分断と穏健の考察 吉田邦吉

このマガジンをお読みの人達には言う必要もないぐらいの2語がある。「風評被害」と「風化防止」である。それらは、「復旧」と「復興」に重ね合わせのような概念でもある。これらについての対立構造をまず考察したい。

なぜなら、風評被害がなくなって前のように通常営業できていることを「復旧」だと言えるだろう。そして、前よりも多様に栄えていけば「復興」だと言えるからだ。たとえあらゆる被害がありっぱなしでも「多様な繁栄」は側面から大回復し得る可能性もあるにはある。※繁栄の定義は今ここで考えない。

ストレートな方向性の図 作 吉田

しかし人は話せば話すほど言葉にミスが出てくる。このミスのなかにはいわゆる失言にも取れてしまうような難しさのあるものもある。これらのほうが数としての主な「風評」に実は入るのではないかと思う。それはむろん「実害」に転化していく。簡単に言うと「風評被害と汚染」は「どちらも実害」である。

しかし、福島が全く忘れられないようにするために、風評を恐れすぎて何のアピールもしないと、今度は福島が忘れられてしまうという危うさもあるのである。関心が高くなれば人が増やすあらゆる言葉や姿勢について発信者と受信者に食い違い(齟齬・そご)が出るのは人間自然だから、避けようがないのだろうか。

ある意味では社会を恨むかのような類の悪意のあるネット政治行動があり続けるうちはそういう人達には忘れられたほうがいっそ良いという意見があるのも頷けることではあるが、今ここでは、社会通念上一般的だと筆者が思える範囲内のことを考察し、そういう対立点があり得るという指摘だけをして理解に留める。

下の図のように、風評被害が上がれば風化防止にもなってはいくのだが、風評被害それ自体が被害でもあるため、今度は「被害が風化しない」つまり「実害が続く」という二次災害に陥ってしまうのである。

この「デッドロック福島」(行き詰まり福島)とも思える状態をどう回避して回復へ向かわせていくかは、むろん、誤解をほどいていく作業であろう。ただしそれは闘争スタイルのもとには無いほうが聞くほうも聞き入れやすいと思う。押し付け安全も押し付け危険も、どちらも宜しくない。

以下は普遍的な図だろう。それほどこの問題は困難な状況でもあるのだろう。なぜ無言になるかと言えば、激しい対立というのは、たとえば、恐ろしい言葉の飛び交うところだ。そこにたれがリスクをもって言葉をなんのために発するのだろう。とりあえず忘れてしまうほうが自己生活の効果が上がって生きやすい。

ここで無理解にも行儀作法を押し付けるつまり英語でトーンポリシングを激しい主張法の人に強要したいのではない。あくまで私は落ち着いて話をしたほうが伝わるときがあるのに長年機会を逃してきたのではないかという話をしているにすぎない。表現の不自由性ではなく表現の柔軟性である。乗るか乗らないか読み手に任せる。

そこに対して「無関心になるといつか自分が被害」云々と言われても何ともどうしたら良いのか判然としない状況に居るひとの人口のほうが大多数ではないだろうか。情報社会だが、情報格差社会でもある。同じネットの場だけではなく、多様な場所で、わかりやすく説いていくことが非常に重要だと思われる。

よって下図のように、最初のエンジンを取り換えてしまえば通常営業へ繋がっていきやすく、人々の意識が回復へ向かいやすいのだろうと思われる。国の抱える問題は少ないほうが国の明るさは増して政治も安定し経済や福祉が増進するため、お金をかけてでも物事は解決していくほうが良い。

ここで私は沖縄に旅をして思ったことと比較して考えてみたい。

沖縄は基地による危険性があったり実害があったりすると思われるが、たほうで、観光や産業の活性化による復旧復興性がおそらく数十年と続いてきたのかもしれないと私は想像した。わずかでも危険という負の印象ではないどころか、人々が憧れる沖縄となった。両立しているのである。

(※ただし福島の場合には食べ物という繊細さがついて回っていることはある。ひとつのブランドを生産者たちが爪に火を灯すようにつくっているとなりで、一次産業ではない人々が「子どもが云々」を叫びながら、生産者の暮らしつまり子どもたちのことは考えてないかのようにもなることは、それは緩やかな、善意による存在の否定だとも思えるから、だから分断が深まる。)

話を戻して、このような両立性を学んで思うに、そこについてお互いに配慮しているのだろうと思われるに至った。お互いのことを(おそらく)対立的に考えていないのである。できる範囲でそれぞれが応援しあっているのではないだろうか。それはきっと、大事な心構えなのかもしれない。

また、福島に関して、国のやってることや科学的権威が信じられなくなったから、常になにかを隠しているのではないかという猜疑心に囚われてしまったという人々も全国に点在しているかもしれない。安全だと言われ続けてきて安全ではなかったからだ。無理もない。権力のことを点検するのも民主主義の役割だ。

それでは、自分で計測して高低を比較して明確な計測器まで信じないで済ませられるか?無理だ(これが高いのは本当でそれが低いのは嘘だと同じ計測器で言えるはずがない)。この8年でいよいよ、そのレベルのことを福島は発表していると言えるのだから福島のことをまず信じることを選ぶことができると私は思う。

そうであればこそ、「同じ疑いという意見の方向性をもつ市民集団」が「権力」の設置したモニタリングポストの維持を求めた、つまり「計測器を信頼した」のであり、自ら計測した放射能測定の「機械によるデータ」に信頼を置いているのだと思える。

一言で言えば、同じく「機械を信頼した」のである。ひとつを信頼したのではない。非常に多くの計測器モニタリングポストや非常に多くの食品検査機器を信頼しまくってきたのである。それは年月の蓄積とともにデータを信頼できるということに繋がる。

(※もし、それでもその機械の数値を信頼できないという場合、つまりガイガーカウンターの数値を信頼できないのだから、福島の汚染という客観的な実害データも存在しないのではないかという方向へ疑うことが必要になってくる。繰り返すが、同じ計測器なのに自分の都合よいほうだけ肯定では矛盾なのである。)

(そういう人は福島でなく自分の暮らす地域名で汚染周知の活動をしなければならないだろう。そうでなければ、正義の自己肯定感だけは自分のもので責任と被害は福島当事者たちに押し付けるということになってしまて不公平で不正義である。ジャーナリズムには良心が必要だと私は本で読んだから希望をもってそう書く。)

話を戻して、それでは、どうして思いやりよりも分断が深まってしまうか、だ。

どうして発信者と受信者の双方において、一部ではショッキングで陳腐なアイキャッチに目を奪われるような、いわば炎上現象が増えてしまうようになったのか。おそらく、じっくり教養を育てることをやめてしまったか、もしくは、共通理解の構築という共有行動への努力を怠って焦るようになってきたからではないだろうか。

SNSでも政治的な意見を続けている人々の発言のなかで段々と夜な夜な「言葉」が「悪態」に代わっていく現象をたびたび目撃するようになった。大衆という、ある種の権力に対して苛立ちが増えるようになってくるのである。なぜ何もせず投票にもいかず自分で苦しくなっていくんだといういらだちであろう。

情報技術が発達して我々の時間は、たとえばメールの送信時間だって飛躍的に速くなった。手紙や封筒を出しにいってという手間の時間がなくなった。そのため、できることが増えたはずなのに、どうしてなのか逆転したような、「時間のない状態」に陥っているのではないだろうか。

すなわち、「速くなった」ら「忙しくなった」のである。ある村が便利になったら人が都会に憧れを強くもつようになって誰もいなくなったということと似ているではないだろうか。教育を人々全員が受けられるようになっているのに教養や情報量には格差が大きいと言われる。人間の方向性というのはときどき逆方向の結果を出す。

たとえば、関心を増やすと民主主義的に解決しやすい方向性だけでなく、今度はデモクラシーの語源にさかのぼる話になる。すなわち、民衆がデマゴギーに振り回されて大混乱に落ちていって解決しないゆえ、民衆は自ら、その解決から主導権から全てを独裁者に与えてしまって、民主主義は自ら終わる時がある、そんなことに似ている。簡単に言えば「みんなで決めよう!いやもう面倒くさい!みんなで決めるのをみんなやーめた!」。

先ほどの話で言えば、激しくなって混乱していきすぎると、見た目のライク数とは違って実際には人が遠のいていき、人々は国政選挙において独裁的な傾向をもつ政党に一票を入れてしまって丸投げするときがあるというような場合だ(むろん独裁的な政党には全く入れなくなるという逆の現象もあり得るが)。

そういうことを念頭におけば人は簡単お手軽になにかライク数やRT数などだけで満足ということには繋がりにくいのではないかとも思えるのだ。巨大な数値というのは反感も大なるものである。しかし人間の脳というのはみずからが社会から認められているという肯定感を好むのでそうは問屋が卸さないだろうと思われるが。

おもいやる多様な歩き方

(※同じ方向性ではなくてあらゆる方向性からなるべくぶつからないような共存共栄状態での復旧復興はあり得るだろうということを言いたい。そんなに対立と衝突が価値あるショウビズになり続けると個人的にはあまり思えない。人間関係や人の時間的な資源などを消費しつくしてしまいタブー化して閉ざされていくからだ。開かれる穏健なほうが好ましいと思われる。)

以上すべてをもう一度さておいて、結局「現実は現実だよ」(分断は止まらないだろう)という意見もよくわかる。今の世界を視てみれば、たしかに、頭脳明晰で力ある人達でさえも解決へは至難の業なのだなと思うほかない状況だ。だがだからと言って諦めても仕方がないので正面突破の方向を考えるだけは考えておいた次第の草案でした。お読みいただきありがとうございます。

こっちさこ!そろそろ福島産を自由にしてはどうか。吉田邦吉

私は若松だけでなく平にも居る時がある。
11日は、月命日だ。福島を思う。

福島県沖でとれる海産物の状況について知識がない業者が多そうなことは非常に問題だと、この記事「福島県海産物を避ける人 流通業者が多く見積もりの可能性」(NHK 20190510)を読んで、私は思った。簡単に言えば、消費者のもとに届く前に業者のほうが心配してしまっているから流通に壁があるのかもしれない、ということだ。

以下の2つの引用から明らかなことは、業者は業務で多忙だから、検査について学習する時間がとれていないのではないか、ということである。時は金なりを知らないビジネスマンなど居ないから、当たり前の結果かもしれない。

『福島県内のほか東京・大阪・名古屋・仙台の水産関係の流通業者871社にアンケートを行い、全体の20%にあたる178社から回答を得ました。』(引用 同記事)つまり、80%が答えなかった。これはどういうことなのだろう。残念。ここにこそ力を入れる必要がありそうだ。

『福島県が海産物の放射性物質の検査を行っていることを知っているか尋ねたところ、県内の会社の93%が「知っている」と回答した一方、県外の会社では「知っている」が28%、「聞いたことはあるが詳しくは知らない」が44%、「知らない」が21%でした。』(引用 同記事)つまり、なんと20%の業者のうち半数以上は検査の詳細をあまり知らないのである。答えなかった業者80%はどうだったのだろう。

また、それなりの数の業者は『放射性物質の影響を懸念している』ともある。ということは、もしも懸念しているのであれば、検査の状況をスタディツアーできて同時に意見集約も図れるような仕組みを行政が作れるという意味で、双方は未来に向けた仕事が出来る余地があるのだろう。

私は前から提案しているが、不安な人ほど行政が主催するような検査に関するスタディツアーに参加すべきであるということだ。検査機械や現実について学び、他国と比較し、それでもまだ不安だから取引しないまたは食べないことにしたという選択をだれも責めない。水も空気も、繋がっているのだが。

重要なのは「懸念があるから、迷っている」という人達(Xグループと名付ける)なのであり、「懸念があるから、将来も絶対に食べることはない」という人達(Zグループとする)ではない、つまり食べないという選択を最初から決定していて変える気が一切ないというZグループは一定数いるはずである。

最初から決定しているZグループの人達は、そういう種類の福島的活動の一切にも関わることが余り見込めない。ない上に、もしも福島について福島の人達が嫌がることだけはしたいというのがあれば、それは傲慢だと私は思う。できるだけ福島の人達が嬉しいことや関りを持ちながら、福島の人達と一緒に悩んで考えていくことが大切だ。

むろん、食べないという選択をした人たちや間違えた情報を流しただけの人達を意図的に吊し上げることも問題だ。であればこそ、食べないという選択をした人たちは自分たちも穏健な手法でそういう種類の活動はおこなうべきである。社会では意見が多様だ。その共存には、お互いの配慮が必要なのである。そうしないと互いに乖離したり険悪になったりする。

わたしは測定をすること自体、とくだん何も思わない。福島県農家はいつも測定に苦労している。問題は測定行為の後に多いのだ。生産者でない一般の人がした測定をこれみよがしに過剰誇大に広告して人々へ見せびらかすだけ見せびらかしてそれのみが福島の真実だと騙り、よって福島を苦しめ、なおかつ、福島の人々の一所懸命さを観ようともしない無視イジメを続ける、そういう傲慢さが嫌いなのである。

逆に、安全を押し付けるような傾向の人達にも、実はあまり共感していない。ましてや脱原発の動きと意図的に衝突するような人達をこの話題の中心にすべきではない。その衝突が福島の内外を多重錯綜して苦しめ、分断を作り出していることは言うに及ばない。話がややこしくなってしまう。エネルギー政策について福島県では脱原発に決定済みであり、とにかく、分別をつけるべきだ。福島に関する産品の状況と原発政策の是非は、話を分けるべきである。脱原発なら食べないとか逆も然りのレッテル貼りポジショントークな傾向にしてはならない。

話を戻すが、「知らなくて懸念があるから、迷っている」というXグループの人達との交流をどれだけ持てるかのほうが重要である。世界というのは70億人もいて非常に広いのであって、そもそもビジネスというのは、自由意思のもと、選択する・される、という関係性があるから良いのである。つまり無理強いなど誰もしていないというか不可能だ。

そろそろだろう。もう、いい加減、そろそろ、福島を自由にしてはどうか。会津に居て、10年という時間は、非常に短いものだというのはよくわかる。戊辰戦争は150年前だからだ。いずれにせよ、外野の無責任者がなんと言おうと、福島県民たちは生きていっている。他方、子育て中だから子どもにどうしたらとか女性だからなどの関係で、不安でたまらない人達の不安をあざ笑うようなことも嫌いだ。そういうことを少しは思いやれる人だけに発言して頂きたい。

この随筆たったの1本を書いて、ウェブマガジンに出すかどうかすら、正直、今は迷う。放射線は危険なものであるという大前提から私は抜けるつもりは無い。と同時に、人災として新たに発生した放射線と、至る所に天然にある放射線と、どちらも同じく放射線だというのも、理解できる。つまりは、いつでも被ばく自体は結構しているということなのだろう。

そこから、人災につき政府東電が責任を持つべきだという意見も変わっていない。そのうえで、私たちは経済的な生産活動をおこなうにあたって、無理のない限りで穏健なことをしていきたいということだ。

最近、古語を学んで思うことがある。来なさい、という言葉の古い言い方は「来(こ)」であるそうだ。私の町では、「こっちさ来(こ)!」とは、非常によく使う。「さ」は方角だったかと思う。もっと粘り強く言いたいときは「こっちさこおよ!」である(※「来よ」という古い言い方もある)。

福島に無理して来いとは言わないが、ネットだけで判断せず、福島に来るイコール思いやりの輪の中に入ると言っても過言でない。だからその意味で、「こっちさこ!」と、ずっと受け継がれてきた古(いにしへ)の声で私は誘(いざな)い続けたい。

20170711 いわきの海 撮影 筆者

いつか幽霊に成るとき with Right to be forgotten 吉田邦吉

いつか自分が死んだ場合に備えて、SNSのアカウントをどう扱っておけばよいのか。

ネットで自分が出してきたSNSの情報というものは、自分で消すか非公開にするか、誰かが代わりにそれをおこなってくれるか等しない限り、消えることなく、何年も残ってしまう可能性がある。

(※コンピュータという機械の仕組み上、おそらく絶対に消えないのは間違いないと思うが、自己の支配下に置けるプライバシーなどの情報として、一般的にアクセス可能な状況の如何、という意味あいである)

とにかく、死後ということを考えさせられる。

いつか自分も、終わりを迎えるにあたり、自分という人間の生それ自身の全体性と連続性という現実は、途絶える。別の方向で地球内部に存続するとも言えるが。

それでも、自分が世の中に出してきた「言葉」とか「ネット上におけるイメージ」などと言った仮想空間における情報は、基本的には消えることがない。

つまり、現実が終わっても、仮想現実で自分のイメージが生き続けていくということになる。喜ばしいと思う人も居るだろうが、逆に言い換えれば、安らかに眠れないと考える人もあり得る。

かつて記録者や表現者でない人たちの無数の死は、その日常的な情報もほとんど消えていくことを意味していただろう。しかしSNS普及に伴い、かなり多くの人達が自覚なく、表現者などに近い段階でこの問題に接近してきたのである。メリットも多いが、今この話題にテーマを絞る。

死は2元化された。現実の死と仮想現実の死である。現実の死を迎えても、仮想現実の死を迎えるかどうかは、選べるのである。死なないこともできるようになった。物質としての死と、情報としての半永続性だ。

もしSNSというものが終焉を迎えて居なければ、そのうち、10代前のご先祖様のSNS情報が30年分あり、なおかつ公開されたままであるなどといったことも起きえるのかもしれない。後の世代の家族はその公開非公開を選ぶ権利などは、どう相続されるのだろうか。

いずれにせよ自分で選んでおかねば、死に際し、おそらく家族などの誰かが内容から判断して一定期間などを経て、判断するのだろう。家族が目をそむけたくなるような内容は消されるかもしれない。いわゆる生前におけるネット終活という行為の、死後版である。

前に知人が亡くなったとき、fbフレンドたちがお悔やみの言葉を書き連ねていて、SNS葬儀が行われたといった様相だった。SNSで出会い、SNSのイメージのまま、SNSで終わりも迎える。

また別の知人の知人のアカウントは、亡くなって数年が経っても命日として思い出されていた。そのアカウントがあるのかないのかは、確認していない。いずれにせよ命日的な考えや「追悼アカウント(memorialized accounts)」という考え方もあるにはある。

リスクについてはいろいろと考えられると思うが「人工知能(AI)の登場で、サイトを放置するリスクが利用者にとっても運営側にとっても高まっている」「たとえば、亡くなった親のブログの内容から、そこで今も暮らしている娘の住所を瞬時に割り出したりとか。」(引用 参考3より)

さも「仮想生前葬」というものを新たにこしらえでもするかのように、SNSやネットにおける自分に関する情報を、ネット終活つまり整理整頓するのを、一体いつにするのか、という課題も挙げられる。むろん「死」という深刻な状況でなくとも、仮想現実における引退という意味で「仮想引退」も可能だろう。仮想世界からの引退宣言もあり得る。

ネットという場所にてブラウジングしている日々に思うのは、ネットという場所を人々はどう考え、思い、用いているのか、また、ネットという場所における他者をどう考え、そして、ネットユーザーからすればもうひとつの他者である「ネットの死者(または情報のみ永続=幽霊の如く)に自分が成る又は成ることを拒否して旅立とうとするとき」、という最後の段階をどう越えていくのか、それぞれに問われているということだ。

最後になるが、「容易に自分にはどうにもできない状況で傷口に塩を塗られるようなことが多い」と言えば、福島のことだろう。福島を落とすだけのジャーナリズムまたは評論家気取りは嫌いだ。怒りも悲しみも含め、なるべく暖かい話の仕方や表現を期待したい。現場に居ないのに何でも知った気にならないでほしい。何もかもダメだなどとこちらは思ってない。

自分事として考えるというのは、福島だけの問題でないと言いながら同時に当事者性の暴力をばらまくことではない。良かれと思って間違いつつも試みとして、今回の話題のようなレベルで福島を考えようとしてくれる、ということである。半減期で下がってきた線量を全く認めたくない気持ちもあろうが、他者に残酷を強いては成らない。福島にもあなたの家族と同じ命が、生きているのだから。

To be or not to be.
After the end, that is the question.
生きるべきか、死ぬべきか。
終わりの後も、問題だ。

この画像には alt 属性が指定されておらず、ファイル名は 11-1024x686.jpg です


会津城の彼岸花 20170923 撮影:吉田邦吉

参考

1、『死んだら、私のFacebookってどうなるの?「追悼アカウント」があるらしい』ハフィントンポスト(南麻理江氏)20170821

2、08/21/2017 困難な問題(Hard Questions):オンライン上のアイデンティティは人の死後どうあるべきか Facebook  (English)

3、あなたが死んだらブログやSNSはどうなる? 「故人サイト」の専門家に聞いてみた。 古田雄介さんは語る「ネットは生者のためのシステム」 ハフィントンポスト(安藤健二氏)201803133

4、「忘れられる権利」コトバンク

乱読日記*その八  「フィクションの表土をさらって:玉城入野」    伊藤千惠

玉城さんフィクションの表土をさらって  玉城入野著 洪水企画2018.11.25発行

「うた新聞」という短歌月刊誌を発行されている玉城入野さんのはじめての著作。
2010年から2017年までのあいだに発表された文章から14遍を選んである。
映画作品論の第Ⅰ部、島尾敏雄と島尾の故郷、福島県小高についての第Ⅱ部、そして玉城さんの父上である歌人、玉城徹についての第Ⅲ部という構成からなる。

北野武作品や深作欣二への鋭い評論もさることながら、「トラック野郎」という超娯楽映画への考察が、島尾敏雄のふるさと小高に対しての想いと“故郷論”としてリンクしていくことにいたく興味をそそられる。
あまりここではつまびらかにできないけれど、ハイマートロス=故郷喪失ということばをこの本ではじめて知った。ただちに原発避難者のことが思いうかぶ。
もちろん、そのことも著者自身に関わることとしてとらえられている。

それから私がはっとしたのは、
「夢想とは、意識的に見えないものを見ようとする意志なのです。その意思こそが現実という物語の奥に隠された、真の事実を見抜くのです。」
という一節。(「ドン・キホーテをきどったパスカル・オジェは「現実なんて恐怖政治と同じ」と断言するのです。」より)
夢想ということばは虚構、フィクション、幻想といいかえてもいいかもしれない。
――見えないものを見ようとする意志――
これはとても重要なことなんじゃないか?と私はおもう。
原発事故以後、「とりあえず最新の情報を収集して、その中から一片の真実を掘り当てようと多くの日本人が躍起になっている状況」に、なんとなく薄ら寒くまずしい感じを覚える。私もそんな状況ではあるのだが。
もちろん、見えないものの裏側に必ず絶対的な真実があるわけではない。
けれども、フィクションを絵空事としてただの幻のようなものとして扱う態度は、ものごとの核心に近づくこともできないと思うのである。
巷のメディアが提供する感動、あるいは悲憤慷慨実話にからめとられないためにも。

私的な感想ばかりになってしまったが、どの章も玉城さんの豊かな文学性と誠実さが感じられ読みごたえがある。ぜひ一読を。