国民学校の少女の記憶(2)~戦後を生きる~ 高田 緑

昭和15年大東亜戦争の前年、専売局の女工さんと一緒に郡山市宇津峰山での記念写真。1列目の左から2番目が母(中島 良)。その斜め左が祖父(中島良眞)。

昭和15年大東亜戦争の前年、専売局の女工さんと一緒に郡山市宇津峰山での記念写真。1列目の左から2番目が母(中島 良)。その斜め左が祖父(中島良眞)。

国民学校の少女の記憶(1)よりつづく
敗戦国の日本に与えられた「自由」を生きる戸惑い。それは、国策によって思想も生活も統制されていた戦時中とは、180度変わったということだ。

私の母、中島 良は、国民学校5年生の時に終戦をむかえた。
翌年の昭和21年頃になると、郡山市赤木国民学校にはGHQがジープで乗り付け、度々やってきたという。戦時中に軍事教育をされてきた生徒たちの授業を監視していたのだ。日系二世の通訳を連れてきていたのを見て、少女は「非国民か!」と思ったそうだ。
戦時中、郡山市は軍郷(軍都)として日本軍の軍事拠点があった。その為、その拠点がそのまま連合軍の拠点となったのだ。
少女は6年生の終わりまで、女学校(高等女学校)に入るための準備をしていた。しかし、その年の5月に新制中学校制度に変わった為、生徒全員が受験せずに進学できるようになった。学制改革による中等教育の義務化である。戦後の教育改革は、しばらくは連合国軍のもと、つまりは占領行政のもとに行われていた。(日本国憲法が昭和21年11月に公布し、昭和22年5月施行されていたが、昭和26年のサンフランシスコ平和条約が成立するまでは、国政はすべて占領行政のもとにあった)
少女の父である私の祖父は、抑圧的なその制度にはいたく反論していたというが、少女にとってはあるがまま受け入れるしかなかった。と言うよりも、疑問を持ってはならないという軍国主義時代の教育を引きずっていた。
少女が入学した赤木中学校は、のちに芳賀中学校と合併し、郡山市第二中学校となった。中学校には、またもGHQが時々やってきたという。今度は教師へのレッドパージである。少女が慕っていた社会科の先生が学校から去っていったことを、少女は覚えている。

少女の父は、専売局(現在の日本たばこ産業㈱)の官吏であったが、戦時中は不本意ながらも国民服を着て専売局に通っていた。戦時中の専売局では、軍に支給する恩賜の煙草やわずかな量だが民間の煙草も作っていたそうだ。
そして終戦間際に結核を発症した。当時は、結核は死の病であった。食べるものがなかった時代に滋養のあるものなど手に入るはずがない。戦争が終わっても配給制度があったが、ますます食べるものが不足し、少女の母は、農家に出向いては自分の着物を芋などに変えてもらっていたそうだ。お金では物が買えない時代。食べる物を持ち得ていた農家の人の態度は、それ以前に比べて、一変したように少女は感じた。恨みはないが、その時に感じた虚しさや口惜しさは、当時の少女にとっては深く心に残っている。役人であったため、いくらでも闇物資を手に入れる手段はあったが父がそれを嫌っていたため、なお、生活は困窮していった。そんな中でも、煙草屋を営んでいた人が、父へ鶏肉や卵や鯉を滋養のためにと持ってきてくれたのが有り難かったという。
少女だけではない。日本中が飢えに苦しんでいた時代だったのだ。食べれるものなら雑草でも食べた。戦争が終わったからと言って、物資がすぐに出回ることなどなかった。
地方行政が機能していない時代。人間の本能に翻弄された時代だった、と少女は戦後を振り返る。
そんな状況が4、5年は続いていただろうか。結核の特効薬であるストレプトマイシンが世に出始めた。だが、すでに少女の父の病状はかなり悪化していた。また、保険の効かない薬だったため手に入れるのは困難を極めた。父の家系は代々医者の家系であったが、医者であった伯父でさえも自分の弟に回すほどの量の薬は入手できなかった。
昭和25年の4月1日、44歳になった誕生日に、少女の父、中島良眞(りょうま)は病死した。少女の高等学校への進学を死ぬ間際まで切望していたが、5人の弟妹を食べさせていかなくてはならなくなった家庭環境下で、少女は15歳で長女としての重責を課せられた。直前まで高等学校の受験勉強をしていた少女の人生が一転し、6月から父のいた専売局で働くことになった。父の部下だった上司のもとで。

少女は当時を振り返り、言う。戦後の苦しかったことはいくらでも語ることができる。でも楽しかった思い出はと尋ねられたら、楽しいとはどういう事なのかがわからなかったと。
少女の従兄のひとりは、戦時中、雨の神宮外苑で学徒出陣し、戦地に向かう途中に輸送船が撃沈され帰らなかった。(「国民学校の少女の記憶 外伝」
少女は当時を振り返り、言う。戦争とは、人間の運命を変えるもの。誰一人として幸せになった人間はいない。
軍国主義国の統制から自由になった戦後も、大人も子どもも何かと戦っていた。別な敵、別な“闘い”があった。それぞれの“闘い”だったのだろう。
少女は、軍歌や当時の流行歌を今も歌う。ラジオから流れていた歌を半世紀以上も経った今も忘れることができないのだろう。洗脳されたとは少女は決して言わない。ただ、素直で忠実であっただけだという。

平成28年、82歳になった少女は感じずにはいられない。ひたひたと知らず知らずに迫りくる、きな臭い社会の流れを。だから生きている限り、戦争で体験したことや二度と繰り返してはならないことを伝え続けていきたいと語る。

「昭和19年、鈴木中尉慶召記念」と記す。同僚を戦争に送る祖父の顔は険しい。(2列目の左から2番目)

「昭和19年、鈴木中尉慶召記念」と記す。同僚を戦争に送る祖父の顔は険しい。(2列目の左から2番目)

沖縄号番外編 ホームレスの話。吉田邦吉

沖縄ビーチ(201602)吉田邦吉

沖縄ビーチ(201602)吉田邦吉

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観光で老人も子供も若い男女もビーチで戯れていた。
この写真の場所じゃないが白い砂浜にエメラルドグリーン。
陽射しは強く風もある。

ふと空き缶を集めている真っ黒に日焼けした老人が歩く。
影のようだ。
自転車だったか袋に空き缶を入れて作業着で歩いていた。

おもむろに話しかける。

「暑いですね」
「ああ、そうだね」

聞き取りにくそうだ。
ハッキリ言う。

「前はどんなお仕事を?」
「土木やってた」

「今はどうして空き缶を?」
「(今度はこちらが正確に聞き取れない)」

多分、ケガをしてやめたとか言った気がした。
とにかく今は何らかの原因でやめたのだ。
集められなくなったらどうなるのだろう。

「そうですか、良い日を」

用が済んだかと思ったのか歩いていった。
ビールをおごろうかと思ったが物乞はしていない様子。
彼は保護なしつまり自活している。そう思って、やめた。

彼の語りはきっと興味深い。
チップ集めの業なんかどうなんだろうか。
それは私が甘い考えなのかもしれない。

帰ってから福島市で、友人らに会いに行った。
福島市は中心地が普通の都会だった。
路地はなかなか良い感じだった。

しかし夜の帰り道、地下通路にホームレスが5人。
ベンチで寝ていた。福島では珍しいので驚いた。
ある人は出稼ぎじゃないかと言った。

居られる場所ないのだろう。
日本では家なき子は居場所がない。
福島メディアから全然聞こえない。

住民票はどうなる。
国籍は。戸籍は。

納税しなくても人権はある。
生まれながらに。

そんな言葉が、空虚だった。
目の前のパンすらないのだ。

参院選で三宅洋平さんに寄付した領収証が届いた。
一万円という言葉が、木霊する。

偉そうな国会議員はたくさん居るが
ホームレス一人も救えないのだ。

一万円という言葉が木霊する。

経産省前のテントは最近の政府が訴え
3800万円も賠償判決が出たらしい。
500万円は払ったそうだ。ヤフーニュース
(司法と右翼と警視庁に囲まれた「脱原発テント」6年目の夏
まさのあつこ2016年8月15日)

それ以上はないから払えないとのこと。

500万円。

年金は確か6兆円が博打で消えたのではなかったか。
6兆円。

お金が人を支配している。

沖縄は貧困率全国最下位。
その沖縄、高江のテント村では
カップ麺が山積みだった。健康が辛いではないか。

山本太郎議員は気づいていただろうか。
沖縄のバイラルメディアからも私には何も聞こえない。
ジュゴンの話は大事だが。

知っているか。
軽犯罪法第一条二十二項で、こじきは禁止。

電子政府e-govで軽犯罪法と検索すれば分かる。
この法律を今まで誰も改正しようとしていないのか。

2ヶ月いた沖縄では偶然にで数人ホームレスを見た。

ーーー

沖縄ニュースは沢山シェアされている。
良いことと思う。
無料で実費でネット記事を書いてる人が貧困でなければ。

この記事は沖縄号には書いていないが。
私は沖縄の旅を売っています。
辺野古や沖縄で売ってる本はかなり買いました。お互い様なのです。
私もタダの活動はもうしたくないんです。

いつも赤字で身を切ってでももタダよりましです。
誰かが冊子の文を引用してくれるのはうれしい。
心ある人と歩くほうが良い。人生だから。
ヴェルトガイストフクシマ冊子解説

お願いだ。
この人でなし条項を改善してほしい。
二十二項だけの問題じゃないが。

Facebookで社会的発言をしたうえで100、200イイネもう十分もらった。18000いくと罵詈雑言とパクリばかり増えることもわかった。新規を増やす活動をしようと何度かしたスピーチは一部の旅人や活動家らは俄然認めてくれた。何か良い方策や秘策があるんだきっと。時間をかけて探そう、SNSのリーダーズが、新たなる活動へ進んでくれることを願う。

最近、NHKでイゾラドが放送されている。
原住民を撮影研究するのは罪かもしれない。
だが、口だけより良いではないか。
このままでは絶滅するだけなのだ。

お払い箱フクシマネトウヨを論じる。 吉田邦吉

最近は何も事件が起きないためではなく、いい加減、見るほうが飽きてきたのだろう。フクシマネトウヨ行為を働く者たちの発言が伸び悩んでいる。せいぜいリツイート要員ぐらい。当たり前だ。人々には生活がある。

フクシマネトウヨは人ではなく行為である。地域を圧迫収奪する問題があれば協力するようなどこにでも現れるローカルネトウヨとも言える。オキナワネトウヨ行為もあるだろう(沖縄によく行く美人がそう言っていた)。

人への不利益扱い論ではないからこれはレッテルではない。権力が地域を無理に収奪したり、原発や基地などを押し付けるときに出てくる一定の行為である。あれこれ理由をつけて地方を泣かすのだ。彼らは地域が嫌いなのだろう。

よろこぶのは中央の政府であるから、一時はネトウヨ行為が目立ち伸びていくように見えるが、その実はなんのことはない。権力に媚びて地元を奴隷にするだけのみにくい存在だ。

ネット右翼とは、すこし前までは、ネットで差別主義で、イジメを働き、愛国心の発言ばかりするというように考えられていた。

段々と人は気づき始めている(ローカルの場合なら愛郷心を隠れ蓑にする)。そういった行為が本当に愛国だの愛郷なのか、と。

怠惰でどうしようもない匿名集団のTwitterごときを真面目に聞いているほうもそう居なくなっていき、ましてや福島美味いツイートを持ち上げなくなるなんてのは当たり前だ。

科学的知見だとか、デマだとか、飽きるに決まっている。まったく興味がわかない。すなわち、お払い箱となったということ以外にない。散々論じてきたわたしですら興味ない。

実は風化が彼らの存在意義こそを失わせる。
よって毎晩毎晩同じことばかりツイート。

ほとんど病的である無才のオンパレード。
よほど社会を憎んでいるのだろう。
よほど自分に劣等感なのであろう。

むろん次の原発事故ではまたわいてくるだろう。その日まで使えない集団だ。地域の物売りにしてはイデオロギーすぎる。もはや、何にも使えない。なにせ魅力がない。

フクシマには分断の全面ばかりではなく、劣等感があるのだ。
ルサンチマンが逆に悪政御用をつくりだしている。

また何かしら事件が起きれば彼らは喜ぶだろう。それはなにか。簡単である。ごくわずかにいる福島第二原発の再稼働論しか彼らが御用レースを勝ち抜いて這い上がる方法はない。

何も事件ないままが続くとおそらく、モテないセントラルネトウヨになるだろう。国防とかテキトーに愛国正義する系。こちらとしてはこれらの動態は、なかなかの思考材料にはなるものの、別段おもしろくはない。

権力の嘘を暴くのにぴったりのシャーレではある。5年間の総括として整理しておく必要もあるかもしれない。が……特段興味もない。はて、次に彼らを論じることが私にあろうか。あってないような彼らの名もろくに思い出せない。

こころのブスブサイクよ、さらば。

米田のくせに… 吉田邦吉

「米田のくせに」

米田さんは酷く苦しい青春時代を過ごした。良い顔だ。良い男。体格も良い。(大人になってからは仕事も優れている)が、子供時代は成績がすこぶる悪かった。

がゆえ、何かにつけてそうイジメられた。長く、辛く、悲惨だった。大人になって一念発起、政治家の秘書にもなったが鬱にもなって、いろいろな意味で火の車となった。

鹿児島には実際、たしか被差別部落が多いという。もちろん米田さんには関係ないことだが、子供はそういう風に残酷な面があるのだと私は思った。

ヴェルトガイストの原稿を書くとき、米田さんは三点リーダ(「…」のこと)を一個だけ何ヵ所もつける癖がある。詩的とも美しいとも決して言いがたいその筆記に、人は何かを感じるに違いない。

見るほうが不快で努力を要する。
そんなことなかなかあり得ない。

ヴェルト雑誌の全体号の最新刊6号では、彼の巻頭写真の三点リーダが、50字ぐらいしかない詩の入稿時には5個ぐらいあったが、私はダブルにして2ヶ所に減らしてしまう罪を彼に対して行った。

彼の気持ちはムカついたかもしれない。だがそこは私と彼との真剣勝負。つまり、「常識vs非常識」。ここ一番の巻頭写真なのに米田さんは我を控え、何も言わずわかってくれた。

お互いに罪を犯していれば仲間じゃないかと私は思ったのだ。ただし私は彼に、一般的な、どこにでもいる物書きと同じような前ならえ右向け右にはなってほしくない。

2012年ごろだろうか。当時の米田さんのあげているFacebookタイムライン写真は、どこかからコピペしたようなものばかり。どこにでもいる有象無象ポストだった。

その時の米田さん。
その後、2年後ぐらいか。
なんと彼は社会を直接的に変えたくて政治家の秘書になる。

死に物狂いで活動、しすぎて病気になる。
話を聞けば生きていてラッキーだねとしか言えなかった。

2012

2012

2016年梅雨の顔。
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もはや彼は自由に写真を楽しみ、学び、家族を守るため必死に働きまくり、子供とカメラを大切にしている風景が増えている。

むろん、わたしから見ると、❰共に❱タバコを吸って酒を飲んでいる時間が私と米田さんのお互いに一番優れた会話をしていると感じるに至っている。

せっかく産声をあげた勇者を小さなことで去勢したくない。私が持っている独りの天才的詩人の洋書を、ウィキの分かりやすい例から、知らせたい。

E.E.カミングスの詩は、エリートな英国の教養人からすると、ほとんどバカ恥で目もあてられない、いわゆる見られないレベルのものに見えようが、よく見て欲しい。

形式美と実質美の完璧なフォルムで、常識や階級やそのほか言語学などを超越している哲学こそがわかろう。まさに、実体のエイドスなのだ。

天才とは、そういうところから、あと少しの努力と勇敢さで生まれると、私は信じている。カミングスの詩は英語が少しわかる人向け。

もし英語に興味ない人に一言だけ説明すれば、一枚の葉っぱが落ちていく寂しさを、いろんな意味を「抽象的に」❰も❱表現しているであろう。その形態は型破り。

ヴェルト5号らしいかもしれない。
そう、格好いいというのは、実績だけじゃない。

米田さんのように本物の情けなさや男の恥をきっぱりと書ける男を言う。間違いや失敗が、芸術哲学的な形式実質美として最高品質の場合もあるのだ。

見た目で足りないのがなんだ。努力もする。
ハートはわかってる。今はただ、それが良いんだ!
今度必ずこうなるに違いない。

「米田のくせに、天才かよ」

ふるえた人間は、鹿児島に米田さんと凱旋しようぜ。
カミングスのするびるてげてげな詩を紹介して終わろう。

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— E・E・カミングス『1(a leaf falls)oneliness』

タイトルがなぜ三点リーダ1つなのか。
米田さんへの友情である。

いまや、みんなの米田さんとなった。
超長い目で、よろしくお願いしたい。

終戦の日…知覧の空はとても蒼かった 米田 博

私が特攻隊というものに対して思いが強くなったのは、元特攻隊員の外園 徹さんと出会ってから

http://rkb.jp/move/move_2008/html/081020020500.html

息子さんが私が勤めていた施設に入所していて懇親会で一緒にお酒を飲んだ。「隊の人達って、どう思っていたんですか」って聞いた覚えがある。

「いろんな奴がおったよ。でもみんな勝てるなんて思ってはいなかった。」「しょうがなった。。しょうがないってしか思いようがなかったのよ。」って…

外園さんは、シミジミと話してくれた。

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2016.8.15  終戦の日  一年半ぶりの知覧

とても暑い日 、空は快晴

さすが終戦記念日、平和記念館はものすごい人

いつもなら、ひとりひとりの遺影を時間をかけて見るんだけどね…今回はできなかった。顔をみるのがすごく、しんどかった。

今の変わりゆく日本を考えると…この人達の犠牲ってなんだったんだろうね。

戦わない日本が戦闘ができる日本に変わっていく …そんな事を思っていたら、いつものように顔を見れなかった。

前田 啓大尉が遺した「俺が死んだら、何人無泣くべ」の書が胸に突き刺さる

http://s.ameblo.jp/katsuya-daii/image-10795408449-11036978408.html

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平和記念館前を少し通り過ぎた所、ここが特攻機の待機場所…ここで、特攻隊員と整備員との人生最後の会話が交わされたんだ…

「人の世は別れるものと知りながら
別れはなどてかくも悲しき」

わだつみのこえで有名な上原大尉は、ここで出撃直前これを走り書きしたんだ…

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特攻隊が飛びたった滑走路跡地

この写真の右斜め方向が滑走路、今は、サツマイモ畑になっている。

この滑走路を特攻隊員達は飛び立っていった…

ぐるっと右旋回して街の上を飛んでから、開聞岳を目印に南に向かった。

隊員達が飛んでいった空は…

とても美しく…蒼かった。

この空を…飛んでいったんだ

重い爆弾を積み、グラマンに狙われたら反撃もできない…

何を思いながら飛び立っていったんだろう…

この犠牲は、なんだったんだろうね。

この空の写真を見て想像してみて…

この空を、隊員達は飛んでいったんだよ。

「神風特攻隊員たちの遺書」https://m.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=_QOXodCXpTs

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