吉田 邦吉

吉田 邦吉 について

CHIEF EDITOR ▼Yoshida Kuniyoshi / 1981年1月大熊町生まれの原発避難者。カバラ数秘術の運命数1。中大法卒、2000年より塾長。311より各地を転々し、2012年7月4日から会津若松市に避難▼2013年4月、赤坂憲雄の活動のもとライターとなり、2014年9月22日に卒業、同日、ウェブマガジン「WELTGEIST FUKUSHIMA」で独立。 同月、「フクシマ発 現代書館」の編集長に就任、発行▼ふくしま本の森プロジェクト私設図書館づくり実行メンバー▼会津民俗研究会会員▼2014年5月21日 「偉人を育てた母の言葉」(著:大坪信之 致知出版)コンクール、大坪社長特別賞受賞▼書籍「戦争の教室」編:松本彩子 月曜社/ クサノネ 2014年10月編集・発行:(社)ふくしま会議 / 2015年3月号 「未来へ」に随筆(出版労連)/ うた新聞(いりの舎)2015年7月10日発行(40号)に随筆 / Dark tourism Japan Vol.1 ミリオン出版 / DARK tourism JAPAN Vol.2 東邦出版 の先達らの末席にて会津の文を執筆 ▼2016年11月20日、福島県立博物館にて会津民俗研究会主催で講演「廃村、湯の入に生きた女の半生」共催: 青木山を守る会 後援 : 福島民報新聞・福島県立博物館/ 学術誌「会津の民俗」40号 会津民俗研究会 歴史春秋社▼facebook / website / ▼I live in Aizuwakamatsu city in Fukushima. I've been a nuclear evacuee from Okuma machi where is the Fukushima 1st nuclear power plant since the 11th of March in 2011, who is a writer, and chief editor of a book and this magazine and learns from Akasaka Norio Prof. (folklore ) . Got an essay prize "A Great word from Mother (Chichishuppan)." I graduated from Chuo University where I majored in Law with Law bachelor' degree of thesis: "Reasons to occur a crime called, "A crime of no genuine commission (A)".

新しい暮らしの在り方を選ぶ優しい人達を私は知っています。吉田邦吉

 さいきん福島では涼しかったのです。本日は日差しがありますので、少し動くとじんわり汗が出てくる程度の室内気温30度湿度60%午後です。屋外では木々にミンミンゼミが鳴いています。ツクツクホウシはまだ先のようです。アブラゼミやクマゼミも聞こえるような聞こえないような。セミの鳴き声が聞こえると、カルピスで手作りの氷アイスが、サクサクと格別です。

 リアルだろうと成りすましは簡単です。インターネットでも相変わらず不毛な争いが続いていますね。福島が繰り返してきましたことに少々飽いています。やわらかなクサノネの一助になりますよう、お盆でもお墓参り簡単に行けない私からささやかな提案を、インターネットの片隅に置いておきましょう。こういうことは短文で伝えきれないので気乗りしません。ただ読み込むチカラのある誰とも知らぬ人へ。

 国策として原発をやめ、新しい暮らしを選ぼうとする優しい人達が流す涙の数々を私は知っています。やさしきママさんたちが心から家族を守りたくて流す涙を私は知っています。いろんなところに遊びたがる子供がいるので至るところ側溝まで放射線を計測する女性たち。日ごろから健康に良い食べ物を考える。料理とか洗濯とか、心がこもっていると丁寧なものになりますね。

 反原発フェスやデモに私は実際に参加したり見聞しました。大マグロックのある青森も、辺野古での抗議がある沖縄も、むろん福島各地も、東京での官邸前も、すごく優しい人達ばかりでした。かたい握手をしたりしました。たくさん笑いました。たくさん悲しみました。怒りもしました。(参考)そこでは、一期一会の、せつなさを共有しました。

 いっぽう、沖縄で、福島から来たとわかると「あなたは❰原爆❱に被災したから子供を作れないだろ」と、知り合うなり乱暴に言われたことがあります。しかし聞けばそのひとは横浜のひとで脱原発だと自分では言っていました。そのことについて5分だけ考えて見ませんか。わたしはしばらく考えました。その結果がこの文です。

 ごくまれに、どこか旅の途中では失礼なことを言われたりしますが、そのぐらいなんでしょう。それはその人の行為が悪いだけであって、脱原発という選択、あたらしい地球の在り方への思想や信条の話とは、関係がありません。その人だってたまたま間違えてしまったことでしょう。いつまでも責めたりしません。寛大なフクシマでありたいのです。

 わたしは廿代のころ、刑法学で学士論文を書きました。刑法は人の行為を見ます。つまり憲法上、思想や信条は自由なのに、思想や人種を非難するようになってしまうことは、人々が過去いくたの歴史において不幸を繰り返してきたことであり、残念に思います。もっとお互いに庶民同士マナーを持てる。ずっとジェントルであれる。夕暮れには鈴虫がオーケストラ。

 フクシマというパンドラの箱は開かれたのでしょうから、3・11を思い考えることを、文化として認め、フクシマ哲学ないし「311哲学」としませんか。いや、純粋に哲学でも結構です。とにかく最後その箱に残るのは、ホープでしょう。同じヒト、同じ生物です。くりかえされる無情の争いに加担するのをやめましょう。絶望を味わっているからこそ生まれる希望には優しさがあります。それが文化だと思います。

愛しいフクシマを創造しよう 吉田邦吉

 ヴェルトガイスト・フクシマは正式には「WELTGEIST FUKUSHIMA」で登録されている刊行物です。ドイツ語なので、Wのところを英語のVとして発音します。読み仮名は、「ヴェルトガイスト・フクシマ」であります。

 しばしば取沙汰される「フクシマ」という言葉について思うことがあります。わたしは「フクシマ」という言葉を憎悪表現だとは思っていません。これだけ騒がれたフクシマは、得体の知れぬ放射能で汚されたという意味合いを持つと思われることから毛嫌いされたりしました。現に今もそう思う人達は居るようです。

 しかしそれは、ヨコハマと同じカタカナであり、わたしにとって愛しいフクシマであります。細やかで繊細な、ただの小さな個人の悲しみが、歴史が、思い出が、暮らしが、大自然が、動物が、そしてそれらが汚染されたり奪われたりした艱難辛苦(かんなんしんく)が、凝縮されています。大事なフクシマを自分で貶(おとし)める必要は無いと思います。

 ひとりひとりが自らのフクシマを創造しましょう。

 フクシマという文字は、疑いようもなく「福島」という音を備えています。それを「憎悪」だと切り捨てること、わたしには出来ないのです。誰か他人の決めるフクシマに従い、その音フクシマをも毛嫌いして満足なら、そのかたには何も申しません。嫌う自由はあります。しかしわたしは自分がその言葉を愛しいと思っている自由を、ここに認(したた)めます。

 詳しくは、現代書館より拙編の「フクシマ発」をご覧くだされば幸いです。
 昨今のデマ騒ぎも、2行で本質を書いてあります。

原発事故後の誤ったデマ論をスマートにしよう。 吉田邦吉

いつもよりもスマートしっかりに話しますからしっかりに聞いていただけますか。タレントのくわばたりえさんが2017年3月8日のNHKアサイチにて「(福島県産につき)みんな買ってないから、私も」という報道があったようです。

これについて、人の消費基準が「安全なのに安心までいかない」という分析はネットで一定の決まった人達により毎晩のように流布している話であり、建前としては一見もっとものように思えますが、本質的とは言えず、決して論理的でないと考えます。

なぜなら、まず放射能の議論が開かれていないのであれば、都合の悪いことを隠しているのではないかという疑念が生じて当たり前なので、「安全なのに不安」という「消費者のせい問題」にすり替えようとしている、または、すり替えてしまって満足している、というように見えるのです。原発事故は安全神話から生まれたのですからね。

ある場合に大勢が買ってないからつい手が遠のいたことがあるというようにくわばたさんは言っています。ということは、おそらく「絶対に食べない」とは言っていません。福島産は実際どこにでも流通していますから、選ばないというのは、他に自分が気に入っているものがあり、そこで「福島産」のことを考えると気が重いという話ではないでしょうか。私は県内その他でそういう話を耳にします。

なぜ福島産は気が重くなるか考えたことがありますか。

そこに対して、わざわざ重ねて「安全だ」「こうでこうで、こういうデマが悪で、反原発が悪で、生産者はデマに苦しんでいる」ということを押し付けたらどうなりますでしょう。正直言って、いかにも「被害を利用した御用」的な、厄介な感じのする福島だろうと思います。そういうことがネットで差別だ云々と連呼されるから心理的に圧力がかかるのであり、イデオロギーみたいで厄介だと人々は感じているのです。

福島と聞けば何だか怪しい御用話を押し付けられるだけの、何か言えば風評被害だと叫ばれて正しい知見とやらで安全神話のお説教が始まるとしたら、こんなに関わりたくない疎ましいことはありません。原発に無関心であったことを県民は反省してないと誤解されかねません。選ばないということを言って良いんです。自由に言って良いんです。言えない空気を作ったら終わりです。選ばれません。

ですから、「食べない」という選択を保証しないと「食べる」という選択はあり得ません。今の開かれていない議論につき、都合の悪い話に蓋をして本当に安心できますでしょうか。無駄に敵を作ってはダメなのです。もっと検査方法について、オープンな議論を集約でき、議会や行政に提出・蓄積していき、ことを改善成長していく、透明で、建設的なシステムが必要でしょう。厳しい視点をもった人達がそう感じられるようできていますか。

「デマ≒反原発」は物事を混同している。

ふくしまの場合、
1、デマ……誤った情報と原発事故による営業損害
2、反原発……国家政策として廃炉や再生エネへの転換

この二つは論理的に本質的な因果関係が、ありません(むしろこんなに回復が困難な実害があれば原発はもうやめようとなるほうが自然な関係だと思いますが、とりあえずさておき)。

例えば、人を殴ってイジメた人が、殴った行為を罰せられるだけでなく、人に優しくしようという宗教をも罰せられるとしたら論理的誤りではありませんか。むろん、目の前で桃を吐き捨てられたりしたらそれは憤怒して人間自然ですし、私も悲しみの気持ちでいっぱいです。なので、いま無理にこれを認めたくなければ認めなくても良いんです。あなたの自由です。でも、その無礼な行いとこのことは、絶対イコールにはできないことなのです。

さらに例えば、福島産の食べ物を売り子の前で吐き捨てる人が原発推進だったらあなたはちゃんと「デマは原発推進が悪いんだ」と大声で連呼していけますか。していないとしたら、あなたのその主張は、論理的に誤りです。どのみち原発推進と生産物の選択は関係のないことでありますが、とにかく、因果関係を考える場合はいろんなことを考えねばならないのです。

現在、原発事故があることを「原因」とし、営業や汚染や多様なことについての「実害」がありますからそれを「結果」とし、この「因果関係」によって、東電は生産者に賠償を支払っています。非常に大勢の福島の生産者もこの因果関係を認めています。拙編「フクシマ発(現代書館)」にも書きましたが、ネットの誰も見てないことが「主たる原因」でしょうか?こちらを見てください。ことの因果関係の実際はこちらです。

責任をとるのは政府東電です。
むろん
(不足が問題ですが)
責任をとってきたのも政府東電です。
デマじゃないんです。

安易な巷のデマ論に正義感で乗らず、冷静に議論しましょう。わたしは議論に負けること、説得されることを、人格的に劣ったこととは考えないタイプです。自分を説得するほどの話をわたしは尊重し、その優秀さを自らの知識にしていきますし、どんな言論も「もし本当に開かれている議論の場」では、「それがあることを尊重する」こともできます。敵味方の二項対立は大人なら卒業せねばなりません。たとえば反原発のジャーナリストが被災者とともに苦心惨憺で互いの合意で頑張っていることも被災を悪用でしょうか。

それなのに「反原発派が悪いんだ。被害を搾取している。反原発派の正義がゆがんでいる」などとやっていけば、放射能汚染という大問題の本質から目をそらさせ、誰かを敵にすれば解決するような犠牲(スケープゴート)を作りだした単なる点数稼ぎの御用運動と言われても防げません。そういう風に考えたいことも否定しませんが、立場的な居場所的な、たとえばライターの人がいるようなこともありえるかもしれません。よくよく見てみると、そういう人達の実際は脱原発と言っていてもそんなことを自分で行動する気はさらさらなく、原発推進にも等しいような雰囲気も認められるのはまた不思議な話です。

そもそも福島県は積極的にデマ狩あら探しなどしていません。福島はそんな全体主義に染まって非国民探しをするようなことをしていません。「現在、こういう現状です。自分たちは安全基準の範囲内だと国からお墨付きを得ている範囲の農産物だけを出荷し、また、出荷できていないものもこれこれです」というのが現状です。ここには様々な議論があって当然であり、改善されていくべきものと考えます。

それを、国家の政策として原発に反対することと、放射能の議論と、どう論理的に関係しているか、きちんと説明できないような方向で混同しては、「彼らは御用的に点数稼ぎたいからああいうこと(一部のことを全部のように言う論理的デマの宣伝)をやっているんだ、被害を利用して目立ちたいからこそ、逆に反原発にそれをレッテル貼りしている」と思われても不思議ではないと思います。

むろん一部には誤った理解をしている人達もいるでしょう。でも、それを言ったら終わりがなく、一部を全部に適用させる論理的過誤をおかしやすく、いつまでもズレていく水掛け論なのではないでしょうか。「一部の何々が悪い」というのはどこにでもあることで、放射能の件で見ていると主に人としてのエチケット、その人の議論の前提としてのマナーの問題であり、反原発とソレは論理的な関係が見受けられないのです。それどころか私の周囲にいる反原発の運動をしている人達は福島の生産物をいろいろ思うことがあってもこころよく食べ、福島を愛し、心配してくれてもいます(無理に食べてるわけでもありません)。これは、敵ですか?どうして「デマ=反原発が悪」という偏った言い方ばかりするのか説得的に説明できますか?

大事なことは責任の所在です。もし「安全だ」ということにされている生産物について、なんらかの事故が生じたら、それは誰が責任をとってくれるかが、いまいち不明確なのです。たとえば原発事故後に言われている健康被害の件を思い出してください。多くの人達が困っているように思われますが、その直接的因果関係は不明、立証不能、という統計の話しか出ていないのです。つまり、安全だと言いながら何かあっても誰も責任とりませんなのです。そんな話ありますか。正直言って、安心できますか。因果関係が証明できない現状ならば、超法規的な保護救済策も必要でしょう。

デマって、流言飛語のことだと思います。

私は日本を歩いていてまずそんなデマに遭遇しません。ごくまれにいろいろな考えがありますが、それらは「都合の悪い考えや説を議論の場に入れない、という開かれてない議論のなかで起きていること」です。議論が開かれていなければ、「これが通説、あれが大勢の仮説」という「押し付け的なお説教」はいくらでもできますから、それこそ閉鎖的な安全神話の流言飛語が「デマと大差ない」という雰囲気になりませんか。

1、押し付け安全 (安全神話)
2、押し付け危険 (デマ)
これら二極化は無理の程度が等しいのです。

私が遭遇するのはデマではなく、くわばたりえさんのような消費選択であります。現代日本の消費行動は、自然栽培や有機農法やなるべくナチュラルなものが好まれ、かなり厳しい目をもった消費者が増えています。「不安な議論の場」で「安心」が、自然に生まれますか。人の気持ちを誰が無理に止められるのでしょうか。「無理しないほうが良いよ、それで良いんだよ」と言ってあげることから、まずやさしさ、人として安心の第一歩です。

最後になりますが、問題の本質はデマではありません。デマは傍論にすぎません。やりすぎれば「デマ=重い福島」という感じになってしまうでしょう。私にとってそれは不本意です。重大なことは、原発事故による実害なのです。復興とは、実害=被災を回復してこそ、復興への基礎ができるというものです。福島の生産物が選ばれない現状を回復する有効な対策は、開かれた議論の場を作り、責任の所在を明確にし、安全安心を改良していくよう建設的なことをし、敵を作らず、福島の味方を増やしていくことに、なります。

が、現在の緊急的な実害状況をまず何とかしなければなりません。
その場合には以下のことが必要です。

福島の生産者が他県と同じようにビジネスできていない不公平な状況があります。原発事故が起きて汚染がひどい状況です。たとえば、ある生産者は2ベクレル未満、ある生産者は30ベクレル、ある生産者はノーコメントと言ったような階層格差の被害のもとに置かせられ、みな同じような苦労を美談にして売れ売れとけしかけられても、大変難しいと思います。

NDの生産者だけ応援では足りないのです。
抜本的な保護も求めませんか。

福島ではまばらな汚染のほかに精神的な損害と計測の苦労が上澄みされている状況であり、共感してくれる人には良いですが何も知らない他人のために「前向きな売れる理由」にはなりません。逆なのです。売れない理由にしかなれないのです。ましてや他県の人達も生産には同じような苦労をします。比べられたら負けやすいのです。すごく不利です。一つの都道府県の生産物を選べば四十六の選ばれない生産物があります。その四十六に福島は入りやすいのではないでしょうか。

これら不公平な階層を、穴埋めするような、まず被災者が安心できる下駄を履かせるような保護救済策が福島のあらゆる生産者、生活者、双方に保障されることであり、ひいては福島県内外の自主避難者にもこころよく過ごしてもらえるよう同様にあることが、大変必要であります。こういったこと、つまり本物の復興のことですが、時間が経てば経つほど被災は隠れ、風化してボランティアも減り、いろんな関心や感覚として潜伏していきますので更に深刻であり、必要性が増していくのです。

特権ではないのです。回復的保護です。
みなと同じように普通に笑って過ごしたいのです。

そうした手厚い安心が包括的な安心を醸成するでしょう。

KOCOヴェルト文学コーナー開催 吉田邦吉

KOCOヴェルト文学コーナー開催のお知らせ

KOCOヴェルト文学コーナー開催のお知らせ

先行公開
 第一回「KOCOヴェルト文学コーナー」開催

 郷土の文学を奨励するため、郡山市FMコミュニティラジオKOCOラジにて、雑誌ヴェルトガイストフクシマの吉田と福島県郡山市FMコミュニティラジオ「KOCOラジ」のパーソナリティちばにより、不定期でささやかな文学コーナーを設けます。

1、オリジナルの感想文を葉書にて募集します。住所氏名年齢職業明記。匿名可。
2、応募作品の著作権や出版に関する権利は雑誌ヴェルトガイストフクシマに帰属します。葉書はKOCOラジに帰属し、返却いたしません。
3、申し込み資格に制限はありません。どなたでも送ってください。

第一回テーマ
 「貧しき人々の群 宮本百合子 岩波文庫」

締切
 一定数で集まり次第、発表にかえて締切とします。
送り先
 〒963-8799 私書箱76 ココラジ宛

 主催 ヴェルトガイスト・フクシマ吉田邦吉 
 後援 KOCOラジ「こころおん」ちばえみ

※「こころおん」放送は、毎週㈫午後3時と翌㈬午後9時で、FM79.1です。郡山市以外にお住まいのかたはインターネットで「サイマルラジオ→郡山市」。スマホなら「リッスンラジオ→すべてのチャンネル」またはFM聴アプリダウンロードにて聞けます。吉田が出るときは不定期ですが再放送ふくめ毎月2回は出て、現在は再放送含め毎月4回など出演しております。

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 岩波文庫はテクストですが、青空文庫だと現代口語文になっていて読みやすいので、最初はそちらから読んでみるのも良いと思います。海外のかたはEメールむろんオッケーです。吉田

ふくしま生産者の悲しみと怒り 吉田邦吉

2016年11月2日の福島民報新聞1面

福島県内の農協5団体すべて、はまなかあいづの全てが、賠償制度の継続を求めていることがわかりました。つまり、福島県で賠償を委任した生産者97%が、『福島の現実』に強く悲しみ憤っていることがわかるのです。これは分断とか対立ですか?違います。あなたも被害者になりえる「イジメ」です。たくさんの人が原発事故関連死で死んでいます。

販路の喪失や日本列島で同じスタート地点ではないなどの営業損害、汚染実害、精神的損害、内部被曝、外部被曝、放射能検査の実状、貴重な水となる山や川の汚染、海への汚染水たれながし、除染後の汚染、フクイチにある大量の放射能デブリ、30年間という長大な中間貯蔵施設、風評被害など、何から何まで挙げたら数えきれないほどあります。これら全てを包括的に入れて「フクシマの実害」と言え、それを引き起こしたのは加害者「東電」です。

もし、ふくしまで生きている人達を応援しているなら、次のようなことは控えてほしいと思います。表面だけ、放射能が大したことないとヒステリックセンセーショナルに安全を喧伝して目立ちたいなどのことや、誰か情報を間違えた人に対してことさら声を大きくして魔女狩りバッシングに終始するようなイデオロギー政治活動に福島の愛郷心を誤用して自らの劣等感から社会への私怨を追加するような混同話です。

例としては、原発事故後、情報を共有している人達のだれかを悪者にしてバッシングばかりしてきたネットの人達はこういう記事も全く無視し、いったいどこまで庶民を守ろうとする運動が憎いのか、どこかのデモが悪いなどと目をそらさせようとしています(<洗車汚泥>風評被害恐れ公表されず 2016年11月06日 日曜日 河北新報)。常にだれかをおとしめて切り捨てさせるようなことばかり言って極右思想に共感を示すような人達が、原発事故が起きたら、ネットに出てきたのです。被災地では被災があるから困っているのに、不毛ではありませんか。

なぜなら、そんなことをやっていても根本的な解決にならずむしろ政治的な対立を「わざわざ」引き起こしているだけだからです(そういうことをすると目立てるのでしょう)。そもそも被災というのは、被害というのは、政治的対立で起きるのではありません。本来の政治というのは利害調整行為であり、憎しみの押し付けではないので、誤用しないでいただきたいのです。敵を作り出す正義は卒業しましょう。静かに現実を見つめましょう。まだまだ福島は安心できません。

原発は何を出すのですか。
被害は加害で発生します。

5年も悲しみ続け6年間になろうとしています。とても長い日々です。いつもいつも日がな、寒いときには凍てつくような水をありがたく扱い、暑くて陽射しに倒れそうなときも農地に出続け、くたくたになっても重い荷を落とさず、エアコンもボーナスも有給休暇も連休もベースアップも何もかも無く、重労働に重労働を重ねて先祖代々命からがら日本の土地や文化を守ってきたことがあるために、日本の食糧は維持されています。

たとえば、海外の食糧は安いでしょう。日本の生産物が売れなくなれば日本の生産は消えますから、日本の食料を自分でまかなうという食料自給率は落ちます。するとどうなりますか。外国の言うことを聞かないと何も食べられなくなります。そうなった頃、海外の食糧は値上がりするでしょう。他にも食糧を盾にとり政治的な押し付けをされるでしょう。目に見えています。

ましてや戦争にでもなれば食糧の価格は高騰します。災害でも同じ。日本の国土を農地を生産を、長い目で大事にする社会にしませんか。世論調査によると福島県ではほとんどの人が原発再稼働に反対。つまり反原発です。もうこのようなことは起きてほしくないですし起きたら福島県どうなるかわからないからでしょう。東日本大震災もまだ警戒する必要あるそうです。よって福島県行政でも原発に依存しない社会を目指し、再生エネルギーが必死で注目されています。

それほど大変な事態なのです。こういう本当の、心の底でわきおこる地元ならでは福島の悲しみから応援してほしいと思います。なぜなら、このことは有名な一人や二人の意見ではありません。大勢すぎる生産者の事実だからです。巨大企業東京電カの起こしたレベル7世界最大の原発事故という行為があれば、上記のような被害結果があることは、一般の社会通念に照らし相当だと私は考えます。

本当の福島の被災はこういう悲しみです。被災は悲しみです。憤りでもあります。被災地が笑顔であれる日があるのは大変喜ばしいことです。しかし表層だけを声高に叫ばれても、今のままでは正直しらけます。被災地には被災者がいます。被災があるから被災地なのです。多大なる恵みをもたらす大自然は泣いています。聞こえますか。届きますか。もしよければいつまでも福島のみんなを大事に思っていてください。

それぞれの新しいフクシマを、創造しましょう。