中立論・中立者の有用性 吉田邦吉

まえがき
2017年にわたしは運動し始めた。それからじわりじわりと思うようになっていることを、今朝やっと「下書きエッセイ」として書くことができた。これからこの考え方をあれこれ育てていくかもしれない。

中立的な姿勢は決して欠陥ばかりというわけではない。中立悪玉論者が知らないことは、第一に、中立というのが自分の意見を言わない又は持たないことではない、とうことである。

第二に、本来的な中立者の採る行いは、どちらの意見も淡々と並べて相対化してしまい、その意見としての濃度・エネルギーを無視するような、思惑のある司会のことでは全くない。

第三、そもそも世界の強大さを知っていたら小さな蟻の如くのような自分がSNSでどう声を上げるんだと、誰も聴いてないじゃないかと思うのは、ごく自然なことだ。ツイッターはフォロワー1万から市民権あるかというぐらいには差がある。

第四、もし、社会の多数の人々が喧々囂々で猛烈ノイローゼのような混迷になっていると見えるとき、さらなる過激な油を注いだり、熱しやすく冷めやすい次から次へ正義を食い散らかすようなことが良いとも思えない人の場合には、違う道が考えられる。

SNSはそれぞれがおこないを監視してしまうというデメリットがある。ピアプレッシャーというような言葉もあるが、とにかく、良い子でなければ人でなしという窮屈で重い空気。ひとは聖人でない。

だからと言って存在感ゼロにしてまったく社会へアプローチせず、まったく読むだけにしたり、去ってしまうのはどうだろう。それも一興だろうとは思うが、わたしの場合、すでにこうして書いている。

では、消滅でない道は考えられないか。相互に対立するどちら側につくか、というイデオロギー的な選択ではなるべくないような、中立という道もあるだろう。そもそも思考という行為は、中立的要素を持っている。

ひとが物事を決定する覚悟をそんなに一瞬一時で持てると思うほうがわたしには疑問なのだ。なにをするにも知識や情報は必要だ。資料集めは必要だ。それなのにいっちょかみせよという同調圧力ばかり強くては消耗するいっぽうである。

第五、それゆえ中立は、どちら側からも誤解される可能性も引き受けながら、どちらの意見のことも本気で考える点で、新たなる解決の方向性を探れるのである。また、どちらの意見のことも距離をとって考えるため、別の視点からの解決のことも真剣に考えられるようになる点で、発明的でもありえる。

「どう見てもこうだこれ以外は悪だ」というような頑固になって相手の話を聞く気が一切なくなった正義同士のぶつかり合いが非常に人気が出て、どんどん拡散していくネット。それは勢力争いであろうし言葉による政治であろうから民主主義でもあるだろう。

しかし同時に、賛同の数さえ得られれば、あたかもそれが正しいかのような、大きな大きな間違いを起こすことも可能にする準備になるのではないか。多数・熱狂・正しさ、この三拍子が揃ったら次に出てくるのは誰なのか。もしフォロワー数で物が決まるなら権力者のアカウントが最も正しことになってしまう。民主主義の弱点である。

そういう、意固地なぶつかりあいが、最終的にどのようなものになるのかは、歴史が何度も何度も証明している。声を上げるなとも声を上げるのが悪いとも思わない。ただここでは、両論併記害悪論や中立悪玉論を見かけるにつけ、わたしの中に浮かんでくる違和感を書きだしたくなるのである。

第六、当然ながら常に中立が良いとも思わない。いつでも中立者は中立を一旦やめて主張者となることも中立に戻ることも可能であり、中立でなく議論の場から去る、待つ、見の状態に成ることも出来る。中立でありながら意見を持つこともできる(ただし「裁く」ことと「意見を言う」ことは違うとする)。

そのような言論的存在の可能性を棄ててしまったら、全員が常にリングにあがってコーナーに居なければならない。そのような心に余裕のない状況で落ち着いた判断ができるとは思えない。感情的になることが悪いとは言ってない。ただ単に可能な限りで中立論を持とうと考えることの有用性を書いている。

世界がすでにそうあることを過去にさかのぼって変えることはできない。だが、世界に対してどういう在り方で自分が居ようあろうということを考えたり選べたりできることは、有難いことだ。

あとがき
おそらく2015・2016などの2年ぐらいは世間からわたしに対する見方はこうでなかった。土地には土地の理由があった。直接の当事者性が非常に濃厚であり背水の陣に居たからだ。後ろが崖のような場所で論争したらそれは強い意見になるに決まっている。そうなりたくてなったのではない。

むろん、ニュースやメディアを見聞きして、がっかりだとか心配だとか気持ち悪くて疲れるというような多少の感情の揺さぶられは当然ある。しかしそれに自分が倒されてしまって身動きとれなくなってしまったら時間を失ってさらに悲しい、関心をもつことが本末転倒となる。

これを書いたのは、したがって、まずは原発事故の関係でだいぶ落ち着ける状況となって精神的に復帰しだしたことが第一である。第二に、わたしは禁酒して運動し始め、時事問題に関連して、怒りとか嘆きという感情を揺さぶられることが非常に減り、さらに禁煙も達成したということは、大きい。

そうして大海の一滴は思う。ひとは学ぶ。ひとは変わる。ひとは育つ。

あれこれCMの記録。吉田邦吉

にゃんぱく宣言 日本動物愛護協会 AC ジャパン

あたかも猫が話してるように「おまえおれの飼い主ならば、おれのからだおれより管理しろ」「飼えない数を飼ってはいけない」と、さだまさしさんが飼い主へ向けてささやく。適正飼育の啓発キャンペーンかなにかなのかもしれない。温泉にでも浸かっているかのような顔をした猫。ほかの猫たちと自分たちのことを心配して見回す顔の猫。これだけの短い尺のなかで猫の本質とかわいさが凝縮されていて、笑いが止まらなくなる。啓発CMなら大成功でもあるのだろう。

2019

エーシー ぽぽぽぽーん

ACと言えば、個人的には、「3.11エーシー連発事件」と「ぽぽぽぽーんCM」である。エーシーという言葉の連発については震災直後、CMを企業が控えたため、それだけが残って、まるで不謹慎なほどの回数で頻繁に流れてしまったためだろうと推測された。意図せずしてそうなってしまったのだろう。あのころは何でも批判を受けた。加害者側ばかりでなく、高級車に乗り、回る寿司を食べたなど、避難者の日常生活から何から批判されたことも多々あった。だが当時の状況で食事に批判などどのような意味があったのだろう。一面的な被災者イメージがあったからだと思われる。国家的な未曾有の危機が濃淡あるも5年ぐらい続いたようにも感じられた。8年目のとき「あのころはみんなどこか狂っていたんだよ」そう呟いた友人がいた。むろん終わっていないとは思うが、その言葉にどことなく安堵や、言葉になりにくい複雑な領域の感情を、共有できたと思う。

ぽぽぽぽーんについては、エーシー批判を受けた後に作られ、これも2011年の3月後半ごろに流れたと思うが、やはり回数が多くなったためかエーシー事件の直後で事故発生当時だったからか、いずれにせよ、かなり賛否両論あった。反対意見も聞いたことがあり納得もする。個人的には賛成であった。このCMを見ると当時の辛さ悲しさを思い出し、けだし内容的にハートフル方面だから、一時のあらゆるせつなさというものが詰め込まれていると感じる。コトバンクのデジタル大辞泉によれば挨拶には《「挨」は押す、「拶」は迫る意で、本来、禅家で門下の僧に押し問答して、その悟りの深浅を試すこと》の意味もある。どんなときでも、挨拶は、温かく、爽やかにありたい。

2011. 03.

十六茶 そんな私でいいじゃない テント編 アサヒ飲料

ネットを開けば、だれかを糾弾せねば気が済まないような類いでのポリティカリーコレクトネス的な言葉が出てこない日はなくなった。日本は民主主義が機能しているのだから、ものを言うなとは思わない。世界と比べれば、恵まれた国に生まれ、恵まれた貨幣と教養を持ちつつ、ひとは、多少なりともあやまちや罪悪感めいたものを抱えているのではなかったのか、神や聖人か、そのくせ恨み節かと、目にする度に思う時期もある。もしかしたらそれは、現実社会での議論または生活自体が、窮屈ないし貧しくなったと感じるような社会的心理の強い表れかもしれない。しかし今のところマスコミは、意外にもものを言っているシーンに遭遇する。であれば、責任は国民のほうに返却される。

しずかに内省する類いの意味でのポリティカリーコレクトネスが掘り起こされても良いのだろう。そんなことを思っていた。それに、こういうふうに元気よく、いいじゃない、(想像するに、いろいろ学び考えた末)あなたらしくあれば、というような肯定感が得られるコマーシャルは、さっぱりしていて気持ちが良い。そう言えば歴史上の一揆で「ええじゃないか」なんていうのが、あった。いわゆる、スローガンだ。日本人は少しずつ運動や活動で苦労して苦労して今の、主権を、手に入れてきた。移動して暮らす自由、職業選択の自由、等々、人権カタログは当たり前でなく、つい最近の昔まで庶民には、選挙権すらなかったのだ。まあなんでもかんでも、それが、数千万人をこえて1億数千万人となった状態での、明るさへの手がかりなのかもしれない。敢えて指事代名詞にしておこう。

2020. 01. 30

通巻十四号「吉田邦吉随筆集2019」著:吉田邦吉 発売開始2020年2月

単行号(通巻14号)
2020年2月発売「吉田邦吉随筆集2019」(Yoshida Kuniyoshi Zuihitsushu 2019)
56頁、定価550円 ISSN 2189-4639

WELTGEIST FUKUSHIMA 吉田邦吉 随筆集

解説
 闘争が終わった。いかに穏当な分析や結論を出して次へ進んでいくか。学び考えた。きっかけは2つあった。そして、吉田がどんな世を築き上げていくことに貢献したいかを記した。ターニングポイント的な、記念の作品。環境省の放射線に関するサイトを学ぶエッセイ集も含む。ただし今回は原価が割れるほど費用が高くなってしまった。普段の1.4倍ほどで、56頁。

執筆・編集・発行
 吉田邦吉

ーーー

定価550円

・注文方法
「お手紙を送る」より以下を送ってください。

1、送り先 2、氏名 3、冊数

・送料(スマートレター・ゆうメール [旧冊子小包] )

スマートレター
1~5冊まで180円

※送料はあくまで指針です。60ページのもあれば40未満のもあり、文字組がハーフサイズの単行本なみに大量に入ってる組もあり(定価が違うのはこのためです)、場合によって少し変わることもありますので、注文を受けてから計測し、ご連絡いたしております。

※送料を、定価×冊数に追加してお振込ください。

・振込先

ゆうちょ 18280 27500011 ヨシダ クニヨシ

・他行からの振り込み先

店名 八二八(ハチニハチ)
店番 828
預金種目 普通預金
口座番号2750001

通巻十三号「書誌草紙」著:吉田邦吉 発売開始2018年11月

単行号(通巻13号)
2018年11月発売「書誌草紙」(shoshi soushi)
35頁、定価550円 ISSN 2189-4639

WELTGEIST FUKUSHIMA 13号「書誌草紙」吉田邦吉

解説
 吉田が読んだ書籍の紹介。ふくしま本の森図書館の図書館員として吉田は本の話をしていきたい。そのための気軽な楽しい記録という意味合いも込めた。シリーズ化していく予定でいる。※販売開始が1年以上も遅れて2020年2月になった。

執筆・編集・発行
 吉田邦吉

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店番 828
預金種目 普通預金
口座番号2750001

通巻16号 共同執筆号 2020年01月12日発売開始

20200112発売 WELTGEIST FUKUSHIMA 全体号(共同執筆号)通関16号

解説
 本号はなんといっても執筆者の人数が多く、発行までに2年も要した点で、編集長としては思い入れが深いものになった。2年間も休んで居れば存続があやぶまれても不思議でない。再びご注文くださった皆様にこころより御礼申し上げます。これからも続けていく所存です。

*執筆者*
中筋 純
古屋礼美
果南子
稲山聖修
高田 緑
津田枝里子
酒井政秋
柴田慶子
芸術先生

*編集部*
・編集者
伊藤千惠
・デザイナー
天井優志
・総務
吉田博子
・編集長、発行人
吉田邦吉

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