っているのではない。どこで暮らそうと人の自由だと思う。単に、正確に知っておくことで、もし将来の日本において、落ち着いて妥当な受忍限度の範囲を自分で決められれば、無用な移動リスクを避けることも選べるのかもしれない。

最近では気候変動の影響がニュースになることが非常に増えた。もしかしたら人々のなかで一部は以下のニュースに出てくる人々のように「環境不安」というメンタルヘルス上の不安感を覚えているかもしれない。欧米で増加している。

「悲しくて、悲しくて、立ち上がれない。これほどまでに悲しくなるなんてー」ジュディ・クレイマーさんは、「環境不安」と呼ばれるメンタルヘルス上の問題を抱えている。(略)「私は希望を感じない。地球の気候に不安と悲しみを感じる」精神分析医のエリザベス・アルレッド氏は「これは大きな問題だ。個人で回避しようと思って、回避できる恐怖ではないからだ。またその怒りをどこにぶつけていいのかもわからない。原因となる問題がいまだに正しく対処されていないのだ」と話す。他に、問題の共通認識を得られないことで孤独を感じるなどの当事者からの意見があるようだ。専門家によると、行動に出ることが不安に対処する1つの方法だという。(気候変動がメンタルヘルスに影響、欧米で広がる「環境不安」ロイター 2019年10月24日 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191024-00010008-reutv-int

自分だけのちからではどうにも解決にまで進めない問題に対処しようと精神的に負担しすぎたり怖く成り過ぎたりして、環境不安に陥り、悲しくなり、日々を過ごし、理解されているともあまり感じられず、孤独を感じる。けっこうな数で同様のことを感じているひとをSNSで見つけられそうな予感が働く。「SNSでの煽(あお)り過ぎ」も問題に数えられるだろう。

あの頃のことについて特に一般の人達の選択はどれについても後で勝手に裁くなど無いほうが良いと思う。いっぽう、あのころネットでの一部世論を強く煽っていた方向性は、2つあった。それは「福島から人や物を出すな」と「福島から出ろ」であった。それらが真逆の方向性をもって人々の辛い悩みを無理に引っ張り合い、分断したこともあったかもしれないと想像する。

なんでもひとは自由に言論していて良いのだろうけれど、発信したり表現したりするほうは、あまり過激で無配慮に続けないほうがやさしい。その画面一枚の向こうで人々は治療が必要なほどに泣いているかもしれない。あおりすぎるのをやめて、みずから着実に行動を起こし、その成果をSNSにアップロードして、希望を煽るようにしてみてはどうだろう

「希望を煽る」
まるでメーヴェ乗りのように飛べそうだぞ。