あれこれCMの話2 吉田邦吉

このあいだ、大熊に関するエッセイで産業の話など良いじゃないかと書いた。その続きが実はこのCMの話だとお気づきになられたかたは、いないだろう(CMの話1こちら)。ひとことで言うと、産業やCM映像を民俗と捉えて、学とする。茶の間で妻とテレビを見ていて、けっこう楽しい時間を頂いているのである。

キウイが喋っている。じゃがいもと間違われたりしながらキウイたちの冒険が続いていて面白い。今回は鍛えてないキウイたちがふらふらになってトレーニングなんかしていて、どことなく、七転八倒な自分の日々も重ねてしまい、ほっこりする。バナナもオレンジもリンゴいる。CMの枠を超えたミュージカルテイスト。そう言えば福島県双葉郡大熊町の特産物には、キウイもあった。

「がんばろうとして、だけど情けないほどに失敗して恥ずかしそうな顔をして、なにかと転んだりしている、そういうすがた」は、胸を打つ。平成末期から令和初期のSNSではあまり見かけないかもしれない。

いつの間にか、より庶民的で人間模様が分かるはずのSNSのほうがいわゆるCM的な形式性を帯びだしていて、よりスマートにビジネスライクなはずのCMのほうがより庶民的で人間模様を知らせ楽しませてくれている。つまり、逆転現象が起きていることもあるだろう。

また、北海道のジャガイモたちも自分たちのCMを作るべきかと存ずる。

ゼスプリ キウイ TVCM 2020

2020年の3月ごろは、『100日後に死ぬワニ』(作 きくちゆうき)の動画がすばらしかった。歌のコラボレーションは、いきものがかり、である。

命の危険を連想させる「コロナ禍」と、「死」という言葉の入るタイトルの作品のリアルタイムで流れる時期が重なってしまい、ネットでは少し炎上もしたようだった。

たほう、リアルタイムで少しずつ作品が流れていくと、同じ時間を共有しているという共時制が高まって、人々の青春感といった思い入れも芽生えてくる。それが現代の作品として存在することの重要さでもある。それはSNSの特性でもある。

作品を見たら、不謹慎というのを超えて、一つ一つの今を大事にしようと思った。友達むろん、青い空、桃色の桜、緑色の草、茶色の道、アスファルト、ゲーム、どんなことでも本当に大事なことなのである。

映像を再生してみてほしい。最初に出てくる言葉は「生きる」。ただその時間、季節、年月を過ごしてきた、なんら特別な優秀性などなく、ただそのことの尊さに、涙が自然と溢れるような、すばらしい作品になっていることを確認するであろう。

これは何を宣伝しているのか?「生きる」こと。

短くまとめてある

5月中ごろ、にゃんこ大戦争というノホホンとした歌声の、猫ゲームのコマーシャル映像『にゃんこ音頭』がテレビに流れていて癒された。20代後半に自分はしなくなったがそれまでは何日も連続でゲーム三昧なこともあったのを思い出す。何日も連続で音楽三昧でもあったが。

にゃんこ大戦争のテレビCM『にゃんこ音頭』篇 にゃんこ大戦争7周年TVCM 第2弾 PONOS 直リンク https://battlecats.club/7anniversary/ PONOSのトップページ https://www.ponos.jp/

ネコでも人間でも、ゼスプリのキウイのように擬人化された物体でも、集団で踊っていると何だか可愛らしい。また、歌声の脱力感といったらたまらない魅力があり、ちょっとしたクセになる感じすらある。

この集団性のすごみを言ったのは農具に関しての宮本常一であろう。かれの尽力がいかに凄まじかったかはわたしもまだ学習途中であるが、このような「アニメ・シンプル・かわいい」は宮本さんの時代にはまだ無かったかもしれないと今のわたしは推測しているが、たとえばお雛様の飾り又は民芸品「あかべこ」など「かわいい物の集団性」などはあっただろう。

「和太鼓」と「集団」と「アニメかわいい」の「お祭り」だ。いかにも現代日本的であり、アニメ文化の隆盛が一般的なテレビCMにまで文字通り躍り出てきた。丸に三角に点2つと鼻ひげ口のU3つと手足おわり大変シンプル。

こういうイラストは、江戸時代などなら恐らく「へのへのもへじ」であろうし、平安後期や鎌倉時代初期なら『鳥獣戯画(チョウジュウギガ)』があるだろうから、繋がりは定かでないにしても、文化的鉱脈があるとは思われる。

最近のむかしならば、教室ではおとなしい少女少年たちのノートの片隅で踊っていたキャラクターたちであろう。それがいつの間にか漫画を賑わせ、文字情報ばかりのネットに表情を与え、テレビになって、花が咲いている。

つい日本すごいと言いたくなるが、本当にすごいのは教室の隅っこなのである。そんな少女少年たちの未来がこれからも花咲くことを祈りながら。

通巻17号 復興事業日誌 著:吉田邦吉 2020.10 初文庫

単行号(通巻17号)
2020年10月発売開始「復興事業日誌」(Fukkou Jigyou Nisshi)
126頁、定価1000円  ISSN 2189-4639

『復興事業日誌』 吉田邦吉 総合雑誌WELTGEIST FUKUSHIMA 通巻17巻 2020.10発行
『復興事業日誌』 吉田邦吉 総合雑誌WELTGEIST FUKUSHIMA 通巻17号 2020.10発行

解説
 2011年3月11日、東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所事故により著者は避難して9年目となった2019年春頃に新たに始めた、区域内部での農地関連の公共事業と思想そして日々の学習を10年目の2020年途中まで記した。直接当事者の記録は次々しなければ間に合わない。放っておけば消えてしまうだろう。ゆえ、自ら記録していき、少部数だがここに発行する。
 また、初めての文庫サイズによる出版を実現できたことで、大幅なページ数の増加(今回は約3倍)を達成することができた。

執筆・編集・発行
 吉田邦吉

ーーー

定価1000円

・注文方法
「お手紙を送る」より以下を送ってください。

1、送り先 2、氏名 3、冊数

・送料(スマートレター・ゆうメール [旧冊子小包] )

スマートレター
1~5冊まで180円

※送料はあくまで指針です。場合によって少し変わることもありますので、注文を受けてから計測し、ご連絡いたしております。

※送料を、定価×冊数に追加してお振込ください。

・振込先

ゆうちょ 18280 27500011 ヨシダ クニヨシ

・他行からの振り込み先

店名 八二八(ハチニハチ)
店番 828
預金種目 普通預金
口座番号2750001

※わたし吉田のフェイスブックへのご連絡でもありがとうございます。
前にご注文くださったかたはご連絡一本で発送いたします。

定期購読の申し込みもいつでもお待ちしております。

心よりありがとうございます。
歩みは遅くとも続けていく所存です。
何卒よろしくお願い致します

ロシア語を考えてみる【バーブシュカとバブーシュカの同異 ~Бабушка / Babushka~】吉田邦吉

みんなむかしは赤ん坊だった。

ある言葉、Бабушкаというロシア語がある。「お祖母さん」という意味だ。英語だとGrandmother。このロシア語の発音を日本の一部では「バブーシュカ」と言っていて「お婆さん」の意味で使っている。

たとえば『バブーシュカのおくりもの』(著 サンドラ・アン・ホーン 日本基督教団出版局)やチェルノブイリ関係の記事である。しかし、Sandra Ann Hornはイギリスの作家であり英語で記している。また、日本語のバブーシュカはGoogle検索結果だと「スカーフ」が出てくるのだ。

さらに、ロシア語学習の教科書では「バーブシュカ」なので、日本のロシア語話者の間ではバブーでなくバーブだということだから、わたしは疑問に思っていた。インターネットで十人以上のロシア語を母語とすると思われる人達の発音を確認してみてもバーブシュカであった。つまり、音のほうはバーブが本来なのだ。

コトバンクのデジタル大辞泉(小学館)で「バブーシュカ」は『《「老婦人・祖母」の意》女性が頭を覆うのに用いるスカーフ。三角形に折り、あごの下で結ぶ。レース編みで三角形に作ったものもある。』つまり、日本語としての「バブーシュカ」が老婦人やスカーフというのは相当に多数の人達が使用しているだろう。

老婦人とスカーフの話が出てきた。なぜなのか。おばあさんがスカーフしているからかもしれない。いずれにせよ、バブーシュカと発音する理由が分からない。JFKのWikipediaにバブーシュカ・レディーという項目を見つけた。ロシアでおばあさんがしているようなスカーフをしていたからそう呼ばれた女性がいるらしい。

想像するに、ロシアのおばあさんの写真を「こちら、バブーシュカ」と指さした場合、見ているほうは「これら多くの老女性がかぶっているスカーフのことだわ」と誤解しやすいかもしれないので、JFKや指差し会話によって広まった可能性がありえる。

wikiから書籍へ確定作業をしないが、とにかくこれは英語だ。英語で「babushka lady」という言葉があると分かった。英語でbabushkaはわたしの英和辞書にも掲載されていた。その発音が、バブーシュカであった。ロシアの老婦人、おばあさん、女性用スカーフとある。

この説明だと、「祖母」でなくなっているかもしれないが、日本の一部で使われているバブーシュカの意味合いと一致する。すなわち、日本のバブーシュカは英米……例えばアメリカナイズドという「中継地」を通していて、意味が揺れている気がするのだ。ちなみに、小学館は3つとも入れた。

いや、最初からロシア語のなかに全ての意味があるかもしれないが、発音だけ、アメリカに渡ったときにバブーシュカになって、日本に入ってきたのかもしれない。

いずれにせよ、バーブシュカとバブーシュカは「発音」が最も異なり、その主な意味としては、前者が祖母であり、後者が老婆またはスカーフなのであろうが、日本の一部ではバブーシュカがアメリカと同様、おばあさんやスカーフの意味でよく使われる。

しかし考えてみれば、日本でも、だれかが「〇〇祖母(ばあ)さん」と自分たちの身内を指して言う場合に、それを聞いている周囲の人達つまり地域のあいだで、「〇〇婆さん」の意味で、違う意味だが同じ音として、「通用する」ということがある。だから1つの音に2つの意味があるという、本来的な単語の使用のされかたかもしれない。

まあ、ロシア語を考えるというだけのことだから、あまりに細かいことは専門家に任せたいし既に書物があるかもしれないが。ついつい深夜までバブー、バーブと、赤ん坊のように言葉を思っていた。パパ、ママ、father, mom, 母、婆、……言わせたものもあるだろうが、赤ちゃんの声がそう決めたのかもしれない。

ある海外のジャーナリストによれば、大人たちが憎悪しあっていたり、そういう争いの荒れた言葉にまみれている日々が長いと、こどもたちまで理由なく憎悪感情をもってそう行動するようになるという。よくないことだ。

みんなむかしは赤ちゃんだったんだから、みんなの声はもともとは全部バブーとかバーブぐらいだったんだ。いまもそれとなにが違うのか。

いや言葉という宝の持ち腐れ、大人は赤ちゃんに劣っているのだろうかと争いごとを見ていると思わなくもないが、おばあちゃんからしたら赤ちゃんの泣き声みたいなものかもしれない。

最後になるが、これを書いたあとに、手元にあるロシア語辞典を調べてみることを忘れていた。調べてみたら音はバーブシュカであり、意味は、祖母であり、老婦人であった。よってロシア語ではスカーフ無しである。じっさいバーブシュカは多くがスカーフをかぶっているので、いわゆる一般的な印象としてのおばあちゃんに含まれている扱いだろう。

さらに言えば、アクセントには長短や強弱そして高低という多様性があり、バにアクセントを入れてバーブと言っていても聴きとるほうからするとバブーというように伸ばしているように聞こえる場合もある。つまり音やローマ字表記で英米に輸入されてそうなった可能性もある。

なお、「姑一人で鬼千匹」とも日本では言う話もあり、ロシア語にはBA BAという言葉もあり、おまけに、このロシア語のバーブシュカの綴りを見ていると、「Baby」に見えてくるから、とことん不思議だ。

※この単語の歴史について詳しいかたいらっしゃればメールフォームにてご教授ください。

※SNSで友人がこれを教えてくれた。音そのままで曲名を綴っている。わたしの文章から連想すると「老婦人」が「熟女」と解釈され、恋愛に海千山千が「秘密の女」そして「スカーフで隠す」というイメージでバブーシュカという曲にしたようにも歌詞が読める気がした。

Kate Bush – Babooshka
https://www.youtube.com/watch?v=6xckBwPdo1c

中立論・中立者の有用性 吉田邦吉

まえがき
2017年にわたしは運動し始めた。それからじわりじわりと思うようになっていることを、今朝やっと「下書きエッセイ」として書くことができた。これからこの考え方をあれこれ育てていくかもしれない。

中立的な姿勢は決して欠陥ばかりというわけではない。中立悪玉論者が知らないことは、第一に、中立というのが自分の意見を言わない又は持たないことではない、とうことである。

第二に、本来的な中立者の採る行いは、どちらの意見も淡々と並べて相対化してしまい、その意見としての濃度・エネルギーを無視するような、思惑のある司会のことでは全くない。

第三、そもそも世界の強大さを知っていたら小さな蟻の如くのような自分がSNSでどう声を上げるんだと、誰も聴いてないじゃないかと思うのは、ごく自然なことだ。ツイッターはフォロワー1万から市民権あるかというぐらいには差がある。

第四、もし、社会の多数の人々が喧々囂々で猛烈ノイローゼのような混迷になっていると見えるとき、さらなる過激な油を注いだり、熱しやすく冷めやすい次から次へ正義を食い散らかすようなことが良いとも思えない人の場合には、違う道が考えられる。

SNSはそれぞれがおこないを監視してしまうというデメリットがある。ピアプレッシャーというような言葉もあるが、とにかく、良い子でなければ人でなしという窮屈で重い空気。ひとは聖人でない。

だからと言って存在感ゼロにしてまったく社会へアプローチせず、まったく読むだけにしたり、去ってしまうのはどうだろう。それも一興だろうとは思うが、わたしの場合、すでにこうして書いている。

では、消滅でない道は考えられないか。相互に対立するどちら側につくか、というイデオロギー的な選択ではなるべくないような、中立という道もあるだろう。そもそも思考という行為は、中立的要素を持っている。

ひとが物事を決定する覚悟をそんなに一瞬一時で持てると思うほうがわたしには疑問なのだ。なにをするにも知識や情報は必要だ。資料集めは必要だ。それなのにいっちょかみせよという同調圧力ばかり強くては消耗するいっぽうである。

第五、それゆえ中立は、どちら側からも誤解される可能性も引き受けながら、どちらの意見のことも本気で考える点で、新たなる解決の方向性を探れるのである。また、どちらの意見のことも距離をとって考えるため、別の視点からの解決のことも真剣に考えられるようになる点で、発明的でもありえる。

「どう見てもこうだこれ以外は悪だ」というような頑固になって相手の話を聞く気が一切なくなった正義同士のぶつかり合いが非常に人気が出て、どんどん拡散していくネット。それは勢力争いであろうし言葉による政治であろうから民主主義でもあるだろう。

しかし同時に、賛同の数さえ得られれば、あたかもそれが正しいかのような、大きな大きな間違いを起こすことも可能にする準備になるのではないか。多数・熱狂・正しさ、この三拍子が揃ったら次に出てくるのは誰なのか。もしフォロワー数で物が決まるなら権力者のアカウントが最も正しことになってしまう。民主主義の弱点である。

そういう、意固地なぶつかりあいが、最終的にどのようなものになるのかは、歴史が何度も何度も証明している。声を上げるなとも声を上げるのが悪いとも思わない。ただここでは、両論併記害悪論や中立悪玉論を見かけるにつけ、わたしの中に浮かんでくる違和感を書きだしたくなるのである。

第六、当然ながら常に中立が良いとも思わない。いつでも中立者は中立を一旦やめて主張者となることも中立に戻ることも可能であり、中立でなく議論の場から去る、待つ、見の状態に成ることも出来る。中立でありながら意見を持つこともできる(ただし「裁く」ことと「意見を言う」ことは違うとする)。

そのような言論的存在の可能性を棄ててしまったら、全員が常にリングにあがってコーナーに居なければならない。そのような心に余裕のない状況で落ち着いた判断ができるとは思えない。感情的になることが悪いとは言ってない。ただ単に可能な限りで中立論を持とうと考えることの有用性を書いている。

世界がすでにそうあることを過去にさかのぼって変えることはできない。だが、世界に対してどういう在り方で自分が居ようあろうということを考えたり選べたりできることは、有難いことだ。

あとがき
おそらく2015・2016などの2年ぐらいは世間からわたしに対する見方はこうでなかった。土地には土地の理由があった。直接の当事者性が非常に濃厚であり背水の陣に居たからだ。後ろが崖のような場所で論争したらそれは強い意見になるに決まっている。そうなりたくてなったのではない。

むろん、ニュースやメディアを見聞きして、がっかりだとか心配だとか気持ち悪くて疲れるというような多少の感情の揺さぶられは当然ある。しかしそれに自分が倒されてしまって身動きとれなくなってしまったら時間を失ってさらに悲しい、関心をもつことが本末転倒となる。

これを書いたのは、したがって、まずは原発事故の関係でだいぶ落ち着ける状況となって精神的に復帰しだしたことが第一である。第二に、わたしは禁酒して運動し始め、時事問題に関連して、怒りとか嘆きという感情を揺さぶられることが非常に減り、さらに禁煙も達成したということは、大きい。

そうして大海の一滴は思う。ひとは学ぶ。ひとは変わる。ひとは育つ。

あれこれCMの記録。吉田邦吉

にゃんぱく宣言 日本動物愛護協会 AC ジャパン

あたかも猫が話してるように「おまえおれの飼い主ならば、おれのからだおれより管理しろ」「飼えない数を飼ってはいけない」と、さだまさしさんが飼い主へ向けてささやく。適正飼育の啓発キャンペーンかなにかなのかもしれない。温泉にでも浸かっているかのような顔をした猫。ほかの猫たちと自分たちのことを心配して見回す顔の猫。これだけの短い尺のなかで猫の本質とかわいさが凝縮されていて、笑いが止まらなくなる。啓発CMなら大成功でもあるのだろう。

2019

エーシー ぽぽぽぽーん

ACと言えば、個人的には、「3.11エーシー連発事件」と「ぽぽぽぽーんCM」である。エーシーという言葉の連発については震災直後、CMを企業が控えたため、それだけが残って、まるで不謹慎なほどの回数で頻繁に流れてしまったためだろうと推測された。意図せずしてそうなってしまったのだろう。あのころは何でも批判を受けた。加害者側ばかりでなく、高級車に乗り、回る寿司を食べたなど、避難者の日常生活から何から批判されたことも多々あった。だが当時の状況で食事に批判などどのような意味があったのだろう。一面的な被災者イメージがあったからだと思われる。国家的な未曾有の危機が濃淡あるも5年ぐらい続いたようにも感じられた。8年目のとき「あのころはみんなどこか狂っていたんだよ」そう呟いた友人がいた。むろん終わっていないとは思うが、その言葉にどことなく安堵や、言葉になりにくい複雑な領域の感情を、共有できたと思う。

ぽぽぽぽーんについては、エーシー批判を受けた後に作られ、これも2011年の3月後半ごろに流れたと思うが、やはり回数が多くなったためかエーシー事件の直後で事故発生当時だったからか、いずれにせよ、かなり賛否両論あった。反対意見も聞いたことがあり納得もする。個人的には賛成であった。このCMを見ると当時の辛さ悲しさを思い出し、けだし内容的にハートフル方面だから、一時のあらゆるせつなさというものが詰め込まれていると感じる。コトバンクのデジタル大辞泉によれば挨拶には《「挨」は押す、「拶」は迫る意で、本来、禅家で門下の僧に押し問答して、その悟りの深浅を試すこと》の意味もある。どんなときでも、挨拶は、温かく、爽やかにありたい。

2011. 03.

十六茶 そんな私でいいじゃない テント編 アサヒ飲料

ネットを開けば、だれかを糾弾せねば気が済まないような類いでのポリティカリーコレクトネス的な言葉が出てこない日はなくなった。日本は民主主義が機能しているのだから、ものを言うなとは思わない。世界と比べれば、恵まれた国に生まれ、恵まれた貨幣と教養を持ちつつ、ひとは、多少なりともあやまちや罪悪感めいたものを抱えているのではなかったのか、神や聖人か、そのくせ恨み節かと、目にする度に思う時期もある。もしかしたらそれは、現実社会での議論または生活自体が、窮屈ないし貧しくなったと感じるような社会的心理の強い表れかもしれない。しかし今のところマスコミは、意外にもものを言っているシーンに遭遇する。であれば、責任は国民のほうに返却される。

しずかに内省する類いの意味でのポリティカリーコレクトネスが掘り起こされても良いのだろう。そんなことを思っていた。それに、こういうふうに元気よく、いいじゃない、(想像するに、いろいろ学び考えた末)あなたらしくあれば、というような肯定感が得られるコマーシャルは、さっぱりしていて気持ちが良い。そう言えば歴史上の一揆で「ええじゃないか」なんていうのが、あった。いわゆる、スローガンだ。日本人は少しずつ運動や活動で苦労して苦労して今の、主権を、手に入れてきた。移動して暮らす自由、職業選択の自由、等々、人権カタログは当たり前でなく、つい最近の昔まで庶民には、選挙権すらなかったのだ。まあなんでもかんでも、それが、数千万人をこえて1億数千万人となった状態での、明るさへの手がかりなのかもしれない。敢えて指事代名詞にしておこう。

2020. 01. 30


その2へ